12.幸あれかし
――……犯人のシュミット氏は、長きに渡り妹が不治の病に侵されていることに対し、兄として、またひとりの医者として強い苦悩を抱えていた。その心身が摩耗していたことは言うまでもなく、献身も虚しく最愛の妹が死の淵に向かっていくことは、彼を打ちのめすには十分であった。精神を病んだ氏は、妹に人間を食べさせ病から快復させるという強烈な妄想に憑りつかれ、七件の殺人という凶行に及んだようだ。
彼がそうした発想に至ったのには、人肉を喰らう夜鬼が驚異的な再生能力を保有すること、そして氏が軍属時代に夜鬼の軍事利用研究に触れていたためであると推察される。現在、この研究が軍部で継続されているかは定かではないが、慎重に事実関係を調査すべきである。シュミット氏は重要参考人として教会機関にて収容し、精神治療と本件の聴取を行うことを提案する。
なお、妹のリーザは発見時すでに息を引き取っていた。病のせいもあってか遺体の状態は非常に悪く、年若い娘の無残な姿を衆目に晒すのは忍びなかったため、身元の確認ののち速やかに簡易的な棺に納め、葬儀を執り行った。葬儀には多くの村人が参列し、短く儚い生涯を送った少女のために手を合わせ、祈りを捧げた――
帰路につく列車の中。報告書の草稿を隣から覗き込みながら、ロクスブルギーが言った。
「なかなか良くできた物語だ。審問官を辞めても小説家で食べていけるよ」
「……だといいけどな」
カウフマンは列車の座席に背を預け、天井を仰いで瞑目する。吸血鬼が褒めたその草稿を書く間にも、事件の事後処理や葬儀の手配で忙しなくしていたため、疲労困憊であった。人の死に直面することには、おそらく割合慣れている方ではあるが、どれほど慣れようが気持ちの良いものではないことだけは確かだ。
事件の後も、諸々の処理のために数日間あの村には滞在していた。『人狼』――殺人鬼の正体が、信頼を寄せていた村の名医であったことに、村人たちは強い衝撃を受けた。実際には『人狼』と呼ぶべきはシュミットではなく妹のリーザであるのだが、それは伏せることとした。彼女を「人として」死なせた以上、その名誉は守らなければならない。審問官の定めた方針にシュミットは感謝を述べ、自分ひとりがこの事件の罪の一切を負うことを良しとした。そのため、報告書もそれに沿う形で――嘘と真実とを織り交ぜて書くこととなったのである。
最寄りの教会に護送されることとなったシュミットは、別れ際にこのように話した。
「……あの子の望みを、もっと聞いてやれば良かった。礼拝堂にだって、行きたがっていたんです。神様に祈りたいのだと。……私は、そんなことをしても無駄だと思い、安静にするよう言い聞かせました。本当に、馬鹿な兄でした」
シュミットは、医者である。だからこそ、信仰心の有無に関係なく、祈りで病が治るとは考えていなかった。対してリーザは、そもそも病を治すことを考えてはいなかったのである。どれほど残されているか分からない僅かな時間を、懸命に生きようとしていた。これほど不遇な運命の中にありながら、祈りと共に生きようとしていた。その機会を奪ったことを、シュミットは強く後悔していた。
紆余曲折あったが、村を騒がせていた事件は解決された。ヨハンネス村長も疲労の色が濃かったが、出立の前には手厚く労い、見送りをしてくれた。孫娘のエミもそれに伴ってやってきて、数日前に強かに頬を叩いたことをロクスブルギーに謝罪していた。――当の本人は、そもそも何とも思っていない様子ではあったが。
カウフマンは薄目を開けて、隣に座っている吸血鬼を見た。彼の興味は草稿から窓の外に移ったようで、流れていく景色を目を細めながら眺めている。結局、ロクスブルギーには囮をさせたばかりか、リーザを殺す役目まで任せることになってしまった。事件に関する表面的なことは概ね自分が処理をしたが、彼にかけてしまった心身の負担は軽くないだろう。その横顔をしばらく眺めていると、視線と意図に気が付いたのか、言葉が返ってきた。
「まさか僕を、処女だと思っていたわけじゃないだろう。気にしなくていい」
「ご……誤解を招く言い方はよせ……」
コンパートメントの横を、乗客か車掌かの足音が通り過ぎていく。それがずいぶん遠くに行ってしまってから、吸血鬼は付け加えた。
「憶えていないよ、これまで何人手にかけたかなんて。意図的なものもあったし、望まれたものもあったし――そうでないものもあった」
凪いだ水面のように淡々とした調子で、彼は続けた。
「僕にとってはそれだけのことだが、どれもが等しく、人間の道徳と法の上では罰されるべき罪だ。……それでも君は、僕を友だと呼ぶか?」
視線だけがこちらを向いて、問い質される。カウフマンは軽く口を引き結んで逡巡した後、ゆっくりと身体を傾けて、吸血鬼に凭れ掛かる。その反応にいくらか驚いたようで、ロクスブルギーは目を丸くした。
「『当然』以外の答えが返ってくると思っているのか」
「……そうだな。愚問だった」
短いやり取りの後、沈黙が降りる。規則的な列車の音が幾度か繰り返されたあと、カウフマンが重々しく口を開いた。
「――分かっているんだ。俺に測っていい善悪なんてないんだって」
そんな権利は、とっくになかった。吸血鬼に心を奪われたその時から。たとえロクスブルギーがどれだけ人を殺めようと、その罪を裁こうとは少しも思わない。彼にとってそれが必要なことならば、受け入れてしまえる。人間として、審問官として、それが間違っているとしてもだ。そんな人間が他人の罪を裁こうだなんて、傲慢にもほどがある。何の罪もなく犠牲になった人々や、職務に殉じたユンカーらのことを思えば、シュミットには限りなく重い――死罪もしくは同等の苦痛がある――刑罰を課すことを進言すべきだ。しかし、そうする気には、なれなかったのだ。
黙ったカウフマンの手を所在なさげに握って、吸血鬼が言った。
「……君の物差しは、人としては正しくないかもしれない。けれど、君にだから許せるものがあって――救われる人も、いるのだろう」
ロクスブルギーの言葉が、すとんと腑に落ちるように入ってきた。
教会に留まり、審問官を続ける理由。穏やかに生きていく道を差し置いてでも、十字架を手放せない理由。それはきっとたったひとりでも、報いたいと思うからだ。正しさに背いてでも、愛するもののために足掻いている誰かに。神や法が許してはくれなくても――それだけが全てではないと、そう思うからだ。
「……アンタが俺の仕事に肯定的なことを言うなんて、意外だな」
「あくまで、客観的な意見を述べただけのことだ。危険な仕事を続けることには、これからも賛成しかねる」
そう言いながら、ロクスブルギーはそっぽを向いて再び視線を窓の外にやった。機嫌を損ねたかと思ったが、手は握られたままだったのでそうでもないらしい。おかしくなって、ようやく少し笑うことができた。それと同時に、張り詰めていた気が少し緩んだようで、俄かに眠気を感じてきた。到着までは、まだ少し時間があるはずだ。
「……少し眠るよ。着いたら起こしてくれるか」
「ああ。おやすみ」
ロクスブルギーの白い手を握りしめたまま、瞼を閉じた。常にひんやりとしている吸血鬼の手は、体温が移って少し温かく感じられる。声には出さず、胸の内だけで、祈った。
――天におわします、母なる『朝の神』よ。
どうか、生きとし生けるもの、等しく救いをお与えくださいますように。
その片目を瞑り、日陰を歩むものに、ひとさじの慈悲をお与えくださいますように。
その両目を瞑り、夜を往くものにも、ひとさじの苦痛も与えませぬように。
あなたの輝く御手にすべてを委ね、その御名に祈ります。
「……幸、あれかし」
そう呟いた声は確かに、愛しき友のそれであったが――驚きや感慨に浸る間もなく、意識は心地良い微睡みの中に溶けていった。