10.銀の銃弾が撃ち抜くものは
腕の一本、あるいは身体の半分が駄目になる覚悟をした。しかし、呼吸を三度繰り返しても身体を痛みと衝撃が襲うことはない。カウフマンが薄目を開けると、今まさに振り下ろされんとされていた巨大な狼の腕が、棘の生えた茨のようなものに縛り上げられている様子が視界に映る。
そしてその巨腕は――ひとりの小柄な少女の身体から、関節が捻じ曲がったかの様に、不格好に生えてきていた。力を振り絞っているにもかかわらず、拘束を振り解けない少女が歯噛みしているのを見て、先に口を開いたのはシュミットだった。
「リーザ、どうして」
「お、にい、ちゃ――うっ、ウうッ――アァーッ!」
少女は苦悶の声を上げて、腕を振り回そうとしていた。しかし、それは叶わない。奇怪な腕には細い茨がきつく食い込み、動きの一切を封じていた。さらにその茨は、徐々に少女を引っ張り上げると手近な木の幹に磔にしてしまった。シュミットが駆けだして少女に近寄ろうとしたところで、闇の中から静かな声が響いた。
『近付くな』
どろりと、夜闇が蠢く。目に見えない扉を潜ってきたかのように――突如としてそこに現れたのが殺したはずの人物だったので、シュミットは息を飲んで足を止めた。カウフマンは当然、そのひと――ロクスブルギーが死んではいないことを分かっていたので、目に見えて驚くことはなかったが、心情としてはいくらか安堵が――絶体絶命の状況を切り抜けたこともあって――あっただろう。息をついて、静かに口を開いた。
「……悪い。事が済むまで、出てきてもらうつもりはなかったんだが」
「そうも言っていられなかったから、仕方がない。まさか、犯人がふたりいたとは」
やり取りを見ていたシュミットは唖然としながら、審問官と、その友人を名乗っていた『何か』の顔を交互に見やる。自分が殺したはずのそのひとが人間ではなかったのだということに気が付いて、俄かに震えだした。致命傷を与えてなお、傷ひとつない姿で再び立ち上がり、人ならざる力を行使する。それらから導き出される答えは、自ずと限られてくる。
「まさか――貴方は……『吸血鬼』、なのですか」
ロクスブルギーが視線を向けると、殺人鬼は思いもよらない反応を見せた。シュミットは震えながら、縺れた足どりで吸血鬼に近寄ると、膝をついて足元に縋りついた。
「お――お願いです、夜鬼の王。お助けください……ッ、どうか妹をお助けください……!」
男の発した言葉に、ロクスブルギーは少し顔を顰め、目を細めて言った。
「妹というのは……そこの娘のことか?」
視線が、茨に絡めとられている少女――リーザに注がれた。華奢な身体から伸びる巨大な獣の腕。地面を踏みしめている足は変色して黒ずみ、そこにもやはり獣のような爪が備わっている。あどけない少女の顔はそのままだが、到底その姿を「普通の少女」だとは認められなかった。茨を振り切ろうと身動ぎし唸り声をあげている少女に、カウフマンは顔を歪めて一歩近づく。それに対して、少女は威嚇するように吠えた。焦点の定まらない眼差しは、彼女が深い狂気に囚われていることを示している。
「説明してくれ、シュミットさん。彼女は一体――」
シュミットの妹、リーザは重い病で臥せっている。というのが、今この村にいる者たち全員の認識だ。しかし、おそらくそれは間違っている。間違っているということは分かるものの、それが何故、どのように起きたことなのかは理解が追い付かなかった。カウフマンの問いに、シュミットが重々しく口を開いた。
「……仕方がなかった。リーザの病気は、治せなかった。少なくとも、現在の医学ではもう。……だから――」
その先を言い淀むかのように、男は一度言葉を切る。その理由は、先の言葉を聞けば明白であった。彼は、理解していたのだ。それが、常軌を逸した行為であるということを。
「夜鬼の肉を、食べさせた」
「は――食わせた……? 夜鬼の肉を?」
驚き、険しい表情を浮かべる者たちから目を逸らすように、あらぬ方向へと視線を向けながらシュミットは語る。
「……軍では、古くから研究されていたことだ。夜鬼の頑強な特性を、兵士に与えることはできないか。驚異的な再生力を用いて、負傷した兵士を治療できないか――その技術が実用化されれば、我々はより豊かになるはずだと」
確かにそれは、夢のような話であった。しかし、未だかつてそのような技術の存在は、日の目を見てはいない。即ちそれは、少なくとも今日まで表に出せるような成果の発見には至っていないことを示している。夜鬼の死骸は速やかに、一片も遺すことなく灰にせよ、と教会では教えている。その真偽がどうであれ、一般に夜鬼の血肉は不浄で穢れたものとされている。その血肉を利用する、まして口にするなど――とても信じがたいことだった。カウフマンは思わず声を荒げた。
「アンタ――何の確証も、命の保証すらもないのに――自分の妹に食わせたのか!」
「何もしなくても、死を待つだけだったんだ! こんなに幼いうちに、村の外を少しだって見ないまま、この子が死ぬのを黙って見ていられなかった……! どんなおぞましい手段を使ってでも、妹を死なせられなかった!」
落ち窪んだ目を見開いて、シュミットは吠えるように訴えた。
「結果、リーザは生き延びた。夜鬼の血肉によって、絶望的な病の淵から立ち直ったんだ! たとえ日の出ている間しか正気を保てず、夜になれば人の肉を食べたがるようになっても――」
この子は、私の大切な妹なのだ。消え入りそうな声で、シュミットが呟く。言葉を失い押し黙るカウフマンの横で、吸血鬼は深い溜息をついた。
「……愚かなことを」
獣と化した少女に視線が集まる。唸り声をあげる飢えた口からは、ぼたぼたと唾液が垂れていた。この娘が、何人もの人間を平らげた。肉の一片まで喰らい尽くして、骨にした。その行いは、許されるものではない。どれほどいたましい事情が、この兄妹にあったのだとしても――
再度、シュミットは額を地面に押し付けて、ロクスブルギーに懇願した。
「夜鬼の王よ……お願いします……! どうか貴方の血を、力を、妹にお授けください……! 理性を取り戻せば、妹は普通に生きてゆけます。吸血鬼の力の幾ばくかでもあれば、きっと、きっと叶うはずです」
今すぐにでも切れそうな、蜘蛛の糸に縋るように。その叫びは切実であった。しかし、吸血鬼の言葉は淡々と、残酷な真実を述べた。
「残念だが――そのようなことは不可能だ。何百年もの年月を経た『吸血鬼』の血は、命あるものすべてに対して致死の猛毒だ。夜鬼も例外ではない。それに……」
茨のように鋭い視線に、微かに憐れみの色が滲む。
「犠牲者たちを殺したのが貴方でも――彼女はもう、人間を喰らってしまったのだから」
シュミットは、絶望を貼り付けた顔で吸血鬼を見上げる。対するロクスブルギーの表情は冷淡で、それは同時に、静かに諭すようでもあった。
彼も、とっくに分かっていたはずだろう。たとえ妹が自我を保ち続けられるようになったとしても――いや、そうであればなおのこと、以前のように生きることはできはしないだろうということを。自身が、七人もの人間の肉を喰らった。それは、普通の人間ならば到底受け入れ難いことである。受け入れてしまえるのならば、普通の人間だとは言い難い。どちらにせよ、彼女が救われる結果になることはなかったのだ。
「う――あ、ああ――!」
闇夜の森に、獣のような慟哭が響く。たったひとりの妹のために殺人鬼となる道を選んだ彼に、おいそれと言葉をかけることはできなかった。その叫びの合間に、ぽつりと小さな声が聞こえた。微かに、しかし驚くほどはっきりと。
「――おにい、ちゃ」
その声の方へ、シュミットは向き直る。茨に縛られた少女の目には、微かに理性と穏やかな光が宿っていた。
「リーザ……リーザ! 私が分かるのか……!?」
少女が小さく微笑んで頷き、男は縺れた足で近付いていく。その歩みを、今度は止められなかった。シュミットは少女の傍で蹲りながら、すまない、すまないと繰り返し謝罪の言葉を述べた。病を治すことができなかったことに対してか、その身を人ならざるものに転じさせてしまったことへ対してか――あるいは、その両方か。少女は穏やかな笑みを湛えたまま、おそらく満足に動かすことができないのであろう唇で、懸命に言葉を紡いだ。
「お、おお、おね、おねがい、です。おにい、ちゃん、ゆるして、ゆるし、て、ください」
少女の目から、透明の液体が滲み出す。時折不安定に焦点を失う瞳から大粒の涙を零して、少女は訴えた。
「たべ、たべたべたの、わたし、なの……みんな、食べちゃッて、おいしかった、わるいの、わたしなの、だから、」
――お兄ちゃんを、許してください。
カウフマンは奥歯を噛み締めて、唇を引き結ぶ。弾倉に収められた、銀色の弾を確認する。それは夜鬼を殺すために作られたもの。夜鬼を殺すことが、審問官に課せられた使命である。この少女を救う術は、もはやひとつしかない。望まぬ咎を重ねる前に――終わらせてやること。祈るように瞳を閉じ、ひとつ息を吐く。救いのない兄妹へ歩み寄る、その姿はさながら処刑人だ。少女はいたいけな顔で審問官を見上げ、全てを承知した様子で瞼を伏せた。
「どうか――安らかに」
銃口を、やわらかな額に向ける。引鉄に指をかけ、一瞬の躊躇ののち、力をこめる。銃声が闇夜に虚しく響き渡り、銀の弾丸は少女を撃ち抜いた――はずだった。