3.もしもの空想

 ――こうして、吸血鬼との二人旅が始まった。列車のコンパートメントの向かいの席に、上から下までほとんど露出の無いよう服を着込んだロクスブルギーが、瞑目して腰掛けている。彼がそこへ座っているだけで、さして上等でもない列車の座席は玉座のような威厳を醸し出し、さながらその姿は一枚の精緻な絵画のようだ。その姿に見惚れながらも、内心には少し、戸惑いがあった。
 正直なことを言えば、彼が日中にこのような遠出をすると――しかも自ら進んで――思っていなかった。直接浴びなければさほど問題無いとは言っても、不朽不滅の吸血鬼ドラクルにとって、日光はほぼ唯一と言ってもいい明確な弱点だ。日中は格段に疲れやすくなり、油断をすれば肌を爛れさせかねない。外出するだけで、常に気を使うことになるのである。それでも彼がついてくると言ったのには、事件に何かしら思うところがあるのだろう。体力の消費を抑えるために目を閉じて沈黙しているのであろう彼にそれを訊ねるのは、いささか無遠慮に思えた。そのためそれも叶わず、時折ロクスブルギーの様子を伺っては、教会から渡された資料に目を通していた。今回の事件で、関与が疑われている、『人狼ライカン』についてである。
 『人狼』とは――巨大な狼の姿を持った、非常に危険な夜鬼の一種である。高い知性と人間に擬態する能力で社会に溶け込み、巧妙に正体を隠しながら、人間を食らう。吸血鬼同様に個体数は少ないらしく、実際に目にしたことは未だ無い。しかし、手掛かりのない殺人や不審な怪死といったものが起きるたびに、人狼の存在が疑われることになるというのは、お決まりの流れである。ちょうど、今回起きている事件のように。
「――その事件の犯人は、『人狼』ではないと思う」
 不意に、沈黙していたロクスブルギーが口を開いた。視線を向けると、彼は瞼をゆっくりと上げ、赤い瞳でちらりとこちらを見返した。具合が悪くないかも気がかりであったが、断定的なその物言いを疑問に思って問い返す。
「どうして、そう思うんだ?」
吸血鬼ぼくたちが滅ぼしたからだ。もう二百年ほどは前になるかな」
 その言葉に、思考が停止した。――人狼を、滅ぼしただって? 二百年も前に? 話の規模の大きさに思考がついていけず、頭の上に疑問符を浮かべていると、それを察したらしい吸血鬼が話し始めた。
「吸血鬼は基本的に単独で生きているけれど――寄り集まって過ごしていた時期もあったんだよ。その頃、人狼を滅ぼすことを決めたんだ。人狼を根絶やしにするまで何年も戦って、その結果、彼らは駆逐された」
「……どうして、そこまでする必要があったんだ?」
 すらすらと彼の口から飛び出してくる残虐な言葉に慄きながら、浮かんできた何故を見過ごせずに問いかけた。ロクスブルギーは顎に手を当てて黙り込み、ひとつ頷いてから再度口を開いた。
「――吸血鬼は、余程ひどく飢えているか、何かしらの理由で明確な殺意を抱いてない限り、『食事』で人間を殺すことは、まずしない。その理由は明白で、血の提供者である人間が滅ぶと困るからだ。ここまでは、分かるね」
 懇切丁寧、かつ背筋の寒くなるような話に頷いてみせると、彼は頷き返して続ける。
「だが――人狼は違う。人狼が必要とするのは、人間の肉。彼らが『食事』を行うということは、そのたび必ず人間が死ぬということだ。人狼の繁栄は、自ずと人間の衰退、つまり僕たちの食事の提供者が減ることを意味している」
 だから、滅ぼした。当然のことのように、ロクスブルギーは言う。それは、人間が害獣や害虫を駆除するのと、大差ないことなのだろう。長きに渡って人間の恐怖の象徴のひとつとなっている種族を丸ごと滅ぼしたなどと、俄かには信じがたい話ではあるが、そのような嘘を言うことが彼にとって意味のあることだとも思えないし、真実なのだろう。改めて、目の前のその人がおよそ人間には計り知れない存在であることを、思い知らされるようだった。
「人々の記憶からその恐怖が消えてなくならない限り、『人狼が出た』という噂がなくなることは無いだろう。それほど、人狼は人間にとって脅威だったんだ。滅ぼさなければと、僕たちが考える程度にはね」
 おそらくは教会の上層部でも知り得ないようなことを聞いてしまった気がするが、まさか吸血鬼に聞いた話だなどと言うわけにもいかないので、この話は自分の胸の中に留めておくこととした。
「じゃあ、別に人狼を殺すためについてきたってわけじゃないのか」
 途中までは、人狼の生き残りがいた場合のことを考えて、それを駆逐するためにロクスブルギーは同行してきたのかと思った。しかしどうやら、彼はこの件について人狼はほぼ無関係であると考えている。ならば何故、ついていくなどと言い出したのだろう。そんな疑問を思っていると、吸血鬼は口を真一文字に結んで沈黙し、ややあってから、重々しく口を開いた。
「……君が、何日も戻らないと言うから」
「まあ……泊まりがけの仕事になるだろうからな」
「そうしたらその間、僕が暇になる」
 血も吸えなければ、話し相手もいない。料理も作れないし――吸血鬼は、同居人が不在の間の不満をぶつぶつと並べ立て、最後にこうつけ加えた。
「……何度も言わせるな。君が、僕に、傍に居ろと言ったんだ。君が行くと言ってきかないから、僕がこうして出歩いてるんだろう」
 そう言ってロクスブルギーは不機嫌そうに視線を逸らして嘆息する。
 つまるところ彼は――傍に居るという約束を守ろうとしてくれているらしい。日中の外出を、己の身体に強いてまで。なにも仕事の時までついてこいという意味ではなかったのだが、ロクスブルギーが今の生活を――人間と一緒にいることを退屈ではないものだと思ってくれているなら、それはそれで、喜ばしいことだと思えた。自分の身勝手であることを承知で傍にいて欲しいと言ったものの、人間の生活様式を押し付けることに、思うところが全く無かったわけではない。受け入れてもらえているなら、良かった。吸血鬼には申し訳ないが、不機嫌そうな横顔に思わず笑みが零れてしまった。
 ――幼い頃、空想したことがある。もしも、棺の中で眠ったままの吸血鬼が目覚めて、親しくなることができたなら。一緒に遊んだり、本を読んだり、どこかへ出かけたりできるだろうかと。仕事とはいえ、そのときの空想は今、現実となっている。なんとも不思議な感覚だった。
 ロクスブルギーの視線は、車窓の外に向けられている。燦々と陽の降り注ぐ景色を、彼は目を細めて眺めている。黄金の海のような麦畑。ゆっくりと回る風車。煉瓦造りの、古い街並み。目の前を流れていくそれらを、吸血鬼はどんな心持ちで見ているのだろうか。いつか、彼は言った。神に嫌われたばかりに陽の下を歩けない、不便な身体で生きることを強いられている。それが、吸血鬼という命なのだと。
「……昼間の景色も、悪くないだろ」
「ああ。……だが、僕には少々眩しすぎるかな」
 吸血鬼も、もしもの空想をするのだろうか。――あの陽の下を、自由に歩くことができたならと。けれど、そんなことはきっと訊ねるべきではない。彼は何度も、何度も、その問答を繰り返してきたのだろうから。
 窓の外とロクスブルギーの横顔とを、交互に眺めているうちに、やがて列車は目的地へと辿り着く。ここから先は、仕事の時間だ。頬を軽く叩いて、観光気分を戒める。
 神に祈りを、人には救いを――そして夜鬼には鉄槌を。
 懐にしまい込んだ銀色の銃の冷たい感触を確かめた後、人狼の噂飛び交う惨劇の村に、いよいよ足を踏み入れた。