2.祈る両手の間には
教会に保護されてしばらくは、毎日のようにぐずぐずと泣いていたような気がする。親しい人をいっぺんに失くしてしまったような心地だった。父の死は当然悲しかったが、それと同じかそれ以上に、ロクスブルギーに置いていかれたことが、子供の心を打ちのめしていた。実際に言葉を交わして関わったのはほんの一晩だけのことだったが、それよりも前から、彼と彼の棺の存在が生活の中に確かに存在していたからだ。ひんやりとした滑らかなあの手が、滴る血のような赤い瞳が、しんとした夜のような声が恋しかった。
そんな子供を心配して、教会のシスターたちは代わる代わる話をしにきたり、遊び相手になったりしてくれたが、教会の人々が夜鬼を――吸血鬼を邪悪な敵として見なしていることは知っていたから、どうしても素直に心を開く気になれなかった。ただ、毎日温かな食事と寝床を用意してくれることには常に感謝していた。そうでなければ、きっと今日まで健やかに生きてはいられなかっただろう。
吸血鬼に噛まれたあと数日の間は、毎日頭の上から聖水を振りかけられ、憶えている限りのことを嘘偽りなく話すようにと問い質された。そうすれば、必ず神がお救いになると。神の救いなど必要としてなかったが、嘘偽りなく真実を話した。もしかすると、彼女らがロクスブルギーのことを教えてくれるかもしれないと思った。しかし結局シスターたちは、吸血鬼が怪しげな力を使って子供に言うことを聞かせ血を吸ったのだと決めつけるから、もう二度と話してやるもんかと思ったものだ。シスターたちは、ロクスブルギーという吸血鬼の存在を、その辺にいる凶悪な夜鬼と同類か、あるいは子供の空想の産物かもしれないと思っただろう。
ある時、シスターたちが隠れて話をしているのを聞いた。
「……ルーの話していたことは、本当でしょうか」
「ロクスブルギーという吸血鬼のこと? ……何年も血を吸わずにいた吸血鬼が、小さな子供の血を吸い尽くさずに生かしておくなんて、あまり考えられないことだけど。ひとまず、『白夜』の判断に委ねるしかないでしょうね」
「……そうですね。審問官に、調書を渡しておきます」
ひとりがそう言って、足早にどこかへ去っていった。『白夜』という名をはっきりと耳にしたのは、このときが初めてだったように思う。
『白夜』――陽の沈まない、薄明るいままの夜のこと。人々が、夜に潜む化け物たちに怯えずに生きられるよう、その安寧を守護するべく作られた、教会の機構。人々からは、『化け物殺し』と呼ばれることがほとんどで、その機構の名が広く周知されているわけでは無かったが、『白夜』に属する者たちが、日夜危険を省みず夜鬼と対峙し、平和を守っているということは、それとなく理解していた。彼らはこの世界でもっとも、夜鬼の近くで生きている人間といえるだろう。
――もし、『白夜』の審問官になることができれば、ロクスブルギーともう一度出会う機会を得られるだろうか?
その機構に属したのは、本当にそんな動機だった。世界中の夜鬼に関する情報を全て掌握しているといって差し支えないそこでならば、いつか、あの愛しい吸血鬼の行方を得られるのではと考え、『白夜』への所属を願い出た。シスターたちはやんわりと、危険だから止めなさいと――夜鬼によって身寄りを失った子供を憐れんで善意で――諭したが、生憎失うもののないこちらの決意は固かった。必要な書類を提出し、それが受理されると、『白夜』の本部がある島へと、居住地を移すことになった。
地中海に浮かぶ美しい島では、その様相からは想像もできない過酷な生活が待っていて、勉学、戦闘訓練、礼拝、その他当番制の掃除や煮炊きなど、厳格な規律――多少の遊びは許されたが――の中での生活が続いた。そんな中でも、常に頭の片隅にロクスブルギーのことがあった。彼の去り際の、あの寂しげな表情を思い返した。果たして彼は、どんな気持ちであんな顔をしたのだろうか。その答えは、彼以外には知りえない。もう一度、彼に会いたい。半ば使命感のように、その想いが胸の内を占めていた。
審問官の証である銀の十字架を授けられる頃には、どうにか立派に大人になっていた。本土に戻って化け物殺しの仕事をしながら、ロクスブルギーを探し続けた。その間、誰かに感謝されたり、誰かを見送ったり、誰かと触れ合ったり――人並みの出来事も、あったと思う。ロクスブルギーを探し、彼に再会できればそれだけで良いと思っていたとしても、それだけで人生は進まない。彼を探し続けた二十年の間の足跡は、間違いなくひとつひとつが今日の自分を作り上げた人生だった。
――ロクスブルギーは、再会を喜んでくれた。再会したあの夜の、彼の笑顔を忘れてはいない。傍に居ることを選んでくれた彼は、平穏な生活を望んでいる。ならばそれを守るために、危険な仕事は辞めるべきだろう。審問官を辞めて、もっと何か平和な仕事をするべきだ。普通で、平凡で、安泰な仕事を。
けれど――そんな自分は果たして本当に、自分だと言えるだろうか?
翌朝。定時に起床して身支度を整え、トランクを手に玄関へ向かった。途中で背後に気配を感じ、足を止めて声をかけた。
「行ってくる」
「言ったはずだ。理由が無ければ、行かせないと」
意を決して振り返る。ロクスブルギーの表情はいつも通り淡白なそれだが、その瞳に不満と不理解が浮かんでいるのは明らかだった。そんな顔をさせたいわけでは勿論無いので、心が痛い。しかしこればかりは仕方が無い。時に、自分でもどうすることもできない生き方というものがあるのだから。
「正直、アンタが納得してくれるような理由は見つけられなかった。けどさ――」
一度言葉を切ってから、強くその瞳を見つめ返す。これはもう、一種の意地でしかない。
「……考えられないんだよ。夜に出歩かない仕事なんて。想像できないんだ。朝早くに起き上がってきて、畑をやるとか、パンを焼くとか――そんな普通の生活がさ」
「慣れれば素敵な生活だと思うよ。人間はそういう生き物だろう」
「そうかもしれない。けど少なくとも、俺にはあまり魅力的じゃない。俺はまだ――夜更かしのできる生活がいい。真夜中に星を眺めて歩いていられるような、そんな生活がいいんだ。俺は、夜が好きだから」
ロクスブルギーは沈黙し、伏し目がちになって、少し俯いた。常に流暢に道義を説く吸血鬼だが、どうやら言葉に詰まったらしい。我ながら小狡い言い方をしてしまったなと思う。
夜は彼が愛しているものだ。特別語るようなことがなくても、星を観ながら窓辺で過ごすのが好きだ。時折綺麗だねと呟く彼の声色が、普段よりもほんの少し、嬉しそうなことを知っている。その美しさを分かち合うものがいることを、喜ばしく思っていることを知っている。だから、夜から離れてなんて生きてはいけない。それだけは、はっきりと胸の中にあった。
長い沈黙の後、吸血鬼は静かに深く息を吐く。
「……振り向いたら、僕が問答無用で昨日のようにするとは考えなかったのかい」
「アンタはそんなことしないよ。いつも俺の話を、ちゃんと聞いてくれる」
「聞かなければ良かったと、思うこともあるけどね」
そう言いながらロクスブルギーは背を向けて、付け加える。
「五分待て。支度をする」
「……支度?」
「僕も行く」
そう言うなり一度部屋へと戻っていって、五分後には顔以外をきっちりと覆い隠した格好――日光を浴びないようにだ――で吸血鬼は現れた。では行こうかと言って、彼は先んじて玄関から外へ出ていって、呆気にとられながら、その背を追いかけた。
こうした経緯があって――吸血鬼ロクスブルギーと共に、『人狼』がいるという、その事件の現場に向かうことになったのだった。