4.その瞼が開くとき
その中に本当に吸血鬼がいると知ってからは、度々真夜中にその部屋を訪れて、棺に語りかけていた。寂しかったからだ。子供っぽいと言われればそれまでだが、子供だったのだから仕方ない。どれだけ声をかけても返事が返ってくることはなかったが、何も変わらずそこにあるということに、不思議な安心感を感じていた。――横たわった母は、そのうちに青白い顔になって、痩せ細って、冷たく変わっていってしまったから。
「吸血鬼って、一回にどれくらい血を吸うんだろ。そんなに多くなかったら、あげてもいいんだけどな。ロクスブルギーは、たくさん吸う?」
棺の蓋を撫でながら、中の吸血鬼に話しかけた。返事は無い。棺に寄りかかり、細く開けたカーテンの隙間から空を見上げた。細い月がかかる空に、星がたくさん見えて綺麗だ。それを分かち合いたくて、棺の蓋を開けた。吸血鬼の瞼はぴたりと閉じられたままだが、気分の問題だ。
「星、綺麗だね」
そう言いながら、薄明りに照らされた吸血鬼の顔を見下ろした。白い頬にかかる黒い髪を少しだけ撫でると、右目の下に黒子があるのを見つけた。新しい発見だ。妙に嬉しくなって、じろじろと顔を見てしまった。そうして改めて――既に何度も繰り返していることだが――本当に、このひとは綺麗だと思った。街中でだって綺麗な人とはすれ違うけれど、なんと言えばいいか、どうにも惹かれて止まない何かが、この吸血鬼にはあるのかもしれない。誰も聞いていやしないのに、声を小さく小さくして、棺に顔を寄せて呟いた。
「……ロクスブルギーは、もっと綺麗だ」
言ってから急に恥ずかしくなってきて、慌てて棺の蓋を閉める。顔に火がついたように熱い。礼拝のとき隣にいた可愛い女の子に声をかけられた時でさえ、こんなに緊張はしなかった。心を落ち着かせようと棺に凭れ掛かって深呼吸をしてから、棺の蓋を撫でて、いつもの通りの挨拶をする。
「――おやすみ。また明日ね」
もし吸血鬼が起き出してきて襲われたらどうしようなどとは、もう考えなかった。仮にそうなったとして、きっと吸血鬼が目を覚ました喜びの方が勝っただろう。この不変不朽の同居人に対して不思議な親愛を感じ始めていた頃、その出来事は起きた。
家に数人の知らない男が出入りし始めた。彼らはしきりに何かを運ぶようなことを話していたので、また父が妙な骨董でも買い付けたのだと思ったが、違った。どうやらそれは、家からあの吸血鬼の棺を運び出すための算段のようだった。それに気付いて、心臓が痛くなった。食卓で、極めて無関心を装って父に訊ねた。
「あの棺、どこかに持っていくの」
この問いかけ自体が、あの棺への関心を示してしまっていることを後になって気付いたが、父はそれを知ってか知らずか、特に追求はせず、そうだと言った。
「あの棺を、オークションにかけることにした。あれは、今回の目玉だ。きっと過去に無いような、物凄い額になるぞ」
父はとても嬉しそうだった。大金が手に入ることよりも、それだけの価値がつくものを所有しているということが、父にとっては嬉しいことだったのかもしれない。売らないで、とその場で言うことが出来ればよかったのだが、それは容易く出来なかった。こんなに嬉しそうな父を見るのは、母が死んでから初めてだったからだ。
しかし、そんな父を喜ばしいと思うのと同じくらい――いやそれ以上に――棺が家から無くなってしまうことが嫌だった。あの棺の中の吸血鬼は、今や唯一本心を打ち明けることができる友人だったし、その目覚めを焦がれて止まない存在でもあった。あの瞼の下には、どんな色の瞳があるのか。薄い唇から紡がれる声は、どんな響きなのか。死ぬまでに一度は、それを確かめられる時がくると漠然と信じていた。だが、吸血鬼は不変であっても、周囲の状況は必ずしも不変ではない。幼い子供は、ようやくそれに気付いたのだ。このままでは、ロクスブルギーがいなくなってしまう。
嫌だ。
――嫌だな。
どうにか、この棺を手元に留められないかを考えた。しかし、それは無理な話だった。たとえ駄々を捏ねてみても大人が数人いれば子供の抵抗など無に等しく、棺は運ばれてしまうからだ。――ならば、落札した人にお願いするのはどうだろう。すぐには無理でも、大人になって必要なだけの金を用意すれば売ってあげると約束をしてくれるかもしれない。どれだけこの棺を、その中のあのひとを大切に想っているのか真摯に訴えかければ、きっと応じてくれるに違いない。しかし心のどこかでは思っていた。そんなはずは絶対に無いと。だってこの棺はとても珍しいものなのだ。大金を出してこの棺を手に入れようという人が、そう易々と手放してくれるわけはない。けれど、頼りない一縷の希望のために、会場へ忍び込んでオークションを見届けることにした。
父は棺以外にも、いくつかの品物を出品するようだった。そのうちのひとつ、夜鬼の革を接ぎ合せて作られたトランク――これもひどく悪趣味だ――の中に身を縮こまらせて潜んで、会場に運ばれるのを待った。作戦は、面白いほど上手くいった。いかにこのオークションにあたり、父が浮かれて注意力散漫だったかが分かるようだった。
品物は会場となった屋敷の、二階の部屋に集められていた。人気が遠ざかり、トランクから這い出てみると、室内には珍妙な品物がいくつもあり、それらがほとんど全て夜鬼にまつわるものだというから、目を覆いたくなるようなおぞましさだった。棺は違う部屋に置かれたようで見当たらなかったが、オークションが始まればじき在処が分かるだろうと考え、探して下手に動き回るのはやめておいた。万が一誰かに見つかれば、目的を果たせなくなってしまう。それでは困るのだ。
品物が運ばれ始めたら、オークションが始まったという合図になるだろうと考え、その様子を確認できるよう、廊下の突き当りの部屋に入り、耳をそばだてながら、時折ドアの覗き穴から外の様子を確認した。どうやら、最初に運ばれた部屋の並びにある部屋いくつかが、品物を保管している部屋らしい。棺があるとすれば、この辺りのどれかだろうと思いながら、引き続き息を潜めた。
ひとつ、またひとつと品物が運び出され、階下の盛り上がりの様子が、微かに聞こえてきた。しかし、どれくらいしただろうか。不意に悲鳴のような声が聞こえ、それから階下が騒がしくなった。――何かが、起きている。そっと扉を開けると、人々が慌てふためく声や、漂う焦げ臭さがはっきりと分かった。様子を伺うために、おそるおそる階段を降りた。階段を降りると、焦げ臭さとは別の悪臭が鼻をついた。その正体はすぐに知れた。
廊下に転がる、赤黒い肉片。それが人だったものだと認識するのには、やや時間がかかった。オークション会場の大広間から、おそらく玄関の方へと向かって点々とそれらが転がっていて、そしてそれに群がる、化け物がいた。
立ち尽くしていると、大広間から這いずるように出てきた中年の男と目が合った。男は顔面を血と涙と涎でぐちゃぐちゃにして、何故ここに子供がいるのかという疑問すらも忘れて、声をあげた。
「たッ、助けてくれッ……!」
思わず、息を飲んだ。這いずるその男の下半身が、既にそこに存在していなかったからだ。それを認識した刹那、大広間から黒い影が飛び出してきて、男の頭を鷲掴みにして持ち上げた。巨大なコウモリのような姿の夜鬼は、羽虫でも潰すかのように、男の頭を握り潰した。飛び散った血液が、僅かに顔に飛んでくる。男の悲鳴はいっそ滑稽な音のまま立ち消え、潰れた頭蓋から滴る汁を、夜鬼は声をあげて啜っている。まるで、喜んでいるかのように。
「――嫌っ、いや! 食べないで! なくなっちゃう、あた、あたしの内臓が、なくなっちゃ」
「近寄るな! やめろ、やめろ、死にたくない、そ、なに、ひ、引っぱらな、で、ぇ」
広間の中からも、複数の悲鳴が上がっては、肉の引き潰れる音や骨の碎ける音が、絶えず聞こえてきている。何が起きているかは、言うまでもない。そこで行われているのは、化け物どもによる虐殺だ。
目の前の夜鬼が咆哮するのとほぼ同時に――叫んで階段を駆け上がった。恐怖で足が縺れ、うまく走れない。残り数段のところで転んで顎を打ち、四つん這いになりながら、手近な部屋に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。果たして、このドアは夜鬼の怪力にどれほど耐えるのだろう? とにかく少しでもドアから離れ、気配を悟られないようにしなければ。夜鬼の羽ばたきの音から逃れるように、部屋の奥へ奥へと這いつくばって進んでいくと、見覚えのある物が視界に映った。
――『ロクスブルギーの棺』だ。
棺はまだ、会場に運ばれず、部屋に置いてあったのだ。ふと、脳内にある考えが過ぎる。
吸血鬼は、夜鬼よりずっと強いと聞く。吸血鬼ならば、夜鬼の群れなど、どうとでもできるのではないだろうか? 思い立って、棺の蓋を開けた。吸血鬼ロクスブルギーは、変わらず微動だにすることなく、そこに横たわっている。どうにかして、起こさなければ。血だ。血を口の中に流し込めば、起きるかもしれない。吸血鬼なのだから当然のように思いつくだろうその方法は、しかしこれまで何故か、試したことはなかった。
結局のところ、吸血鬼を目覚めさせることを恐れていたのだろうか? あれほど慕い、目覚めを待ち焦がれていたくせに、本当は怖かったのだろうか? 今、目の前で容易く人を殺した夜鬼よりもずっと強い吸血鬼が、棺の中で静かに眠るロクスブルギーが、人間を殺してしまおうと思ったら、そんなのは積み木を崩すよりも容易い事だろう。冷静に考えなくても、吸血鬼は恐ろしい存在なのだ。
――刃物を探したが見当たらない。ドアの向こうの気配が、気持ちを焦らせる。何か、何でもいい、鋭いものならば。首を巡らせると、部屋の隅に姿見があった。
意を決して、姿見を勢い良く床に引き倒すと、音を立てて鏡が割れ、破片が飛び散った。その破片を握り締めると、手のひらに痛みが走り、血が滲む。棺のそばに座り込んで、吸血鬼の顎に手を添えて口を開けさせ、そこへ、手のひらから滴る血を流し込む。手は、がたがたと震えていた。
鏡の割れる音を聞きつけたのか、部屋の外では夜鬼が騒いでいる。見つかるのは時間の問題かもしれない。そうなれば、死は免れないだろう。少なくとも、夜鬼に殺されるのは嫌だった。殺されるなら、吸血鬼に殺される方がずっといい。それはもしかしたら、夜鬼に殺されるよりずっと痛くて苦しいかもしれないけれど、それでも、構わないから。恐れたりなんてしないから。
だから、お願いだ。
「……起きて、ロクスブルギー……」
願いが届いたのだと、そんな浪漫のある言葉は使うまい。このときは、それが正しい選択だったというだけなのだ。
滴る血がどれほど流れた頃か、吸血鬼の喉が動いてそれを嚥下し――そして、その瞼が開いた。