8.汝は人狼なりや?

 この度の夜も何事もなく過ぎ、『人狼ライカン』による残酷な殺人事件はいよいよ、膠着状態の様相を見せている。
 そして、翌日。礼拝堂に、村人全員――特別な事情で家を離れられないものを除いて――が集められていた。呼び出しに、困惑を隠せない様子の者は多かった。全員が礼拝堂に揃った頃合いで、審問官カウフマンは口を開いた。
「お集まり頂き感謝する。来てもらったのは他でもない。今日までの調査の結果と今後の方針を、全員に共有するためだ」
 年若い審問官の声は良く通り、そして緊迫感があった。村人たちは居住まいを正し、固唾を飲んで、彼の次の言葉を待った。
「この数日の間、夜間の巡回を行った。幸運なことにその間に犠牲者は無く、『人狼』あるいはそのほかの低級な『夜鬼』の出没も認められなかった。村の周辺も見て回ったが、『夜鬼ナイトゴーント』が徘徊した痕跡も見当たらない。現状、この村は極めて平和だといえる」
 その報告に、村人たちは一様にほっとしたように息をついて表情を緩めた。次の瞬間には、喜んで手を叩くものさえいそうであったが、それは審問官の次の発言が許さなかった。
「ただ不幸なことに――どうやらユンカー氏を殺したのは、『夜鬼』じゃなかったようだ」
 空気が一気に凍り付いた。あえて素知らぬ風で、カウフマンは続けた。
「ユンカー氏の遺骨には不審な点があった。ひとつは、故意につけられた傷が認められたこと。鋸のようなもので、軽くつけたような傷だ。木材を切るとき、ここを切るぞ、と印をつけるみたいにな」
 村人たちに動揺が広がる。不安げに周囲の人間と顔を見合わせるもの、口元を手で覆って絶句するもの、言葉の意味を理解できず――あるいはそれを拒否して――野次を飛ばすもの。片手を上げて軽くそれを制しながら、審問官は続けた。
「もうひとつは、遺骨の一部が不足していること。殺人鬼は人肉を必要としていたが、ユンカーを殺したその場で全て処理することができず、どこかへ持ち去った」
 綺麗に肉が削ぎ落された遺骨から、殺人鬼がそれを渇望していたことは疑う余地がない。だから、切断した体の一部を雑に捨てるということはあり得ないはずだ。かなりの確率で、殺人鬼はユンカーの身体の一部を、自分の傍に隠している。
「――というのが、現時点での推察。これらは、殺人鬼が『人狼』だとすると少々不自然なことだ。奴らは、夜鬼は……どんなに低級でも人間の骨なんて砕いてしまえる力がある。いちいち道具を使って解体する必要が無い。それに、ユンカー氏の骨はあまりに綺麗に喰われすぎている。俺が知る限り、化け物たちの喰い方はもっと雑だ」
 人々のざわめきの合間を縫って、冷ややかな声が礼拝堂に響いた。
「随分と迂遠な話し方をするね、カウフマンさん。はっきりと口にすればいい。『人狼』なんていない。殺人鬼は、村人の中にいる――とね」
 黒装束の麗人が前に歩み出て、審問官と対峙する。カウフマンは冷静に、その薄氷色の眼を細めて返した。
「その結論は少しばかり早計だな、ロクスブルギーさん。殺人鬼が村人だとは限らない。余所者が潜んでいるってこともあるだろう」
「……心にも無いことを。君は教会のお優しい聖職者様だから、哀れな村人たちに残酷な真実を突き付けられないだけじゃないのか?」
 ロクスブルギーは村人たちを振り返り、その顔を見回して、心地の良い声で不愉快な言葉を紡いだ。
「本当は、薄々思っていたのではないのかな。『人狼』なんて、おとぎ話にしか出てこないような化け物が本当に存在しているのだろうかと。もしかしたら隣の家の人が、あるいは向かいの家の人が、殺人鬼なのかもしれない、と」
 ゆっくりと、その赤い瞳で人々を眺めて歩きながら、彼は続ける。
「……だけど、貴方たちは一様に、それを考えるのを止めたんだ。空想上の化け物に罪を擦り付けておけば、脅威に曝されている気の毒な村人でいられて、お互いにぎこちない挨拶を交わさずに済む。自分の抱いている醜い猜疑心から、目を背けることができるから――」
 言い終わるか否かのうちに、傍にいた村人が彼に掴みかかり、周囲で悲鳴が上がった。
「俺たちに責任があるっていうのか!?」
「命を狙われてるのはアタシらだよ! 余所者に何が分かるって言うんだい!」
「この村の人間は昔から一緒にいるんだ! 家族同然の間柄の奴を殺すやつがどこにいる!」
 頭に血の昇った村人たちがロクスブルギーを取り囲み、罵声を浴びせる。その声は次第に大きくなり、あの気弱な村長でさえ、憤りでわなわなと手を震わせていた。
「落ち着け!」
 このままでは手を上げかねないほど沸騰した場に、カウフマンが割り込んだ。覇気のある声に一喝され、村人たちはやや冷静さを取り戻して口を噤む。その傍らで、麗人は何事もなかったかのように、掴まれて乱れた襟元を悠々と正した。傍若無人なその様子に、審問官は苦言を呈する。
「――アンタもアンタだ。もう少し人の気持ちってもんを考えられないのか?」
「その愚昧な優しさが、人命を救えると? ……高名な教会の審問官とやらも程度が知れる。そんなだから、フランツもユンカーも、人間なんかに殺されたんじゃないか」
「ッ、おい……!」
 その物言いにカウフマンが顔を険しくしたが――それより先に、麗人の頬を強かに打った人があった。村長の孫娘のエミである。彼女は日頃優しく穏やかな表情をこれでもかと歪めて、張り裂けるような声を上げた。
「そんな言い方をしないで! ……亡くなったお二人も、カウフマンさんも――優しくて立派な人よ……あなたとは違って……!」
「え――エミさん、」
 エミの行動は、その場の全ての人を驚愕させた――頬を打たれたロクスブルギーを除いて。彼は驚くことはおろか、少しも痛がる素振りを見せず、打たれた頬をそっと撫でさすってから、溜息交じりに口を開いた。
「……乱暴なお嬢さんだな。まあいい、この不敬は見逃そう。それよりも、皆にとって有意義な話をしようじゃないか。提案があるのだがね、審問官カウフマン」
「……言ってみろ」
 怒りで興奮したエミの肩を押さえながら、審問官は苦々しげに発言を許可した。この場の和を乱したとはいえ、発言権まで奪うのは妥当ではない。数日前にこの村を訪れたばかりのこの客人は、順当に考えれば容疑者からはかなり遠い位置にいる。彼のような、良くも悪くも人目を惹く風貌の者が頻繁に村を訪れていたのなら、必ず誰かしらの記憶には残るはずであり、このように隠密裏な殺人には全くもって不利だ。ロクスブルギーはひとつ頷いてから、朗々と話し始めた。
「村人全員の家を、全て、くまなく検めよう」
 人々が再びざわめいた。それに構わず、麗人は続ける。
「夜の森を見張っていても、今となっては意味が無い。見つけるべきは『人狼』ではなく、凶器と動機。後ろめたいことがないのなら、誰も拒否する理由は無いはずだ。……もしも、頑なに拒否するような人がいたら、疑惑の目を向けられることは免れないだろうね」
 美しい顔で、薄く微笑みながらそう提案する彼の姿は、しかし今の村人たちにとっては、悪鬼のようにしか映らないだろう。当然のように、そこかしこから反対の声が上がる。見ず知らずの――それも自分たちの中に殺人鬼がいると決めつけている余所者に――私的な空間に立ち入られるのは我慢ならないという不満がありありと見えた。下手をすれば、この男が適当に言いがかりをつけたり、偽の凶器をでっちあげて、誰かを殺人鬼に仕立て上げるかもしれない。そういった懸念もあるのだろう。しかし、それは彼の方も承知のうえであったようだ。
「ああ……そんなに心配しなくても、その仕事はカウフマンさんにやってもらうよ。審問官の職分は、『夜鬼』の討伐と異教徒の排除。隠されたものを探し出して獲物を追いつめるのは、教会の犬かれの得意分野だからね」
 わざと神経を逆撫でするようなロクスブルギーの物言いに、しかし審問官は冷静だ。内心の苛立ちを押し殺し、精悍な顔立ちを一層険しくしているものの、振舞いから理性は失われていない。カウフマンはぐるりと村人の顔を見回した。先程までよりはいくらか落ち着いているものの、やはり突然家の中を全て検分されるということには、抵抗感のある者も少なくないと見えた。努めて穏やかに、カウフマンは言葉を発した。
「……確かに、ロクスブルギー氏の提案は理に適っている。可能な限り速やかに行うべきだろう。だが、皆の理解を得られないまま事を進めるつもりはない。異論があるものは申し出てくれ。納得がいくまで、話し合おう」
 審問官の言葉に、村人たちは目に見えて安堵した様子を見せた。やはり、この人は正しく神に仕える人なのだ。そういった信頼、ある種の信仰めいたものさえ芽生え始めているのかもしれなかった。それを見て、ロクスブルギーはひとつ溜息をついた。
「……そうこうしているうちに、手遅れにならなければいいが――」
 言いながら彼は踵を返し、礼拝堂を後にしようとする。
「どこへ行くんだ」
「僕の職分を果たしにだ。まさか審問官様が、『夜鬼』の痕跡を見落としたりなどしないと思うけれど、僕の方でも村の周辺を確認をさせてもらうよ。今晩は、君がゆっくりと部屋で休むと良い。では、失礼――」
 ロクスブルギーが去ると、村人たちの緊張がいくらか解けたらしい。大きく息をついたり、思い思いに口を開きはじめ、エミや数名の村人が審問官の傍へやってきて、口々に文句を言った。
「カウフマンさん! なんなんですか、あの人……!」
「見た目ばっかり綺麗だが、都会の人間はああも冷たいもんかね……」
 すっかり村人たちは、あの美しい客人を敵と見做したようだった。村というのはごく小さな社会である。意識していなくとも、誰か一人が下した判断が伝播して、村という共同体の総意となっていく。まさに今、ロクスブルギーへの敵意と不信感は、彼らの総意となりつつあった。カウフマンは村人たちを宥め、あるいは話を聞いて不安を取り除いてやりながら、礼拝堂の扉の方へ視線をやった。

 これでいい。
 これで殺人鬼は――きっとロクスブルギーを殺しに来る。