6.平和な朝が訪れました


 そのように意気込んで夜の見回りに出たものの、なんてことなく夜は明けた。夜鬼どころか、野良犬も猪も出てくることはなく、静かな夜闇の中を散歩しているうちに空が白んできて、夜闇が晴れていく。本来ならば喜ぶべきことなのだろうが、どうにも消化不良のような気持ち悪さを覚えながら、宛てがわれた小屋へと引き上げる。道中、村人たちはぽつりぽつりと起き出してきていて、平和な一日が始まりつつあるのを感じた。
 小屋へ戻ると、ロクスブルギーはベッドの上で、シーツにくるまっていた。労働の義務がない客人を、わざわざ早朝に起こしには来ない。無防備に横たわった吸血鬼をベッドの端に押しやって、空いたスペースに寝転がった。ロクスブルギーはまるで最初から起きていたかのように淀みなく起き上がり、こちらを見下ろしてくる。人間で言うところの睡眠も、この不朽の吸血鬼には本来必要が無い。夜通し起きているのも人間として振る舞うには不自然なので、睡眠の真似事をしていたというところだろう。
「その様子では、収穫はなかったみたいだね」
「ああ、何もなかった――昼まで寝るから、起こしてくれるか」
 そう頼むと、吸血鬼はゆっくりと瞬きをして頭を撫でてきた。ひんやりとした手のひらが心地良く、夜じゅう張り詰めていた緊張が和らいでいくようだ。
「昼までと言わず、もう少し寝ていればいいだろうに」
「そうもいかない。昨日の夜どうしていたかを、皆に聞いておかないと……」
 横たわると、順調に睡魔が押し寄せてくる。微睡んでいると、ロクスブルギーの小さな嘆息が聞こえてきた。
「はあ……仕事熱心なことだ。分かったよ。ではおやすみ、ルー坊や。良い夢を」
 呆れたような声を聞き届けて、瞼を閉じる。この、もやもやした感覚は何だろうか。何かが引っかかる。何か、見落としているような気がする――

 ――この村での『人狼』の犠牲者は、不定期とはいえ数か月の間、継続して出続けている。遡って一人目は、農夫のアントン。畑の見回りの最中に襲われた。二人目は大工のハンス。村と森とを隔てる柵を修繕しているところを襲われた。三人目は観光客のマルセル。村の歴史ある礼拝堂を遥々見に来た、その夜に襲われた。四人目は薬売りのヤーコブ。村に行商に来て、その帰り道に襲われた。五人目は、羊飼いのペーター。夜間、羊の様子を見に行った際に襲われた。
「……そして六人目が審問官フランツ、七人目が審問官ユンカー、と」
 ぱらぱらと資料を捲りながら、ロクスブルギーは片目を眇める。頼んだ通り、吸血鬼は昼時になったところで揺り起こしてくれて、今はエミが運んできてくれた昼食を頂きつつ、作戦会議の時間だった。と言っても、昨日から特に進展があるわけではないので、これまでの資料を振り返ることしかできない。新たな犠牲者が出れば情報も増えるだろうが、それを望むのは本末転倒だ。もはやひとりの犠牲者も、許すわけにはいかないのだから。
「これが『人狼』の仕業なんだとしたらとんだ悪食だと言わざるを得ないな」
「なんでだよ」
「全員男だ。年寄りも混じっているし、およそ魅力的な食事だとは思えない。言っただろう? 『人狼』が食べるのは、人の肉だ。若者の方が、そして男よりは女の肉の方が、柔らかくて美味しいに決まっているよ」
 そう言ってロクスブルギーは、グーズベリーのジャムを塗りたくったパンに齧りついた。血を吸えないので、多少は普通の食事を摂ることにしたらしい。開けた口から、鋭い牙がちらりと覗いた。
「アンタが言うと、さすがに説得力があるな」
「もっとも、僕は人の肉を食べたことは無いけれど。そんな野蛮は、獣のすることだしね」
 あくまで彼は、人間を命を奪わずに血を得ることを、ひとつ美徳しているような節がある。吸血鬼のその価値観には共感できるような、できないような――肩を竦めて、彼の捲っていた資料に目を落とす。確かに、これまでの犠牲者は全員男。そしてそのうち、審問官を除いた五名は、いずれもそこそこ年配だ。前提として、夜間にひとりで出歩くようなことを、村の女性がするはずはない――まして、犠牲者が絶えず出ている今の状況ならなおのこと――だろう。だから、これは偶然というよりは必然そうなって、犠牲者に男しかいないのだと考えることもできる。犯人は、人間の肉を必要としている。ただ単に、人目に付かず人を殺したいだけなら、必ずしも夜間に限る必要は無いだろう。しかし身体を解体し、肉を剥ぎ取る手間まで考えれば、やはり夜間が安全だ。
「今のところ、犯人は理性のある人間で、しかし人間の肉を必要としている人、ということになるね。何故必要としているか、というところは謎のままだが」
「……『夜鬼』でも飼ってるってか?」
 その可能性が、無いとは言い切れない。どういった理屈でか、化け物に心を奪われる人間というのは存在している。神話において、『夜鬼』はかつてこの世界から追放された『夜の神』の子、あるいはその信奉者の成れの果てとも言われており、それらを信奉する邪教は、今なお細々と存在している。まして――化け物に魅入られた人間なら、何を隠そうここにもいるのだから、それらを疑うべくもない。

 普通の食事をしている吸血鬼を見ることは、そう多くない。日頃あまり目にすることのない――身体のそこかしこに噛みつかれてはいるが――その牙に、つい視線が行ってしまう。その先端は驚くほど鋭く見えて、よく口の中を怪我しないものだと妙に感心をしてしまう。あの牙が、いつも首筋に沈み込んでいるのだ。無意識に、その痕に手を伸ばした。指先に触れる、傷痕の残る皮膚の表面の感触。血を吸われているときの、恍惚とさせるあの甘い痺れを思い返せば、危機感と快感が綯い交ぜになって、胸が高鳴るようだ。
 そう、別に、誰かに見つからないようにすれば、ここでロクスブルギーに血を吸わせても構わないのだ――しかし、そんなことをすれば保たれる気がしなかったのだ。
 自分自身の、理性の方が。
 
「……そう物欲しそうな眼をするものじゃないよ、ルー」
 その声で我に返る。ロクスブルギーは指先についたジャムを舌で舐めとり、その合間にちらりと視線を寄越して、口の端を少し持ち上げた。
「……さっさと事件を解決することだ。ご褒美は気兼ねのない場所の方がいいだろう?」
「な――」
 ――血を吸われることを、待ちわびている。それを指摘されて、顔が熱くなった。そんなに、物欲しそうな顔をしていただろうか? 鏡を見て確かめたいような、確かめてしまったら、いよいよ申し開きできなくなるような、そんな気がした。羞恥から逃れるために、自らの使命を思い返して勢いよく席を立つ。
「……村人以外の犠牲者の情報を集めてくる」
「一緒に行こうか?」
「い――いい。ひとりで行ってくる」
「そう。いってらっしゃい」
 珍しくそうと分かるほど愉快そうな笑みを浮かべて――ロクスブルギーはひらひらと手を振った。