9.後日談

 吸血鬼――ほとんど永遠の命を持ち、老いることの無い美しい肉体を持ち、血を糧に生きる化け物。人間と同様に知性を持って言葉を操り、化け物の力で命を蹂躙する、夜の住人。
「――知っていると思うけれど、日光だけは部屋に入らないようにしたい」
「はいはい。……ちなみに日光を浴びると、どうなるんだ?」
「日光を直接、長時間浴びると、火傷したように爛れる。仮に全身がそうなっても、残念ながら死ぬことはない」
 想像するだにおぞましいその光景に、思わず顔が苦々しくなる。吸血鬼と共に生活するにあたり、彼らの生態を知っておかなくてはいけないだろうと思い、ロクスブルギーにいろいろと質問しているところだった。
「――とはいえ、それに気を付ければ、昼間に動けないわけじゃない。ただ、体力の消耗が激しいので、あまり動きたくはないが」
「だから、掃除は分担できないって?」
「夜にしても構わないならしてあげるよ」
「それじゃ喧しくて俺が寝られないだろ……」
「我儘だな……」
 当然だが、人間は朝の住人である。深夜の巡回を行うときもあるので、普通の人間よりは夜型の生活をする割合は高いが、基本的には暗くなったら眠りたいのが人間だ。ロクスブルギーと家事の分担を決める作業は難航していた。この世の多くの人は、吸血鬼と一緒に住んだりしないため、誰にもコツを訊くことなどはできない。まして、教会機関に所属している身である。吸血鬼を友人と呼んで懇意にして、ひとつ屋根の下で暮らしているなどということが知れたら、懲戒免職を通り越して磔のうえ火炙りにされるかもしれない。もちろんその可能性は考慮しているが、それはそれ。今は長年慕い続けたひとと一緒にいられる喜びを噛みしめるべきだろう。起きてもいないことで頭を悩ませても仕方がない。事は起きてしまった時に、全力で対処すればいいのだ。生きていて、これほど楽観的にあったことはこれまで無い。それくらい、吸血鬼との再会は心に安らぎと余裕を齎していた。
「はあ……それより、ちょっと血をくれないか、ルー坊や。家具を運んだら疲れた……」
「アンタ、燃費悪すぎるだろ。……あとは俺がやるから、運び終わるまで待ってくれ」
 家中のカーテンを閉め切っているというのに、本当に日中は消耗が速いらしい。ロクスブルギーは息をついて、既に運び入れたソファに腰を降ろす。尻尾を床に打ち付ける猫のような雰囲気を醸しているそのひとをよそに、さっさと他の家具を運び入れてしまうことにした。数はそれほど多くない。小さな机と椅子、本棚、そして――棺。仕事を終えてから、吸血鬼の隣に腰掛ける。
「はいよ、どうぞ」
「ん」
 ようやくかと言いたそうな顔で――こちらは十分に迅速に仕事をしたはずだ――ロクスブルギーは首筋に噛みついた。腕や指先を噛んでもらう方が気軽だとも思うのだが、結局のところ首周りが一番日常隠しやすいということで、吸血鬼のお約束通りに、首筋から提供することにしている。
 何回か繰り返し噛まれているうちに気が付いたのだが、これが異常に――気持ち良いのである。誤解のない様に例え話をしておく。蚊という血を吸う虫がいる。やつらに血を吸われると患部が痒くなるが、これは蚊の唾液に対して人間の身体がアレルギー反応を起こしているためである。この原理と同様に、吸血鬼が人間から血を吸うとき、人間の身体の方で何らかの反応が起こり、このように恍惚とするような快感を生み出しているのである。健やかに生活するために人間の血が必須であるならば、人間に『血を吸われることによる利点』を感じさせる方が、彼らは人間に抵抗なく血を提供して貰える可能性も上がるはずだ。これは吸血鬼が辿った当然の進化といえよう。――全て、個人の推測であり根拠はない。
 頭の中でそんなことを考えて気を紛らわせているうちに、ロクスブルギーは血を吸い終わった。律儀にも、ごちそうさま、と言って口の端を指で拭う。指先についた血の一滴までも、彼は綺麗に舌先で舐めとった。その動作を、どぎまぎしながら見てしまう。そこはかとない気まずさ。それは行きずりで抱いた女と、朝に顔を合わせた時に似ていた。
「……何か?」
「……いや、別に……」
 しどろもどろの返答に少し訝しがる様子を見せたが、幸いにも彼の興味はすぐに他へ移った。ロクスブルギーは疲れた身体を押して立ち上がると、部屋の端に置かれた棺の位置を微調整した。ほんの僅かしか違わないような気がするが、よほどこだわりがあるようだ。下手なことを言って機嫌を損ねても面倒なので、黙っておく。別の話を振ることにしよう。
「そういえば、ロクスブルギー。その棺――よほどデザインが気に入ってるのか? 偽物をわざわざ買い直すなんて」
 そう問いかけると、彼は肩越しに振り向いて目元を僅かに和ませる。
「うん? ああ――まあ、気に入っていると言えば、そうなるのかな」
「へえ、どんな曰くがあるんだ?」
 興味津々になって訊ねると、吸血鬼は棺に腰かけて、蓋の彫刻を愛おしげに撫でた。この偽物の棺を作らせた人の執念もまた、なかなかのものだ。本物を模して彫られたそれは、本物を知るものの目から見ても見事なものである。ロクスブルギーは不意にこちらを見て、ぱちぱちと数度瞬きをしてから、そっと口の端を持ち上げた。
「そのうちに教えてあげるよ。君が死ぬ前にはね」
 勿体ぶって、少し意地悪そうな笑みを浮かべる、吸血鬼の心は計り知れない。

 ただひとつ――この命が尽きるその時まで、ロクスブルギーは傍にいてくれる気があるらしい。それで十分だ。
 それだけで十分に――俺の人生は、報われたのだから。