1.棺

 かつてその中には吸血鬼がいた――

 骨董屋に並ぶその美しい――と表現するのが適当かはさておいて――棺には、そのような曰くがあった。
 『吸血鬼ドラクル』は、『夜鬼ナイトゴーント』と総称される、化け物の一種である。最大の特徴は、人間の血を糧とすること。夜鬼の多くが知性を持たない異形の化け物であるのに対し、吸血鬼は化け物の膂力と、人間と同等の知性とを併せ持ち、そのうえ多くの個体が見目麗しい。そしてその肉体は老いを知らず、ほとんど不死である。日光の下を堂々と歩けない――彼らの多くは具合が悪くなるようだ――ことを除けば、生命体として完璧と呼んでも良いかもしれない。

 伝承、民話、噂話――そうした真偽の定かでない話の中で、人間はしばしば、吸血鬼に近付きすぎて命を落としながら、その美しい化け物への好奇心を、止めることができないでいる。吸血鬼は見かけにすぐ人間と見分けはつかないうえ、個体数も少なく、そうと知って出会えることは稀だ。街のどこかに潜んでいるかもしれない、限りなく完璧な生命体への憧れを募らせるものが少なくないのは、そうした要因もあるのかもしれない。
 この骨董屋の店主もそんなうちのひとりだ。この曰く付きの棺を、嬉々として骨董仲間から買い取ったのだ。表面に薔薇の花の装飾が彫られた棺はぴたりと閉じられている。今のところ、この店主も、店を訪れた客の中にも、棺を開けた人は居ない。
 もしも、その中に、まだ吸血鬼が入っていたら?
 そんなものはおとぎ話に過ぎず、今は棺の中が空っぽだとしても、万が一が脳裏に過ぎるのであろう。長いこと血を口にしていない吸血鬼と目が合った時、彼らが人間に何をしてくるかは、想像に難くない。
 そんな、触れることさえ憚られるような魔性の棺は、今はその店の目玉商品として、窓辺に飾られている。――本当に中に吸血鬼がいたとしたら、その日当たりの良さに苦言を呈すことは、まず間違いないだろう。

 その棺を、じっと見つめている男がいた。その男は、このところ足繁く骨董屋へ訪れては、窓の外で腕を組み、黙ってそれを見つめている。背が高く、体格はしっかりとしていて、少しばかり人相が悪い。歳は三十前後ほどであろうか。白髪混じりの店主は内心怯えながらも、とうとうこの日、男に声をかけた。このまま頻繁に訪れられて、あの獲物を狩るような眼光で店内を睨め付けられるよりは、どうにか理由をつけて、この男を追いやる方が良いと考えたのだ。

「どうも、お客様……その棺がお気に召したので?」
 両手を擦り合わせながら、たどたどしく店主が声をかけると、男は意外にも笑みを浮かべ、その獣のような眼光を和ませて、気さくな調子で言葉を返した。
「ああ、そうなんだ。少し見せて貰っても?」
「え、ええ、勿論ですとも。どうぞ、どうぞ」
 少々呆気にとられた店主は、男を店の中に招き入れ、傍にある椅子やら机を退かして、棺を鑑賞するのに十分なスペースを用意した。男は棺の側に屈むと、読み取り難い複雑な表情を浮かべて、表面を撫でた。
 その様子は、単に興味本位で骨董品に触れているようには見えない。確かな審美眼を持ち合わせた人が、古物に親しみ慈しむような、そんな風に見えた。男の身なりは悪くない。もしかしたらこの人相の悪い男は、意外にも良い客になるのではないか――そう店主は考えた。そして、ひとつ咳払いするとその棺に関する逸話を語り出した。

「その棺は『ロクスブルギーの棺』と言いましてね。今から二十年ほど前、あるオークションにかけられていたところ、途中で棺の中の吸血鬼・ロクスブルギーが目を覚ましてしまい、夜鬼どもを従えてそのオークション会場を、血祭りにあげた……そんな逸話があるのですよ」

 店主の話を、男は黙って聞いている。そしてやがておもむろに、棺の蓋を持ち上げた。店主は思わずあっと声を上げ、慌てて後退る。男は小さく鼻で笑い、肩を竦めた。
「そんなにビビるなよ。空っぽだ」
 恐る恐る戻ってきた店主は棺を覗き込んだ。間違いなく、そこに広がっているのは虚空の暗闇で、吸血鬼の影も形もない。店主は安堵と落胆を綯い交ぜにし、大きく溜息をついた。その直後、男は立ち上がり店主に詰め寄った。
「その話、誰から聞いた?」
「それは……この棺を売ってくれた、骨董仲間が……」
「そうかい。そのお仲間とやらを、紹介してくれないか? 吸血鬼の話を、もっと聞きたくてね」
 男が懐から取り出したのは、背面に光を模した輪のついた、銀色の小さな十字架である。それは教会の関係者のみが持つことを許されている特別なものだ。神に祈りを捧げ、人々の安寧を守り、そして、夜鬼を排除する――この三つが、教会の使命である。夜鬼が関わる事件や古物の調査は、教会の管轄だ。この男は教会に属するものとして、棺の中にいたという吸血鬼のことを確かめなくてはならないだろう。今の話をした上で彼の調査に協力的でない場合、夜鬼の信奉者とも取られかねない。なんとしてもそれは避けなければならなかった。
「は、はぁ、なるほど……少々、お待ちを」
 店主は再び怯えながら、紙片にその骨董仲間の連絡先を記す。小刻みな震えを写し取った文字と店主とを見比べたあと、男は紙片を懐にしまった。
「ありがとう。……賢明な店主に、ひとつ教えてやるよ」
 男は店の出口に向かって歩を進め、そして肩越しに振り返って言った。
「その吸血鬼の棺は、偽物だ。いくらで買ったか知らんが、付き合う友達は選んだ方が良いぞ」
 店主がえっ、と問いかけるのを待たず、男はひらひらと手を振って去って行った。

 外は今にも雨が降り出しそうな曇天だ。男は道を歩きながら、先程の言葉を反芻する。

 その吸血鬼の棺は、偽物だ。
 何故なら――本物は燃えてしまったから。
 棺からその主が出ていった、あの日に。

「……どこにいる、ロクスブルギー」

 男の問いに、答える声は無い。振り仰いだ空から零れた雫が男の頬を濡らし、そしてやがて、道路に無数の染みを作り上げた。
 あの日の血溜まりみたいだと思いながら、男は水溜まりを踏みつけて、前へ進む。追い続けている吸血鬼は、未だ影も形も、見せぬままである。