11.夜の終わりに祈りの言葉を

 銃口を塞ぐように、翳された手があった。その手はロクスブルギーのもので、撃ち出された銀の弾丸は彼の掌を深々と抉りながらも、その勢いを殺されそこに留まっている。夜闇に銃声が尾を引く中、白い掌からは深紅の血が滴り落ちる。その場の全員が唖然としていたが、やがてカウフマンが顔面蒼白になって口を開いた。
「ロクスブルギー!? 何を……!」
 今放たれたのは、教会謹製の特殊聖隷弾。通常の銃弾よりもさらに、夜鬼への殺傷効果を高めたものだ。審問官が血相を変えるのも無理はない。吸血鬼ロクスブルギーがいかに不死だとしても、痛みを全く感じないわけではない。事件解決の糸口を得るために、彼には致死の苦痛を耐えさせたばかりでもある。その傷すら跡形もなく治ってしまうのだとしても、そう何度も友人の身体を傷め付けるのは全く本意ではない――そんな個人的な思いが、カウフマンにはある。その杞憂を知ってか知らずか、吸血鬼はこともなげに口を開いた。
「流石に――多少、痛かったな」
 いま一度掌を強く握り締め、吸血鬼は手を開いた。小さく潰された銀の弾丸は星屑のようにその手から零れ落ち、滴る血は己の還るべき場所を理解しているかのように、傷口へと戻っていく。時間を巻き戻したかのようにその傷が消えた頃、動揺を張りつけた顔の審問官にロクスブルギーは向き直った。
「彼女を夜鬼だと思えないのなら、撃つべきではない。君の仕事は、『人を殺す』ことではないのだから」
 見透かしたかのように、カウフマンの内心の葛藤に言及した吸血鬼は、さらにこうつけ加える。
「その役目は、化け物がやろう。君は君の役目を果たすといい、ルー・ループス・カウフマン」
 ロクスブルギーは少女を縛りあげていた茨の拘束を緩める。それらは蠢きながら主の身体へと戻ってゆき、四肢の均衡を欠き、抵抗の意思もないらしいリーザの身体は、その場にへたりこんでしまった。
「俺の、役目――」
 人が人を、弔う為にすべきこと。死にゆくものの心を安らかたらしめ、遺されるものの悲しみを和らげる。その為に、己ができること。そのひとつの答えに辿り着き、カウフマンは瞑目してゆっくりと銃を下ろした。
 審問官は少女に近付き、片膝をついて目線を合わせる。そして、自身が首から提げていた十字架を差し出した。驚いたように目を見開いたリーザに、カウフマンは穏やかに微笑みかける。
「……眠る前の、祈りを」
 その言葉に、少女は顔を歪めて、何度も小さく頷いた。身体にそぐわない巨腕を震わせながら、その小さすぎる十字架を受け取る。それから、カウフマンは蹲っているシュミットの肩を静かに叩く。彼女を見送らなくてはならないのは、他でもないこの男だ。彼はそれでもしばらく蹲っていたが、少女に手を握られたことで、ようやく顔を上げた。もとより健康そうではなかった男の顔は、この夜の間に十数年も時を経たかのように、一層くたびれたように見えたが――それでも、彼だけは見届けるべきだった。
 兄妹が膝をついて手を組んだのを見て、審問官は立ち上がる。少し離れた場所に立ち、彼らと向かい合って祈りの言葉を述べる。日頃この役目をすることは、あまりない。それでも、二十年ほども教会に身を置き続けていれば、自ずと作法は身についていった。
「――天におわします、母なる『朝の神モルゲン』よ。あなたの子どもが今、休みます」
 淀みなく、朗々と紡がれる声に、いたましい兄妹の囁くような声が続いた。
「夜の中でも、あなたがそばに在って、安らかな眠りをお与えくださいますように。愛する家族、友人をも、あなたがお守りくださいますように。あなたの輝く御手にすべてを委ね、その御名に祈ります」
 俄かに――リーザの様子が変わり始めた。十字架を持つ手が不規則に震え出し、細い肩が上下して、呼吸が荒くなる。瞳は落ち着きなく、まるで別に意思を持っているかのように忙しなく、あたりをぎょろぎょろと見回している。
「リーザ、リーザ……! しっかり、どうか……」
 隣にいるシュミットが、彼女の手を握り締めて呼びかける。彼女が狂気の向こう側に連れていかれないよう、懸命に。少女が、ぎこちない動きで兄の方を向いた。
「お――」
 薄く微笑んで、少女が言葉を告げようとした。おそらくそれが最期の言葉になるだろうと予感しながら、シュミットはその声を聞こうと耳を傾け、そして――彼女の唇が、言葉を紡いだ。
「お――お、なか、すいた」
 リーザは大口を開け、シュミットの喉笛に噛みつこうとして――しかし、そうなることはなかった。少女の身体はゆっくりと傾き、兄の腕の中に倒れ込む。その背には心臓を貫くように、深紅の短剣が突き刺さっていた。その様子を認めるや否や、剣はどろりと溶けて傷口に染み込んでいく。
 シュミットが顔を上げると、少女の背の向こうにはロクスブルギーが立っていた。その美しい顔は眉ひとつ動かさず、少女だったものを見つめている。動かなくなった彼女の顔は、安らかだった。致死の猛毒は、せめてもの慈悲と言わんばかりに、少しも彼女を苦しませることはなかった。少女の兄は、まだぬくもりの遺る亡骸を強く抱き締める。
「……せめて――最期に、お腹いっぱい食べさせてやればよかった……」
 嗚咽とともに絞り出された言葉が、空気を震わせた。どれほどそうして時間が過ぎたのか、木々の合間からきらりと、一筋の朝陽が差し込んできた。寄り添う兄妹の歪な影は、ひとつの精巧な彫像のようでもある。刺すような朝陽に目を細めながら、カウフマンは十字を切る。
「――幸あれかし」
 長い長い、夜は明けた。
 かくして、人々を脅かしていた『人狼ライカン』は退治され――平和な朝が訪れたのであった。