7.手紙

 ――懐かしい、夢を見た。あれから二十年ほども経っているのに、未だにあの日のことを、これほど鮮明に思い出せることが、少々気持ち悪いと思って苦笑いが浮かんだ。どれほど未練がましく思えばこうなるのか。男は起き上がって、鏡に自分の姿を映す。軽く首を傾げて、首筋を注視した。あの日、吸血鬼に噛まれた首筋には、もう痕ひとつ残っていない。

 あの日の事件は、オークション自体が秘密裏に、そして非常に醜悪で希少な品が出品されたこと、参加者のほぼ全員が夜鬼の手にかかって命を落としたことから、大体的に世間に公表されてはいない。夜鬼に関する事件の情報は教会が管理統制していて、あの日の真相を探るには、自身もそこに所属する必要があった。そうして知ったことは、あの場所に夜鬼が群れて現れたのは、商品として大量に持ち込まれた夜鬼の剥製が、十分に息の根を止めていなかったばかりに動き出したせいだということだった。吸血鬼ほどの不死性があるわけでないにせよ、夜鬼の死骸は灰になるまで燃やせ、としきりに教会が言うのは正しかったようだ。
 あの惨劇が天災でなく人災であることが知れて、最初こそ怒りが沸いたものの、今となってはどうとも思わない。父も、そして自分も化け物に惹かれている同じ穴の狢で、その剥製を持ち込んだ者は、既にその代償を命で払ったのだから。

 しかし、そこまで事の真相を調べあげた教会でさえ、吸血鬼ロクスブルギーについては何も手がかりを持っていなかった。保護された当時、確かに自分は本当のことを全て話したし、首筋につけられた痕を見て、それが吸血鬼の仕業であると教会の人間たちは断定したが、当の吸血鬼は由来も行方も分からず、あの日の出来事は夢だったのではないかと、この二十年の間に何度となく疑った。吸血鬼と過ごしたあの時間は全て、夜鬼の襲撃でショックを受けた幼い自分が、頭の中で都合よく作りあげた幻想なのではないか。自分が追いかけているのは、存在しない影なのではないか。そんなものに、貴重な人生の時間を捧げているとしたら、とんだお笑い草だ。
 けれど、あの町の教会で保護された時、確かにこの首筋には吸血鬼の噛み痕があり、ロクスブルギーが言っていたように、しばらくの間、毎日聖水を浴びせられたりしていた。噛まれたことで気が狂うことは確かになかったが、これほど吸血鬼に執心してしまっているのだから、ある意味では狂ってしまったのかもしれない。

 今だって――あの牙が皮膚を破いて肉に突き刺さる時の感触を忘れられないでいる。
 痛みと、気怠さと、痺れるような快感が混ぜこぜになった、あの感触を。

「おはようカウフマンさん。巡回お気を付けてね」
「おはようシスター。日中に夜鬼がうろつくことなんて、そうそうないから大丈夫さ」
「それでもです。神の御加護がありますように」
「心配性だねぇ。……神の御加護がありますように」
 修道女は祈りながら十字を切り、再び背筋を伸ばして淀みなく歩いていった。――心にも無い、と自嘲した。ひとりになったところを保護され、事件の真相を調べるために教会機関へ所属し、夜鬼専門の狩人となって生計を立ててはいるものの、神の加護などというものは、未だに少しも信じてはいなかった。
 しばらくぶりにあの骨董屋の様子を見に行くと、窓辺に置いてあった、あの偽物の棺が無くなっていた。どうやらめでたく売れたようだ。以前冷やかしてしまった詫びに、棺が売れた祝いの言葉でもくれてやろうかと、店の扉を開けた。すぐに店主の挨拶が飛んできたが、入ってきた客の顔を見てあっと小さく声を上げた。構わず、片手を上げて挨拶をする。
「やあ。あの偽物、売れたんだな。おめでとう」
「え、ええ。そうなんですよ。それで、お客様……」
 店主はぱたぱたと小走りで店の奥に一度引っ込み、手に一通の手紙を持って戻ってきた。
「棺を買った方から、貴方に……これを渡して欲しいと」
「俺に? ……何かの間違いじゃないのか?」
「いいえ、貴方で間違いありません……」
 宛名も差出人も書かれていない封筒を受け取り不審に思って眺めていると、店主が続けた。
「そのお客様に、貴方の話をしたのです。吸血鬼の棺を偽物だと言う人がいた、と……するとそのお客様は笑って、棺をお買い上げになりました。そのとき、紙とペンが欲しい言うので差し上げると、これをお書きになって――もしも、棺を偽物だと言った人がまた店に来たら、渡して欲しいと」
 確かに――話を聞く限り、その条件に当てはまる人物は他にいないだろう。封蝋を剥がして、封筒の中から便箋を取り出す。丁寧に折り畳まれた便箋を広げると、やはりそこには誰の名前も書いておらず、ただ一言、こう書かれていた。

 ――『棺はたった今、本物になった』、と。

「……店主。棺はいつ売れた?」
「い、一週間ほど前でしたかね」
「そいつは買って、どうした」
「棺を背負って持ち帰られましたよ。重くないかと訊ねましたが、問題無いと言って――」
「どこへ行った」
「そ、そこまではちょっと……」
「分かった。ありがとう」
 食い気味に返答して、店を飛び出した。
 ――棺が売れたのは一週間も前だ。今走ったところで、買った人間が見つかるはずもない。けれど、緩やかに歩いてなどいられなかった。走った。石畳を蹴って、走った。視界を飛んでいく景色の中に、黒い影を探した。

 あの吸血鬼が――ロクスブルギーが、いる。
 この街の近くに、二十年の時間よりもすぐ、そばに。