9.何故、それを行ったか

 黒装束の麗人はひとり、夜の森を歩いていた。昼間にはうららかな日が差し、気晴らしに散策するのも悪くない森であるが、陽が沈んだのちは様子が一変する。木々の間から差し込む月明かりはあまりに頼りなく、手元の灯りが無ければ数歩先の景色すら伺い知ることはできない。化け物のいるいないにかかわらず、多くの人は、夜の帳が降りた森に立ち入ることはないだろう。
 微かな灯りで足元を照らしながら、森を進む。その途中、彼はふと空を見上げた。暗い木々の向こうに広がる、満天の星。街灯の下では決して見ることのできない、美しい夜空。それは、陽の下を歩めない彼にとって、慰めだった。どれだけ永い時を生きても、星の数は数え終えることがなく、終わりのない命の旅路を照らしてくれる。その中に、青白く輝く星を見つけて目を細めた。
 それは、友人の瞳に似ていた。人間の身には長い、貴重な時を費やして、化け物に会いに来てくれた友人。彼とはよく、一緒に星を眺めている気がした。再会したあの日にも、そして、かつて棺の中で眠りについていた時にも。
 ――どうかしている、僕は。
 忌々しい陽の差す日中に無理して出歩いてみたり。人前でぺらぺらと虚言を並べてみたり。彼と共にいるようになってから、らしくないことばかりをしている。今も、まさに。たかだか人間のために、血を流そうとしている。だから――近付いてくる足音には気付かないふりをする。見回りの途中、夜空の美しさに目を奪われた、ただの人間のように。役目はただひとつ、ここで死人となること。無論、吸血鬼が文字通りに死ぬことはない。しかし、痛みを全く感じないわけではないし、それを楽しむような趣味もない。己の血が少しでも損なわれるのは屈辱だし、服が汚れるのなんて以ての外だ。それでも。

 彼が費やした時間と想いにはそれだけの――報いるに値する、価値がある。そう信じているのだ。

 闇夜の中に、なお暗い影が差す。普通の人間なら、ここで驚いて振り向くだろう。だから、そのように振る舞う。一瞬、瞳にその姿を捉えた刹那、身体に強い衝撃と鈍い痛みがあった。首の筋がぶちぶちと断たれる感触。呼吸の代わりに口から吹きこぼれる血液。服と皮膚と肉とをひとまとめに、鋭利な刃が引き裂いていく。視界がぐるりと回り、灯りが手を離れて放り出され、均衡を欠いた身体は地面に倒れる。濡れそぼった不快な感触は、夜露のせいか、あるいは血溜まりのせいか。百年以上ぶりに、地を倒れ伏す感触を味わっていた。間違いなく、普通の人間なら死んでいる。しかし、この身体が死ぬことはない。このまま動くことも、喋ることもできるが、今はその時ではない。
 果たして、彼らは如何にして、この悲劇に幕を引くのであろうか?



 ――影は、地面に倒れ伏す人を見下ろしていた。村の外からやってきた美しい客人は、首筋から胴を深々と斬りつけられ、あらぬ方向に顔を向けて倒れ伏している。既に事切れているか、生きていたとしてもほどなく息絶えるだろう。影は辺りを伺いながら、注意深くその遺体の傍にしゃがみこんで、まだ柔らかい四肢に触れた。軽く手足を広げた状態にして再度立ち上がると、影はゆらりと、斧を振りかぶる。その先端――赤黒い血で塗れた刃が、月明かりを鈍く反射した。

「――殺された犠牲者たちについて」

 不意に、柔らかい草を踏みしめる音が聞こえた。影は、素早く背後を振り返る。先程まで、周りに人の気配はなかったはずだった。息を殺し、手にした刃物を握り締めて構える。
「全員男だった、ということのほかは、共通点らしい共通点を見出せなかったが――今日になってようやく分かってきたよ」
 ちゃりちゃりと、小さく金属の鳴る音が近づいてくる。それが誰かは分かっていた。この場に現れる可能性のある人間は、遺体となった人を除けば、彼ひとりしかいないからだ。やがて、背の高い木々の隙間から差し込む薄明りの下に、その姿が現れた。
 焼き焦がす星のような青白い瞳。鋭い眼光は、獲物を前にした獣のそれに似ている。狼の名を持つ審問官――ルー・ループス・カウフマンは、極めて落ち着いた調子で話を続けた。
「そもそも、俺に分かるはずがなかったんだ。犠牲者の選別は、アンタの考える個人的な規則に則って行われていたからな。――そうだろ、シュミットさん」
 名を呼ばれて、影は顔をあげた。頭から被った襤褸布の隙間からは、疲れ果てたあの医者の顔が覗いているが、昼間とは随分と様子が違う。覇気が無く淀んでいた瞳には不気味な輝きがある。カウフマンは片手で銃を構えたまま、シュミットと適当な距離を置いて立ち止まった。殺人鬼は、ひとつ大きく息をついた。
「審問官カウフマン――昼間散々皆と話し込んでお疲れだったでしょう。今日は彼に任せて、ゆっくり休むはずだったのでは?」
「どうにも癖で起きちまってね。――少し話をしようぜ」
 そこで一度、審問官の眼は倒れている遺体に向けられて、すぐに目の前の殺人鬼に向き直った。シュミットは返事をしなかったが、動くこともなかった。それを肯定と見て、カウフマンは話し始める。
「気付いたことがある。事件が起き始めてからというもの――村の外から来た人間は、全員殺されている。言い換えれば、村の外から人が訪れた時、必ず殺人が行われていた、ということだ」
 殺人鬼は、沈黙している。審問官の話は続く。
「事件の捜査に来た審問官を排除しようと考えるのは分かる。しかし、殺人鬼はたまたま村を訪れた客すらも見逃さなかった。その理由は至極単純で、可能な限り村人は殺したくないと考えていたからだ。――誰だって、『昔から付き合いのある、家族同然の人間を殺したくなんかない』からな」
 僅かに、空気が揺らぐ。微かに殺人鬼は、表情を動かしたように見えた。
「それでも、アンタには人間の肉が必要だった。だから、外から客が来ない時には仕方無しに、村人を手にかけた。……女子供を避け、養う家庭がある者を標的から除外して。アンタは『殺す人間』じゃなく、『生かす人間』を選んでいた。……医者らしい、判断だよ」
 そこまでを話して、カウフマンは肩を竦めた。
「……だが、人殺しは人殺しだ。何故、こんなことをしたのか――それについては、告解室で話してもらおうか」
 シュミットは俯いたまま黙っていた。しばらくしてゆっくりと首をもたげると、虚ろな顔に微かに笑みを浮かべた。
「なるほど――しかし、審問官カウフマン。もうひとつ、考えるべきことがあったのではないですか?」
 言うが早いが――殺人鬼は一呼吸の間に肉薄し、振り上げた血濡れの斧を振り下ろす。あまりにも速い一撃に、カウフマンは咄嗟に銃を構えた。教会支給の銃は堅牢であるが、重たい斧の一撃を受けて、その銃は弾き飛ばされる。振り下ろした勢いそのまま、横薙ぎに襲ってくる追撃を、カウフマンは大きく飛び退いて躱した。柄の長い斧を構えて立つシュミットの影は、疲れた医師の姿からは想像もできない威圧感を放っている。
「戦闘の専門家であるはずの審問官が何故、村人ごときに殺されたのか――」
 一歩、また一歩。夜露に濡れた草を踏み締めて、殺人鬼が近付いてくる。
「フランツ氏もユンカー氏も、人間とは戦い慣れていないようでした。そうでしょうね。あなたがたにとっては、人間は守り、救うべきものですから」
 脱力しているようにも見える姿にはしかし、隙がなかった。ゆったりと歩きながら、シュミットは自分に向けられる攻撃に対応できるよう備えている。一朝一夕には身につけることのできない振舞い。それは即ち――彼に戦いの心得があることを意味している。カウフマンは思わず苦笑いした。確かに、これは予想外だった。ふたりの審問官は余程不意の、決死の一撃を食らったのだと思っていたが、どうやらそうでは無いらしい。シュミットは、己の技量でふたりの審問官を殺したのだ。
「ここで貴方を殺せば、目撃者はいなかったことになる。貴方に、恨みはありませんが」
 死んでもらいます――その一言で、火蓋は切って落とされた。
 銃を弾き飛ばされ、ほとんど丸腰となったカウフマンに、殺人鬼の鋭い斬撃が襲いかかる。その動きは洗練されていて、相対すれば改めて、シュミットが訓練を受けた者であることが分かる。彼の言うとおり、審問官が専門とするのは夜鬼を相手に想定した戦闘だ。人間同士の殺し合いであれば、それ用の訓練を受けた者が勝るのは当然だ。避け切るのが難しくなり、儀礼用の短剣を抜いて受けるが、一撃の重さを考えれば、繰り返し受け流すのは難しいだろう。もう少し、格闘技も真面目に訓練しておくべきだった――そう後悔しても後の祭りだ。何度か斬り結ぶうちに短剣も弾き飛ばされ、月明かりを反射ながら宙を舞い、地面に落ちた。カウフマンは、引き攣った笑みを浮かべる。刃がぴたりと首筋に突き付けられ、様式美的に、両手を上げた。
「……参った、強いなアンタ。医者は医者でも、従軍医だったとは」
「……貴方も、大したものです。せめてもの慈悲として――神に祈る時間は差し上げますよ」
 促されるままに膝をついて、緩やかに手を降ろし胸の前で組む。斧が、夜風を切る音が聞こえる。ほどなくそれは、断頭台に据えられたギロチンのように振り降ろされるだろう。

 祈る、か。不信心者の審問官とて、心底から祈ったことがないわけではない。ただ、それは神にではなかった。不朽不滅の吸血鬼に、親愛なる友人にである。孤独なとき、死の危機が迫ったとき、救ってくれたのは彼だった。夜の中で生きる彼に祈ったその時から、自分の心は『朝の神』への信仰では満たせないものになってしまった。
 今、やるべきことは。両手を塞ぐことではない。生きるために、血を流せ。そうしてこれまで生きてきて――これからも、そうして生きていくのだから。
 徐に両手を地面につけると、カウフマンは素早くシュミットの足を払う。得物を振り上げていた殺人鬼は体勢を崩した。完全に倒れ込まないまでも、それだけの猶予があれば十分だ。弾き飛ばされた短剣を拾い上げ、すぐさまシュミットに向かって投げつける。無傷のままで、彼を捕らえようなどとは虫のいい話だ。腕だけは、潰す。短剣が腕に突き刺さりシュミットは僅かに呻き声をあげた。すかさず銃を拾い上げ、短剣が突き刺さった方と反対の腕に狙いを定める。そして引鉄に力を込めたところで――傍の茂みから声が上がった。
「やめて!」
 それと同時に、黒く大きな、鋭い鉤爪の備わった腕が、怒涛の勢いで迫ってくる。
 その腕の姿形は――噂話で語られる、『人狼』の腕とよく似ていた。