5.茨の君
「……甘い」
薄く熱の無い唇が、そう呟いた。血の様に赤い瞳が、ゆっくりと揺れる。吸血鬼――ロクスブルギーは周囲の様子を確認して、その棺から半身を起こす。本当に、起きた。こんな時でなければ、どれほど嬉しかったことだろう。零れてくる涙が、感極まったためか、迫りくる恐怖のためか分からないまま、一方的に友人だと思っている、その吸血鬼に縋り付いた。常人からすると正気の沙汰ではなかったかもしれないが、もう今は、彼しか頼れるものがいない。
「助けて、ロクスブルギー……!」
起き抜けに突然胸に縋りついてくる子供を、しかし、吸血鬼は振り払わなかった。しゃくりあげて不規則に跳ねる子供の背を優しく撫で擦りさえする、彼の振る舞いはとても人間的で、また紳士的だった。吸血鬼は静かな声で言った。
「……君、落ち着いて。今、何が起きている?」
「分からない……、でも、下の階に夜鬼が、たくさんいて、みんな……みんな死んじゃっ、て……父さんが、下にいてっ……助けに、行かないと……」
ドアの外で喚き立てる夜鬼の声に、ロクスブルギーはそちらを一瞥して、それから長く長く息を吐いて立ち上がる。
「……面倒事は、好きじゃないんだが……」
服の長い裾を翻し、欠伸を噛み殺しながら歩みを進める姿は、この状況にそぐわないほど、呑気で、緩慢で――そして優雅だ。いかなる危急を以てしても、悠久の時を生きる彼らの歩みを、急かすことはできないかのようだった。
「……仕方ない。とにかく、その夜鬼たちを殺せばいいのかい」
吸血鬼が自らの指先を噛んだのと、ドアが軋んで破壊されたのは、ほぼ同時だった。
木製のドアが大きな破片になって砕け散る。その勢いのまま、ロクスブルギーを握り潰そうと伸ばされた夜鬼の腕は、瞬きの間に千切れ飛んでいた。吸血鬼の手にはいつの間にか、真っ赤な刃を持つ細身の剣が握られている。彼の一突きの動作で、何百も何千も穿たれたように傷を受けて、夜鬼は黒い血を吹き上げてその場に倒れた。
血溜まりに倒れ伏す化け物に一瞥もくれず、ロクスブルギーはこちらを振り返る。手にした剣はどろりと輪郭を失って溶け、吸血鬼の手の中へと消えていった。血のように赤い瞳が、暗闇の中で煌々と輝いている。
「じゃあ行こうか、『ルー』」
「あ――ま、待って、」
どうして、名前を知ってるんだ――そう問いかける前にロクスブルギーがさっさと歩き始めてしまったので、慌ててその後に続いた。
改めて階下に降りると、もはや惨憺たる光景であった。転がり落ちたいくつもの燭台から火の手が広がり、そこら中に食い散らかされた肉が散らかっていて、それが誰なのかはおろか、男も女も、老いも若いも、判別するのはほとんど不可能な状態になっている。助けに行かなくてはと言ってはみたものの、もはや、ここにいた父が生きているとは思えなかった。
途中、うろついていた夜鬼に数体出くわしたが、ほとんど語ることが無いくらいあっさりと、ロクスブルギーが殺してしまった。彼の剣のひと振りで、夜鬼の巨体は切り刻まれて、床に転がる死骸になる。赤子の手を捻るよりも簡単に、人を握り潰す化け物を殺してしまう。後ろからついていきながら、恐怖で心臓がどうにかなりそうだった。それはこの状況や夜鬼に対してのものであり――この吸血鬼の強さに対してのものでもあった。一瞬でも彼の機嫌を損ねれば、それが自分の最期だろう。そんなことを思っていると、ロクスブルギーが立ち止まって振り返った。
「……大丈夫?」
「え」
「歩くのが辛ければ、運んであげようか」
「え、だ、だいじょうぶ」
あまりにも意外な申し出に一瞬思考を停止してしまったが、どうにか返事をして、置いて行かれないように距離を詰めた。吸血鬼はそれを見て、再び前を歩き始めた。
オークションの会場だった大広間には、無数の骸が折り重なっていた。父の姿は、見当たらない。あるいは目にしていても、気付けないでいるか。どちらにせよ、火が回っている以上、ここに長居することは出来ない。大広間をしばらく彷徨ってから父の捜索を諦めることを決めると、どうにも後味の悪いものが胸の中に溜まった。俯くと、足元に血の付いた一枚のコインが転がっていた。目のようなシンボルが彫られたデザインで、このオークションに参加するための招待状になっていたものだ。父の持っていたものでは無いだろうが、このコインを、遺品の代わりとして持ち帰ることにした。
この間、ロクスブルギーは辛うじて形を留めている椅子に座り待っていた。彼の元へ行くと、床に落ちていた誰のものとも知れぬ腕に噛み付いていたところであったが、それを雑に床に放り投げた。その直前の動作と打って変わって、上品に口元を拭いながら、やや渋い顔で彼は言う。
「死人の血は飲めたものじゃないな。……父親は見つかったか?」
首を横に振って応えると、ロクスブルギーはそうか、と短く返答して椅子から立ち上がる。
「それなら、さっさと出よう。父親の後を、追いたいわけではないんだろう」
「……うん……」
重たい足取りで、出口へと向かった。しかし、妙だった。屋敷の中がやけに静かなのだ。あれほどたくさんいた夜鬼は、どこへ行ったのだろう――その疑問は、一歩外へ出たところで解消された。
細い月がかかる空に、大量の夜鬼が旋回していた。ガァガァと大音声で吠えたてる化け物を見上げて、足が竦んだ。万が一この数に一斉に追い立てられたら、無事では済まないだろう。大広間で行われていた虐殺が、脳裏に過ぎった。空を仰いで、呆れたようにロクスブルギーが言う。
「やれやれ……どうやったらこんなに、夜鬼を集められるのやら……」
「ど、どうしよう……」
傍らの吸血鬼に訊ねると、彼は大きく溜息をついてから眉間を押さえて、視線だけをこちらへ向けた。
「……君、痛いのは平気か?」
その瞳の鋭さに、身体が強ばる。そんな子供の様子は構わず、ロクスブルギーは淡々と話した。
「面倒なことは嫌いだが、これも何かの縁だ。安全なところまでは連れて行こう。けれど、それには君の協力がいる。何故なら、目の前には邪魔者が山ほどいて、僕は起きたばかりで、喉が渇いているからだ。――何を言いたいか、分かるね?」
つまり――血を差し出せということだ。
その覚悟は、とうにしている。棺を開けたその時に。吸血鬼を起こしたその時に。しっかりと頷くと、吸血鬼は目を細めてその場に屈む。
「良い子だ」
赤い瞳を、間近で見つめた。上等な紅玉や柘榴石でも、これほどまでに人の目を奪えるだろうか? あの閉じられた瞼の奥を見ることができたことは、これ以上無い幸運だと思えた。それがたとえ――これ以上ない不幸と引き換えだったとしても。
吸血鬼の手が、頬を撫でる。そのまま身体を引き寄せられ、首筋に鋭い痛みが走った。ぶちりと皮膚の千切れる鈍い音と共に、温かい液体がそこから溢れ出し、それを吸血鬼が吸い上げていく。血が飲み込まれていく音。身体から命が流れ出ていく感覚。そして、全身を這い回る不思議な高揚感。思わず身を捩って仰け反ると、そのまま身体は後ろに傾いていく。地面に背がついてしまう前に、吸血鬼の手が支えた。
頭がくらくらして、視界が回る。全身に力が入らない。激しい虚脱感に襲われながら見上げたロクスブルギーは、口の端から零れた血を舌で舐めとって、満足気に微笑んだ。
「実に上等――子供の血など、口にするのはどれくらいぶりだろう。この甘く雑味の無い血が、だんだん失われてしまうのは、本当に惜しまれることだ……」
月光に照らされている、吸血鬼の黒く長い髪が、端から赤く色付いていくのが見えた。血を吸ったからだろうか。朦朧とする意識で、そんなことを考えた。
「……休んでいるといい。すぐに片付く」
手近な木の幹に凭れかけさせられ、吸血鬼の静かな声を聞いた。暗い視界を懸命に前に向けると、夜鬼の群れがいる方へと、ロクスブルギーがゆっくりと歩いていくのが見えた。
――空から次々と襲いかかってくる夜鬼が、真紅の茨のようなものに絡め取られて、断末魔を上げながら地面に堕ちていく。ロクスブルギーは起きた時と同じように、ゆっくりと歩を進めては、時折手にした剣を、ただ、指揮棒のように振るうだけ。優雅な足取りの吸血鬼に対して、茨に巻き付かれた夜鬼は悲鳴をあげて激しく足掻いていたが、その抵抗も虚しく、茨は夜鬼の分厚い皮膚を破り、肉を刺し貫いて、ばらばらの肉塊に変えていく。
圧倒的だ。もはや強い弱いと論じられるような範疇ではない。生命としての格が違いすぎる。そう思えるほど、吸血鬼と夜鬼どもの力の差は歴然だった。
ほどなく、空を覆う夜鬼の影は残らず消えた。引き換えに、大地に夥しい量の血と肉を撒き散らして。
月下には、たったひとり――吸血鬼ロクスブルギーが佇んでいる。赤く染まっていた長い髪はゆっくりと元の夜闇の色に戻っていき、血で模った剣は溶けて消えた。終幕を迎え、静かになった空を仰ぐ吸血鬼の姿を見つめながら、思わず、口から言葉が零れた。
ああ、やっぱり――きれいだ。
足元に広がる夜鬼の死骸と血溜まりまでもが、一枚の絵画を構成している素材のようだ。無数の死を生み出しながら、当の本人は何の感慨もなく、涼しい顔でそれらを踏みしめている。まるで、命を蹂躙することを許されているかのように。なんて恐ろしく、なんて――美しい、化け物だろうか。
たとえ、踏み潰されているのが、人間だったとしても、きっと――彼を美しいと思ってしまっただろう。