2.かつてその中には

 ――『ロクスブルギーの棺』は、それなりの期間、家に保管されていた。母が死んでからというもの、父は奇妙な宝物などを集めて仲間うちで自慢し合うのが趣味だったので、その棺もそういった理由で手に入れたものらしかった。しかし、その棺は宝物を飾る部屋ではなく、日当たりの悪い空き部屋に、ぽつんとそれだけで保管されていた。だから、奇妙だと思ったのだ。
 物心ついたあるとき、父に「あの棺はなんなのか」と訊ねた。父は少し返答を考えていたが、「吸血鬼の眠っている棺だ」と教えてくれた。もちろん、それには驚いた。中の吸血鬼を起こさないよう、決して開けてはならないとも父は言っていたが、子供相手にそんなことを言うのはかえって逆効果だと、大人はなかなか学ばない。父のその言葉が、吸血鬼への興味を煽ったのは間違いがない。
 家中が寝静まったのを見計らって、棺が置いてある部屋へと向かった。さすがに真っ暗闇では棺の中を見るどころではなかったので、カーテンを細く開け、微かな月明かりを部屋に招きながら、大きな物音を立てぬよう注意深くその棺の蓋を開けた。
 正直に言えば、本当に吸血鬼がいるとは信じていなかった。反抗期だったため、棺の中が空であることを明かして、そんな噂に踊らされて余計なものを買ってくる父を咎めたい気持ちがあったかもしれない。

 しかし、その考えは打ち砕かれた。

 蓋を開けると、そこには本当にひとが横たわっていたのである。黒い髪に白い肌。金糸銀糸で彩られた異国風の服は、そのひとをより常人ならざるものとして飾り立てている。整った造作の顔面は、微動だにしない。瞼は伏せられたままぴくりとも動かず、上下することの無い胸板は、呼吸をしていないことを示している。にもかかわらず、時を止めたように朽ちることのないその肉体は、そのひとが生きた人間ではなく、超常的な存在――吸血鬼だという何よりの証左だった。思わず叫びそうになって、慌てて口を手で覆った。父が起きても、吸血鬼が起きても大変なことになる。そのまま数回深呼吸をして、少し気持ちを落ち着けてから、そっと吸血鬼の顔を覗き込んだ。

 ――綺麗だ。
 それ以外の感情が全て削ぎ落ちたように、思った。

 いや、実はこれは吸血鬼なんかではなくて、よくできた人形なのではないだろうか? そんな疑念から、恐る恐る手を伸ばして、その頬に触れた。しっとりとした柔らかい感触は間違いなく、人間の皮膚のそれだ。指で唇を押してみても、自分のそれと何ら変わりない――では口の中は? 噛みついて血を吸うのだから、当然牙があるはずだ。そのまま指を吸血鬼の口内に押し込もうとして、止めた。さすがにそんなことをしたら起きてしまうのではないかと思ったのと、何かしら経験の無い情動が湧き上がってきたことに、少々怖くなってきたからだ。

 開けた時と同じように、そっと棺の蓋を閉めた。棺の蓋には花が彫り込まれていて、このような棺は初めて見る。まるで、中で眠る吸血鬼のために設えられたような美しい棺だ。そして、それ以上に目を奪う存在がこの中にいる。興奮は冷めやらなかった。この、決して重くない棺の蓋の向こうに眠っているひとのことを、もっと知りたくなった。

 また後日、父に棺について訊ねた。父は当然、怪訝な顔をした。それまで息子が、自分の蒐集したものに興味を持つことは無かったからだ。その顔を見て、父に咎められるかと思ったが、実際にはその逆だった。父は嬉しそうに棺のことを教えてくれた。
「あれは、『ロクスブルギーの棺』という、とても貴重なものなんだ」
「ロクスブルギー?」
「吸血鬼の名前だ。茨の君とも呼ばれている、とても高貴な吸血鬼だなんだよ」
「……なんで、棺で眠ったままなの? 父さんが買ってきたってことは、売られていたんでしょ?」
 そう訊ねると、父は首を捻りながら答えた。
「さあ、そこまでは分からないな。本人に聞いてみないと――」
 そこまで言ってから、父は慌てて、だからといって棺を開けないようにと念を押してきた。だがもう遅い。とっくに棺は開けてしまった。そしてどうやらそのひとは容易く目覚めはしないのだろう――顔を無遠慮に触ってもぴくりともしなかったから――という自信があったから、もはや二度目に躊躇いはなかった。再び真夜中に部屋を抜け出しては、棺の元へ向かった。

 蓋を開けて、吸血鬼――ロクスブルギーの顔を覗き込む。少し緊張しながら、声をかけた。
「――おはよう、ロクスブルギー」
 当然だが返答はなく、反応も無い。やはりこのくらいでは起きないか。さしたる落胆もなく、棺に寄りかかっては、カーテンの隙間から空を眺めた。もうすぐ真円になる月のせいか、部屋の中は思ったよりも明るかった。何も期待せず、独り言のように吸血鬼に声をかける。
「……どうしてずっと、眠ってるの? 勝手に売り買いされて、嫌じゃない?」
 吸血鬼は応えない。顔を見ていても、やはり微動だにしない。長い睫毛の先が、月明かりで輝いていて綺麗だ。瞬きをするたびに睫毛が揺れたなら、もっと綺麗だろう。吸血鬼の寝顔を見続けていると、ふと、頭の中に有名な童話が過ぎった。眠っているお姫様は、王子様の口付けで目を覚ますという内容のそれだ。ここに眠っているのはお姫様でもなければ、自分は当然王子様でもなんでもないが、果たして試す価値はあるだろうか?
 好奇心に突き動かされて、棺の中へ身を乗り出す。視界いっぱいに精巧な造りの顔が映り、緊張で心臓が速くなる。その感覚が、苦しくて心地良い。唇が眠っている人のそれに触れたかどうか、分からないくらいの距離になって突然、沸き上がってきた羞恥心が勝って身を引いた。心臓が口から飛び出そうなほど、強く脈打っていた。ほっと胸を撫で下ろすような安心感と、正体不明の後悔の念が同時にやってきて、なんともいえない気持ちになった。少々恨めしい気になって、再び棺を覗き込むと、吸血鬼はこちらの気も知らないで、涼しい顔で眠り続けている。
 
 小さく息を吐き、棺の細い縁に肘を乗せ頬杖をつく。そして、眠っているそのひとを見下ろしながら思った。
 ――話がしたい。仲良くなってみたい。
 もしも今、空を箒星が流れたなら、吸血鬼が起きるよう願うだろう。父の言いつけなどなんのそので、もはや今となっては、この美しい吸血鬼を目覚めさせたいとさえ思っていた。
「……俺の名前、ルーっていうの。ルー・ループス・カウフマン」
 仲良くなるには、やはりお互いの名前を知っていなくては。そんな、およそ今の状況にあてはまりもしない常識を持ち出して、そう名乗った。
「今日はもう寝るね。――おやすみ、ロクスブルギー。……また明日」
 名残惜しく、棺の蓋を閉じる。蓋に彫られた滑らかな花の凹凸を、そっと撫でる。棺を閉じた後には、いつもそうするようにした。その感触すら、だんだんと好ましく、愛おしいものになっていったことを憶えている。

 ――何故、この眠りについた吸血鬼の棺が、人の手を渡り我が家にたどり着くことになったのか。その答えは、棺が失われた今となっても、分からないままである。