7.血で結ばれた盟友

 火照った顔を冷ますように、風を切りながら大股で歩いていく。村の中の空気は穏やかで、花の香りがほのかに漂ってくる。――惨たらしい人死にが繰り返されているとは、とても思えないほど。
 まずは挨拶と報告を兼ねて、村長の家を訪れる。昼食を済ませ、些少な事務作業を片付けていたヨハンネス村長は、昨晩の報告を聞いて頬を緩ませた。
「では……化け物は遠くへ行ったのでしょうか?」
「いや――それは断定できない。引き続き警戒は怠らないようにしてくれ」
 その言葉にヨハンネスが露骨に気落ちした様子を見せるので多少良心が痛んだが、気休めを言っても仕方がない。まして、殺人鬼は『夜鬼』ではない可能性の方が今のところ高いのだ。誰かが油断を見せれば、そこを狙って襲いかねない。かといって、警戒心を煽りすぎてもいけない。村長はこちらが考えている以上に『人狼』への恐怖心で疲弊しているようで、猜疑心による暴走の懸念が強い。権力を持つ分、そうなった場合は厄介だ。そのため、彼への対応は慎重にしなくてはならない。有効な対応策を早めに提案することを約束し、今日の報告を終えた。家を出たところでどっと疲れた心地になりながら息をついていると、植物の手入れをしていたエミがやってきた。
「カウフマンさん、お茶でもどうですか? 今から少し休憩するところなんです」
「ああ――それじゃあ、頂こうかな」
 エミは笑顔で頷いて手際良く支度を整えると、庭先のテーブルの上に紅茶と小さな菓子を並べた。お言葉に甘えて一息つくと、躊躇いがちに娘が口を開いた。
「……あの、こんな時にする話じゃないとは思うんですけど……聞いてもいいですか?」
「別に構わないよ。俺も四六時中事件の話ばかりしているわけじゃないさ」
 そう促すと、エミは村の外の――都会の街の様子をあれこれと訊ねてきた。自宅がある街も別段栄えているというわけではないのだが、この村に比べたらどこだって都会になるだろう。話を聞きながら、彼女は見知らぬ街への憧憬を募らせているようだった。目に見えて心を躍らせている様子が可愛らしい。
「都会で暮らしたいのかい?」
「……分かりません。この村のことは好きです。ただ――逃げたがっているだけなのかも」
 しっかりとした娘だと思っていたが、今の横顔はひどく不安げで、怯えていた。周囲に不安をばら撒かないよう、普段は気丈に振舞っているのだろう。この数か月のうち、年若い彼女にはこの危険な村から出て暮らすという選択肢もあったはずだ。しかし、彼女はそれをしなかった。家族や村人を見捨てるように村を出たのでは、その先に夢も希望も持てはしないということを分かっている。『人狼』が奪うのは、必ずしも人の命だけではないということだ。
「……事件が落ち着いたら、改めて考えればいい。その時には、本当の望みが分かるはずだ。――そして、そのあいだ、君の身の安全を守るのが俺の仕事だよ」
 エミは目を見張ってから、微笑んでひとつ頷いた。
「はい、そのお言葉を信じます。私たちと、貴方に神の御加護があるように」
 ふたりも審問官が殺されたあとだから、一体どれほど村人がこちらを信用してくれるかが心配ではあったのだが、幸いにもこの娘は、素直にこちらのことを信じてくれている。個人的な感情がいくらか影響しているとしても、それで気を確かに持ってくれるなら、良い意味でそれは利用させて貰うべきだろう。
「そうだ、エミさん。事件が起き始めてから、この村に出入りした人の記録なんかはあるのかな。確認したいことがあるんだが」
「分かりました。あまり細かいことまでは記録できてないと思いますが……おじいさまが何かしら持っていると思いますから、夕食と一緒にお持ちしますね」
「ありがとう、助かるよ。何から何まで世話になって悪いな」
「いいえ。こちらこそ、お話しに付き合って頂いてありがとうございます。……安心できました」
 娘の眼差しからは――自意識過剰と思われるかもしれないが――確かに好意を感じる。あらゆる意味で、この事件を長引かせてはいけないだろう。改めてそう考えながら、村長の家を後にした。

 四人目の犠牲者となった薬売りのヤーコブは、この村唯一の診療所を訪れていた。その頃、この村では既に数人の犠牲者が出ていたわけだが、彼はこの村を行商のルートから外さなかった。商売への情熱は、ときに恐怖心をも上回る。――かつて父が、そうであったように。ともあれ、その診療所の主である医者のシュミットを訪ねてみることとした。
「こんにちは。シュミットさん、いるかい」
「……ああ、どうも。カウフマンさん。お疲れ様です」
 背の高い痩せ気味の男は、覇気のない様子で出迎えた。ヤーコブのことを訊ねると、彼は顔を歪め、悼むように目を伏せて口を開いた。
「以前から、彼とは何度か取引がありました。販売している薬の改良を、お手伝いさせて頂いたこともあります。……このようなことになって、本当に」
 かつての親交を思い返して、シュミットは瞼を震わせた。関わりのあった人間が得体の知れない何かに殺害され、肉を食われて骨になったのだから、思うところはあるだろう。その後も少し話を続け、シュミットが以前は大きな街で医者をしていたこと、それなりに腕が立つと評判であったこと、歳の離れた妹の病状が思わしくなく、この村へ戻ってきたことを話してくれた。彼の視線が、奥にある閉ざされたドアに注がれた。
「……妹のリーザは調子の良い日でないと起き上がれなくて。ご挨拶もできず、申し訳ありませんが。このような状況ですので、日頃から妹の部屋は施錠しています」
 嘆息する彼の顔には、憔悴が見て取れる。正体不明の殺人鬼が村に潜んでいるかもしれないという状況で、身軽に動けない身内を抱えているのは、気が気ではないだろう。診療所の片隅には、シュミットが寝泊まりしているだろうスペースがあり、妹に不審者が近づかないよう昼夜問わず気を張っている様子が伺えた。
「気にしないでいいさ。それなら、扉の前で祈らせて貰っても? これでも聖職者の端くれなもんでね」
 少しおどけてそのように提案すると、シュミットはようやく笑みを見せて、お願いしますと言った。奥の部屋の扉の前に進み、十字を切って簡単に祈りの言葉を述べる。本当にただの気休めでしかないのだが、住民たちの心労を和らげるのも職務の一環だろう。
「ありがとうございます。あの子はもう、随分と礼拝にも行けておりませんので」
「このくらいのことなら、いつでも引き受けるから気軽に声をかけてくれ。では、引き続き気を付けて」
 シュミットは祈りを捧げて見送ってくれた。信心深い性質のようだ。
 診療所の裏手を通りかかった時、小さくコツンという音がした。その音に振り返ると、そこはちょうど、シュミットの妹が休んでいるという部屋の位置のようだ。窓辺に近付いてみると、カーテンが本当に僅かに開いており、その向こうから、微かに声が聞こえてきた。
『……教会のかた?』
 くぐもって鮮明には聞こえないが、おそらく、十代の半ばくらいの少女であろうか。窓辺に寄り添い、言葉を返した。
「ああ、そうだよ。こんにちは、リーザ」
『声が聞こえたわ。おいのりを、ありがとう。あなたにも、神の御加護がありますように……』
 それきり声は聞こえなくなってしまった。眠ったのだろうか。シュミットの話では、かなり重篤な病だということだから無理もない。もし、満足に動けない人間が襲われることになればどうなるかは勿論――言うまでもないことだ。

 一通り村の中を見て回り、異常の無いことを確認してから小屋へ戻る。日はもう傾いてきていて、ほどなく夕暮れが訪れる。化け物の蠢く時に僅かでも抗うかのように、沈む間際の西日は煌々と大地を照らしていく。その強い日差しを避けるために、ロクスブルギーはカーテンを閉め、薄暗い部屋の中で椅子に腰かけてじっと瞑目していた。部屋に入ると、精巧な彫像のように微動だにしないままの吸血鬼の唇が微かに動いた。
「……どうだった?」
「これといった収穫はなかったし、村の中に異常もない。いたって平和だよ」
 肩を竦めてそう返すと、吸血鬼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「薄気味悪いことだ。これでは僕たちの方が、影から様子を伺われているようなものじゃないか」
 ロクスブルギーの言うことは尤もだった。殺人鬼はその本性をひた隠し、こちらの動向を伺っているだろう。時間が経過すればするほど、寝首を掻かれる危険は高くなる。それを防ぐには、多少強引にでも犯人を夜闇に引きずり出し、先手を取って捕らえるほかないが――
「ルー」
 ロクスブルギーが、名を呼んだ。開かれた吸血鬼の瞳が、薄暗い部屋で爛々と輝いている。人間の心底を照らして暴くかのように。思わず、目を逸らした。
「打てる手は全て打ち、使えるものは全て使うべきだ」
「何が言いたい」
「君は殺人鬼を炙り出す方法を思いついている。けれど、個人的な感情でその方法を取りたくないと考えている。違うかな」
「それは」
 返答しようとして、言葉に詰まった。そう、彼の言う通り――方法はある。
 潜んでいる殺人鬼は当然、人を殺すその瞬間にしか本性を現さない。逆に言えば、その時には必ず姿を現すのである。ならば、『誰か』を殺さなくてはならない状況を作り上げればいい。そしてここには、その『誰か』に最適な人物がいる――殺しても決して死ぬことのない、犠牲者にうってつけな人物が。
「気にすることはない。腕や脚を切断されても――首と胴が離れてすら、『吸血鬼ドラクル』が死ぬことはないからね」
「……だからって、苦痛が無いわけじゃないだろう」
 ロクスブルギーは――他にも様々思うところはあるが――大切な、友人だ。老いることも死ぬこともないその身体が、何百年と生きてなお、心身の痛みを覚えていることを知っている。友人に死の苦痛を強いるなど、どうしてできるだろう。俯いて押し黙っていると、ロクスブルギーが口を開いた。
「僕は――君と、君の考える正義のために、苦痛を受け入れても構わないと思っている」
 穏やかな声色でそう言いながら、立ち上がった吸血鬼が近づいてきた。その囁きが、静かに耳を打つ。
「親愛なる友人ルー・ループス。君がその血で以って僕に尽くすように、僕もこの血で応えよう。君の命ある限り共に――そういう約束だからね」
 こんな状況でなければ雰囲気のある言葉だった――そう思いながら、吸血鬼の瞳を見つめ返す。当然そこには、何の迷いも恐れも無い。この状況における自分の役割はそうなのだと、受け入れている。それを心配することは、全くもって無駄な――あるいは失礼ですらある――ことだと、言外に重ねて示すように。それはそうだ。何故ならこのひとは、不朽不滅の茨の君。このひとと生きていくと決めた以上は、それを受け入れるべきなのだろう。ひとつ息をついて、己の頬を叩く。
「――……分かった。やろう」
「では、お手並み拝見といこうか。カウフマンさん」
 ロクスブルギーが薄く笑った。それに応えて笑ってみようとしたが、上手く笑えていたかは、あまり自信が無い。
 日和見はここまで、次はこちらが仕掛ける番だ。
 勝負は、明日。村人全員の目を欺いて――果たして、上手いこと『人狼』を引きずり出せるだろうか?