8.その心に報いを

 その館は、人里離れた森の中にぽつんと建っていた。その持ち主は、とうに亡くなっている。街から離れているとなると、行き来する間に夜鬼に遭遇する危険が高くなる――そういった理由で、持ち主の子孫は相続したがらず、館は売りに出されることになった。それなりに広さがある館をマメに手入れすることは難しく、今となっては、時折不動産屋が様子を見に来るだけになっているらしい。内見したいので鍵を貸してほしいと申し出ると、不動産屋はふたつ返事で鍵を貸してくれた。ようやくこの厄介な物件が売れるかもしれないと、期待させてしまったなら申し訳ないなと思う。

 錆びた鍵を穴に入れて回すと、寂しげな音と共に扉が開いた。中はがらんとしている癖に荒れた雰囲気があって、本当に売る気があるのならもっときちんとすべきだな、という感想は否めない。おそらくは、売ることは半分くらい諦めてしまっているのだろう。そう考えながら、階段を上がる。何となく、かつて住んでいた家のことを思い出した。まだ、なけなしの資産が残っていた頃だ。父と母と三人で、贅沢ではないが不自由の無い生活をしていたあの頃。あのまま大人になっていたら、一体どんな自分だったのだろう。――少なくとも、こんな風に吸血鬼を追いかけたりしていないことは確かだ。

 二階の部屋の一室から、風が流れてきている。その部屋へ向かうと、バルコニーへ続く窓ガラスが一枚取り外され、月明かりの降り注ぐ窓辺に、荒れた内装に似つかわしくない美しい棺が置いてあった。ゆっくりと、そちらへと近付いた。

 棺の蓋の表面に彫られた、花の彫刻を撫でる。その花の名は、十六夜薔薇ロクスブルギー。海を越えた東の地に咲く花なのだと、かつて父が教えてくれた。
 そっと棺の蓋を開く。月の光が棺の中に降り注ぎ、その中を照らして明らかにする。あの日と同じ――人形と見まごう程に整った造作の顔。閉じた瞼の奥には、赤い瞳があることを知っている。長い歳月を経てなお、その美しさは少しも損なわれず、変わっていない。吸血鬼――ロクスブルギーが、そこにいた。
 蓋を開けたというのに、吸血鬼は起きる気配が無かった。いくらなんでも、つい最近起きていたのであれば眠りはそう深くないはずだが、もしかすると狸寝入りでもしているのかもしれない。彼には前科――否定するだろうがほとんど同義だ――がある。
 ばくばくと煩く鳴る心臓と裏腹に、頭はひどく冷静だった。懐から取り出したナイフを指先に滑らせると、小さな血の球が指先にできあがる。その指で、吸血鬼の唇をなぞった。薄い唇を血で汚すと、程なくやや温い感触が指に触れる。舌先で血を舐め取りながら、吸血鬼はゆっくりと目を開けた。
「――苦い」
 第一声、彼はそう言いながら、薄目を開けて顔を顰めた。教会の資料によると、吸血鬼にとって子供や若い女の血は、とりわけ甘く感じるらしい。甘かった子供の血も、二十年経てば苦くもなろうというものだ。苦笑しながら、声をかけた。
「――おはよう、ロクスブルギー」
 吸血鬼は棺から半身を起こして、しばらく何も言わずにまじまじとこちらを見てきた。その視線がこそばゆく、耐え兼ねてこちらから口を開いた。
「……手紙。置いていっただろ、骨董屋に」
 それを聞くと、ああ、と吸血鬼は納得したように呟いてから一拍置いて、感心したように続けた。
「本当に……あの時の少年か? 以前は腕一本で抱えられる程度の大きさだったはずだが……?」
「何年経ったと思ってる。二十年だ。産まれたばかりの赤子だって、大人になるぞ」
「そうか。……そうか」
 ロクスブルギーは頷いてから、ゆっくり溜息をついて立ち上がり、バルコニーへと歩を進める。なにとはなしにその後について行くと、背を向けたまま吸血鬼は口を開いた。
「本当に、僕を探していたのか」
「ああ」
 そう答えると、短い沈黙の後に呆れた声が返ってきた。
「……愚かを通り越して呆れるな。どうして、あの日のことを忘れて、普通に生きようとしない。……せいぜい百年生きるのが精一杯の人間の身で、そんなことに時間を費やしたのか」
「『そんなこと』じゃないから、探してたんだよ」
 その言葉に、彼は振り向いた。本当に心底呆れた表情で、一体どんな言い訳をするつもりなのかとでも言いたげだ。その棘のような視線を真正面から受け止めて、言葉を返そうとして――言葉が出てこない。言いたいことは山ほどあるはずだった。伝えたいことも同じだけあるはずだった。しかし、胸のあたりで様々な感情がわだかまって、喉から言葉が出ていかない。どれくらい、そうして無言でいただろう、ようやく絞り出した言葉はあまりにも短く、拙いものだった。
「――会いたかったから」
「……は?」
「ただ、会いたかった。どれだけ時間がかかろうと、どんな手段を使おうと、もう一度、アンタに会いたかった」
 偽りのない、それだけをどうにか、言い切った。
 言いたいことも、伝えたいことも山ほどあるが、それ以上の理由など何もない。そのために、残りの人生を全て費やすことになっても構わないと思うくらい、会いたかったのだ。恐ろしく、美しく、そして何より――優しいこのひとに。
 苛立ちに変わりかけていた吸血鬼の顔は、次第に剣呑さが抜けていき、やがて目を伏せた。バルコニーの手摺りに背を預けて空を仰ぎ、ロクスブルギーは溜息混じりに話し出す。
「……君が僕を探しているらしいと知った時、いろんな感情があった。嘘だろうと思ったし、馬鹿だと思ったし、呆れ返ったし――だけど少し、少しだけ……嬉しかったりした」
 夜風に掻き消されてしまいそうな調子の声で、彼は続ける。
「だから、あんな手紙を書いてしまった。自分の存在など、いつまでも煙に巻いておけば良かったのに。もし、君が本当に僕を探しているのなら。あの日から、僕を忘れていないのなら――君に報いなくてはと、そう考えてしまった」
 ロクスブルギーは困惑したような表情を浮かべながら、問うた。
「ルー・ループス・カウフマン――僕は君に、何で報いればいい」
 それは、過去には見たことのない表情だった。ゆっくりと、吸血鬼の方へと歩み寄る。
 二十年。言葉にすればたったそれだけ。人間にとっては、人生の何分の一かにもなる時間。吸血鬼にとっては、ほんの微睡みの間の時間。人間と彼とでは、一分一秒の重みがこれほどまでに違う。同じ価値観を共有することはひどく困難なことだろう。
 けれど、彼はいま、確かにこちらを見つめている。
 人間を――瞬きの間に流れて燃え尽きる、星のような命を、見つめている。
「……報いてくれるというのなら、ロクスブルギー。俺の命がある間だけでいい、棺と共に、俺の傍にいてくれないか」
 手を差し伸べる。その手と、こちらの顔とを交互に見て、吸血鬼は僅かに、戸惑った顔をした。
「俺にとってあの日のことは、切り離すことのできない自身の一部だ。忘れて生きるなんてのは無理だ。百年、二百年、生きていれば忘れる日が来るのかもしれない。けど、人間はそんなに生きることはないし、俺からあの日のことを無くしたら、それはもう――俺じゃなくなる」
「……」
「俺の心を安らかたらしめるのは、過去の忘却でも、日差しの下を共に歩く人でも、まして神様でもない。俺に多くの思い出をくれた――あの日、地獄を一緒に歩いて友になったアンタと、アンタが眠るその棺なんだ。だから、」
 傍に、いてくれ。
 そう口にしてからの時間は、一瞬のようにも思えたし、ひどく長かったような気もする。そんな沈黙を経て――ロクスブルギーは重々しく口を開いた。
「……人間は、僕たちを恐ろしい化け物だと言う。それは、ひとつの真実ではあるけれど――僕たちは、君たちの言う神に愛されなかったために、不便な身体で生き続けることを強いられている、ひとつの命に過ぎない。――傷つけば痛く、餓えれば苦しい――何千何万、那由多の数ほど朝と夜を繰り返しても、苦痛が無くなるわけじゃない」
 細く長い指が手の平に触れる。そして緩やかに手を握りしめられて、思わず目を見開いた。目の前の吸血鬼がひどく苦しそうな顔で俯いて――それから、泣きそうな顔で微笑んだからだ。
「……ありがとう、ルー。会いに来てくれて――僕を友と、呼んでくれて」
 ――あの日の、別れ際のロクスブルギーを憶えている。少し優しくて、少し寂しそうに聞こえた、あの声色を憶えている。そうだったら良いなと、子供心に思っていただけだった。都合の良い勘違いをしているつもりだった。けれど、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。人間と同じように知性があって、同じように心があるのなら。吸血鬼という化け物は――どれほど孤独な、命なんだろうか。
「……どういたしまして、ロクスブルギー。再会の祝杯でもあげるかい。飲むのは、アンタだけだけどな」
 とんとんと首筋を指先で叩いて示す。ロクスブルギーは目を丸くして驚いていたが、そのうちに微笑んで、では頂こう、と言った。幼いころ見上げていた吸血鬼の顔は、今は少し、下の目線にある。冷たいバルコニーに片膝をついて、噛みつきやすいように首を傾げた。吸血鬼は肩に手を置いて、頭を垂れながらゆっくりと首筋に牙を立てる。
 穿たれた傷から温かなものが零れだす。それを吸い上げられるのと共に、鈍い痛みと襲い来る眩暈、甘く痺れるような感覚が襲ってきた。思ったよりも、長いこと吸血鬼は血を吸っている。意識が遠のく心地がして、軽く唇を噛んでそれらを耐える。気を失ったら、また全てが夢のように消えてしまうかもしれないから。

 吸血鬼の唇が、首筋から離れた。姿勢を戻すロクスブルギーに合わせて立ち上がろうとして、うまく脚に力が入らず仰向けに転がる羽目になった。心配した吸血鬼は、屈んで顔を覗き込んできた。
「……少し吸い過ぎたみたいだ。すまない」
「い、いい……俺が言い出したんだから……」
 力が入らない手をどうにか持ち上げ、ロクスブルギーの手を握った。彼は何度か瞬きをしてから、その場に腰を降ろした。手は握ったままだった。ほっと息をつくとようやく、真上に広がる夜空を意識できるようになった。ぽっかりと浮かんでいる、少しだけ欠けた月。街の灯りから離れた森の中では、小さな星の光ですらつぶさに瞬いて見える。
「……空……」
「ああ。綺麗だね」
 何気ない呟きに返された言葉に、思わず吸血鬼の方を見た。彼は、何か変なことでも言ったかと言いたげに少し首を傾げたが、再び視線を空に向ける。その横顔は、とても穏やかで、とても――綺麗だ。

 首筋に感じる、懐かしむほどでもないその痛みに、満ち足りた思いは尽きなかった。
 心に絶えず暗闇を抱え、あてどなく彷徨い続けた旅は今ここに、無事に終わりを告げた――
 

 かつて、『ロクスブルギーの棺』と呼ばれた、美しい棺があった。
 その棺は今、あるごく普通の家の一室に置かれて、その名前で呼ばれることはほとんど無い。何故なら、その家の者たちの間では、ただ棺と呼べば事足りるからだ。
 そしてその中には、吸血鬼が入っていたり、いなかったりする。
 もしも貴方が、人並み以上の幸運か――あるいは不運の持ち主であったなら、街中でその吸血鬼とすれ違うことがあるかもしれない。けれど、必要以上に怯えることはない。

 棺の主・吸血鬼ロクスブルギー。永い夜を独り歩み続ける、恐ろしく、美しい、赤い瞳の茨の君。
 彼は人間のことが決して――嫌いではないのだから。