6.去りし夜

 ――ゆったりとした揺れで、目を覚ます。温度の無い背に負われて運ばれているようだった。それを認識したのとほぼ同時に、ロクスブルギーが肩越しに少し振り向いた。
「起きたかい。じきに人の住んでるあたりに出るだろうから、もう少し我慢してくれ」
「ん……」
 思ったよりも、血が減っているのかもしれない。身体が重くて、とても自分で歩けるとは言い出せなかった。大人しく背負われていることにして、全体重を彼に預けた。軽く痺れの残る手でしがみつきながら、おそるおそる問いかけた。
「……どうして、俺の名前を知ってるの」
「君が自分でそう名乗っただろう。ルー・ループス・カウフマン」
 そう返されて、記憶を辿る。ロクスブルギーに名乗ってはいないはずだ。そもそもそんな余裕など、ここまでなかった――そこまで考えてから、あっと思い出した。
 あの棺が家にあった時。夜中に棺のところへ行っては、一方的に他愛もない話をした。確かにそのとき、名乗ったことがあったことを思い出した。それがまさか、実は聞こえていただなんて、予想できるだろうか。では、あのとき話していたことは、全て聞こえていたということか? 楽しかったことや悲しかったこと、人には言えないようなこと――あの時はなんでも棺に語りかけていた。それから、彼を綺麗だと、褒めたこともあった。急激に羞恥を感じて黙っていると、それを察したかのように、吸血鬼が言った。
「全部聞いていたわけじゃない。眠りの浅い時に、聞こえただけだ。興味の無い話は、聞き流したりもしたしね――」
「なんだ、それ」
 それを聞いて、腹が立つどころか、おかしくて笑えた。笑っていると、そのうち、ロクスブルギーも小さく笑った。空の端に月が追いやられた薄明るい小路に、二人分の笑い声がささやかに響いた。

 そんな話をしていると、地平線に薄く太陽が輝き始め、それに照らされて町が見えてきた。反射的に、しがみつく手に力が籠った。朝が来れば、町に着いたら、ロクスブルギーはどこかへ行ってしまうだろうと思ったからだ。
「見えてきたな、町だ」
「……やだ。行かない」
「我儘を言うんじゃない」
「やだ」
 背にしがみついて、必死に主張した。母が死に、父が死んだ今、唯一の心の拠り所はこの吸血鬼だと言ってよかった。誰にも話すことの無いような心まで打ち明け、命すら一蓮托生にした、もはや無二の友人だ。
「おいていかないで。一緒にいてよ」
 その懇願に、返答は無かった。その沈黙が拒絶だと分かったから、すぐに言葉を継いだ。
「行かないで、ロクスブルギー。吸血鬼だって誰にも言わない、秘密にする。血が必要だったら吸っていい、痛くても我慢するから――俺をひとりに、しないでよ」
 どんな言葉でなら、彼を引き留められるかなんて分からなかった。――どんな言葉でも、決して引き留められはしないだろうと、分かっていた。だから、口をついて出るのは、単なる子供の我儘ばかりになってしまった。
 ロクスブルギーは一度歩みを止め、背から子供を降ろしてその小さい身体を抱きすくめると――もう一度、首筋に噛みついた。突然のことに声も出せずにいると、血を吸う音とともにふっと視界が暗くなり、身体中の力が抜けた。ちかちかと明滅する視界の中で、再度身体は持ち上げられ、運ばれていく。朦朧とする意識の中で、吸血鬼の声が響いた。
「……吸血鬼に襲われた子供は、教会に助けてもらえる。しばらくの間は、急に発狂したりしないか心配されたり、気休めに薬を処方されるかもしれないが、吸血鬼に噛まれてもそんなことは起きないから、安心していい」
 声色が少し優しくて、少し寂しそうだなんて思うのは、きっとそうであってほしいという、願望に過ぎない。ロクスブルギーは、至って淡々と語ったのだろう。この吸血鬼は本当にただ、ほんの少しの情けで、ここまで付き合ってくれただけなのだ。ほんの少しの気まぐれで、永遠に等しい命の一瞬を、共にしてくれただけなのだ。――あのようなことが起きない限り、決して同じ時間を過ごさなかったであろう、人間のために。
「僕は、そもそも人間が好きじゃない。強欲で、嘘つきで、か弱くて――血を吸うために関わるのも面倒なくらいなんだ。……本当は、君を助ける義理だってなかったんだけど、君があんまり僕に懐くものだから、つい世話を焼いてしまった」
 再度、ロクスブルギーの足が止まり、その背から降ろされる。短い時間に血を失いすぎたせいか、身体がうまく動かせなかった。
 ああ、行ってしまう。ロクスブルギーが、行ってしまう。引き留めようとしてどうにか視線をあげる。いかないで。口が動かない代わりに、視線で訴えた。
 吸血鬼ロクスブルギー。一方的に慕い続けた、美しい棺の主。話をしたかった。ささやかな月明かりの下で、他愛のない話をしたかった。どこにでもいる、友人みたいに。やっとそれが叶ったのに、どうして、別れなくてはならないのだろう。どうして、置いていかれなくてはならないのだろう。急に胸の中が心細さと寂しさでいっぱいになって、涙を溜めた目で、恨みがましく吸血鬼を見た。ロクスブルギーは、呆れたような、困ったような、表現しがたい顔で、笑っていた。
「君に必要なのは、暖かな日差しの下で共に生きる人であって、それは決して、僕じゃない。……さようなら、小さな友人。君の温かな手が、嫌ではなかったよ」
 その言葉を最後に、黒い影は踵を返して去っていく。昇ってきた朝陽に背を向けて、溶けるように、その姿は消えてしまった。手を伸ばしたかった。声をあげたかった。――名前を呼びたかった。

 それらの何ひとつできないまま、意識はゆっくりと、沈んでいった。