ボーイミーツガールは始まらない

 『フェリーチェ』は、繁華街から少し離れた場所にある、隠れ家的イタリアンレストランだ。各地の名店を渡り歩いて修行したオーナーが開いた小さな店である。素材にこだわり抜いた料理と、非日常を演出するアンティーク調のインテリアが注目を集め、近隣ではなかなかの人気店、と言っても良いだろう。ピークの時間帯は満席になることも少なくない。

 その店で、俺はアルバイトをしている。かれこれ三年ほどになって、今いるスタッフの中では古株の方だ。最初の頃はホールスタッフとして、今は調理の補助をやらせてもらっている。オーナーは当初、調理に関することは全て自分でやりたいという強い希望があったのだが、人気が出てくるとそうも言っていられなくなって、渋々キッチンにもスタッフを入れることにしたのだ。その時に、そこそこ長く勤めていた俺に、キッチンの方をやってみないかと声がかかったのである。そう、つまり俺はこの店の、調理補助アルバイト第一号だ。それが、ちょっとだけ自慢だったりする。

 キッチンの仕事はなかなか大変だ。ひたすらトマトをカットし続けるとか、パスタを茹で続けるとか、単調な仕事の繰り返しも多い。比較的、そういう仕事を楽しめる性格で良かったと思う。そんな単調なルーティンの合間にふと店内を眺めると、少し前に入ったばかりの、アルバイト女の子と目が合った。眉尻を下げ、何か困っているように見えたので、手を止めて声をかけにいった。

「どうかした?」
「あ……えっと……ちょっと怖い感じのお客さんがいて……」

 彼女が小声で言いながら視線を向けた先、店の角のテーブルに、ガタイが良く厳つい見た目の男が二人がいる。どちらもスーツを着て、ギラギラ光る腕時計を身に着けている。見た目で客を判断するのはもちろんいけないことではあるが、女の子が怖がるのも無理はないだろうな、という納得感があった。俺は小声で返す。

「じゃあ、あの席は俺が持っていくよ。他のお客さん見てて」

 オーナーに事情を説明し、一度キッチンから抜けて、例の席に料理を運ぶ。実はこうしたことは初めてでもない。ホールのスタッフは女の子だけのことが多いので、男手が必要となると必然俺が駆り出されることになるからだ。

 むっつりと無表情な男たちは、ただそこにいるだけなのに、かなりの圧を感じた。しかしここで、おどおどした態度を見せてはいけない。彼らもまた、お客さんには違いないからだ。

「お待たせしました。和牛のボロネーゼと牡蠣のアーリオ・オーリオです。以上でお揃いですか?」
「……ああ」
「かしこまりました。食後にドリンク、デザートが欲しくなりましたら、ご注文はいつでもどうぞ」

 ドリンクとデザートの書いてある小さなメニューをテーブルの角に置くと、片方の男が口を開いた。

「……おすすめは?」
「えっ、えー……俺なら、レモンのソルベですかね。甘さ控えめでさっぱりしてて、こってりしたものの後に食べるの、おすすめです」

 当然のように沈黙。愛想笑いを浮かべているその時間が、何時間にも感じられた。そうしてしばし無言で対峙していると、男はにやりと――大変失礼だがとても邪悪そうで怖い――笑みを浮かべた。

「……じゃ、それひとつ。あと、そっちにはコーヒーを」
「はい。食後にお持ちします。ごゆっくりどうぞ!」

 伝票にそれらを書き加えて、そのままにこやかにその席を後にする。ひとまずこれで役目は果たせただろう。固唾を飲んで見守っていたらしい新人の子に、大丈夫だよと目配せをして、キッチンへ戻る。彼らが食べ終わるまではまだやや時間があるだろう。再び、自分の仕事に戻った。その後も目まぐるしく入り続ける注文を捌いているうちに、昼間のピークを終えた。

 例の客はというと、帰るときにわざわざごちそうさまと、兄ちゃんによろしくと言っていったらしく、本当にただただ見た目が怖いだけの人たちだったらしい。あとから聞いて、思わず笑顔になってしまった。

 そうして少し昼をやや過ぎた頃、休憩の時間になりスマートフォンを確認した。着信が一件と、新着のメッセージが一件。着信の方は祖母からで、メッセージは千歳からだった。電話は長くなりそうなのでバイトが終わってからかけるとして、メッセージの方を先に確認した。

『バイトおつかれ。敏江さんが、お前の誕生日祝いをしたいから、家に来いってさ。バイト終わったら電話しておけよ』

 千歳のメッセージはいつも通り絵文字もなにもない簡潔な文面で、祖母が電話をかけてきた理由を教えてくれている。そういえば、もうすぐ誕生日だったことを忘れていた。祖母には、しばらく会っていない。電話をかけてきたということは変わらず元気なのだろう。

 誕生日。祝ってもらえることは素直に嬉しいし楽しみだ。しかしそれとは別に、複雑な思いが過ぎらないといえば嘘になる。
 時々思うのだ。本当に自分は、産まれてきて良かったのだろうか、なんて、そんなことを。

 やめよう。そんなことは考えるな。頭を振って、先々の楽しいことを考えようと努めた。

『分かった! 楽しみ! ちーちゃんも一緒に行くの?』

 千歳へのメッセージを打ち込んで、送信。スマートフォンを鞄にしまって、手早く軽い食事を摂ることにした。今日はまだこれから、夕食時のピークが待っている。もうひと頑張り必要だ。頬を軽く手で叩いて気合を入れ直す。

 そうだ。余計なことは考えなくていい。
 俺はただ、今の生活を守ることができれば、それで十分なのだから。

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「日渡さん、いいですよねぇ〜」
「はあ?」

 さして耳にするのも珍しくもないその発言に、思わず過剰に反応してしまった気がする。仕事が終わり、帰り支度をしている新人の女の子が、うっとりと上空に視線を向けながら話している。

「初めて見た日から思ってたんですよね。素敵だなって。優しいし、料理も上手そうだし。冬野さんは気にならないんですか? 仲良しですよね?」
「いや別に。普通にバイト仲間として仲良いだけだから」
「そうなんですか? 良かった〜」

 ただ歳が近くて、ここにいる歴が同じくらいだと言うだけで、私と彼との間に、何かしらを思う人は少なくない。けれど、実際のところは何もない。何もありようがなかった。彼の心の中に立ち入ることができるのは、この世にたったひとりだけだから。

「一応言っておくけど、アレはやめといた方が良いよ~……」

 恋する乙女は、往々にして人の忠告を聞かないものだ。新人はウキウキした足取りで、店の方へ向かった。おそらくは、すみっこでまかないを食べている彼に挨拶をしに。溜息をついてキッチンへ向かうと、オーナーがパスタを茹でているところだった。

「お疲れ様。冬野さんもまかない食べて帰る?」
「はい、いただきます」
「パスタばっかで悪いけどね」
「いえ。ここのパスタは宇宙一なので」

 嬉しいねぇと言って、オーナーはまかないを盛り付けてくれた。手抜きカルボナーラだと言って笑っていたけど、手抜きでこんなに美味しいのだから不思議だ。

 客足も途絶えてきた店内のすみっこの席で、日渡燦はパスタを食べている。昼間の礼を言って頭を下げる新人に、気にしないでなんでも言って、と笑顔で彼は返している。新人は嬉しそうに頷いて、上機嫌で帰って行った。

 入れ替わるように、彼の席の正面の椅子を引いて腰を下ろす。邪魔にならないよう、まかないはスタッフ同士まとまった席で食べるのが、なんとなく暗黙の了解になっている。だからこの行動に他意はないし、彼もまた驚いたりもしない。私たちは、長いことこの店で一緒に働いている仲間だからなおのことだ。

「甘やかさなくていいのに」
「はひは?」
「さっきの子。すっかり日渡くんを気に入っちゃって、キャーキャーうるさいったらない」
「え、そうなの?」
「そうだよ。無自覚天然タラシくん」

 店の外で関わることは無いけれど、私と彼とはそれなりに気心知れた間柄だった。悪態をつくのも、軽口を言い合うのも日常茶飯事だ。しかしながら、タラシなどと言われては彼にも思うところがあるようで、むくれながら抗議してくる。

「でもさー、女の子が怖がってたら、助けてあげるの普通じゃない?」
「道徳的にはそうかもしれないけど。仕事だよ?」
「自分の手の届く範囲だったら助けるよ」
「……君、ほんとそういうとこ……」

 そんなことを話していると、テーブルに置いてある日渡くんのスマートホンが振動した。新着メッセージの通知らしい。彼は画面を覗き込んで、パスタを詰め込んだ頬を緩ませて、嬉しそうに微笑んだ。彼は日頃から表情の柔らかな方だが、彼をこんな笑顔にさせる人物を、私はひとりしか知らない。

「……『ちーちゃん』から?」
「えっ、うん。なんで分かった!?」
「顔に出すぎ、分かりやすすぎ」

 そう指摘されて、彼は両手を頬に当てる。自覚なし、と。思わず溜息が漏れる。フォークでくるくるとパスタを巻きながら、脳内で『ちーちゃん』に関することを思い出していた。

 『ちーちゃん』とは。日渡燦が何年――少なくとも、三年ほど前にここで出会った時から――も、一途に想いを寄せているらしい人物である。結構歳が離れていて、小さい頃から親しくしていて、大きな恩があって、日常よく顔を合わせている人、らしい。
 らしい、というのは、それ以上を知らないからだ。その人と彼の間には、並々ならぬ何かがあるのを、それとなく感じていた。触れてはいけない秘密のような、彼らだけの世界のような、そんなものを。だから、彼の口から出てきた話以上のことを、私は知らないし、訊ねたこともない。ただ、今も昔も変わらず、彼の世界の大部分は、この『ちーちゃん』により構成されていた。それだけが、確信めいて感じられる。

「それで? ちーちゃんと何か進展は?」
「進展……って?」
「だから、付き合ったりとか」

 そう訊ねると、日渡くんは噎せた。無言で手を彷徨わせているので、水の入ったコップを持たせてあげた。彼は水を一口飲んで胸を叩いて、大仰に飲み下して息をついた。

「そんなに変な質問? 好きなんでしょ?」
「それは……そうだけどさ〜……」

 もごもごと口ごもり、それから彼はぽつりと呟いた。

「……怖いよ、言うの」

 彼がそんなことを言うのは意外なようで、しかし腑に落ちるものもあった。好きだからこそ、今の関係を壊したくなくて想いを告げることができない。少女漫画なんかでよく見る展開。使い古されたベタな設定。けれど、実際に自分がその立場なら? そう考えると、それは想いを秘めるに十分値することだろうと思う。

 ――たとえば。私が仮に、仮に日渡くんのことを好きだとしよう。三年ほども同じ職場で働いて、苦楽を共にして、冗談を言い合って、一緒にご飯を食べて。向こうも私のことを、憎からず思っているだろう、そういう予感があったとして。そんな心地良い関係が、丁度良い距離感が、「好きです」のたった一言で、木っ端微塵になってしまうかもしれないのだ。

 それはとても、辛いことだと思う。だってその世界線の私は、彼とこうしている時間が好きだから。一仕事終えて、オーナーのおいしいまかないを、一緒に食べるのが好きだから。それが明日から、居心地悪そうに彼が視線を逸らすようになって、このパスタを砂を噛むように食べなきゃならなくなるとしたら、そんなのは嫌だ。だったら、好きだなんて伝えないほうがマシ。少なくとも、ここにいる間はそれで、居心地の良い時間は続くのだから。

「……そうだね。そうかも」
「……冬野さんにも、怖いって感情あるんだ……!」
「あのさ、私のことなんだと思ってる?」

 凄んでみせると、日渡くんはごめんごめん、と両手を合わせて謝ってくる。この様を見ていると、正直あまり頼り甲斐があるようには見えない。けれど今日の昼間のように、誰かが困っていると率先して助けてくれるし、意外と胆も据わっている。そんなギャップが良いのか、彼のことを好きになる子は少なくなかった。大体皆そのうちに、「自分では無理だ」と諦めていくのだけれど。

「まあいいや。で、ちーちゃんはなんて?」
「……それ訊いてくる?」
「いいじゃん別に。ご飯のおともに教えてよ」
「そんな酒の肴みたいに……ばあちゃんが誕生日にお祝いしてくれるらしくて、ばあちゃんち行くんだけど……ちーちゃんも来るってさ……」
「アー、ヨカッタネー」

 話すのを渋っていた割にはとんでもなくデレデレするので、心底から大きな溜息が出た。同時に、そうか日渡くんの誕生日はもうすぐか、と思い出した。この店は大体、誕生日はお休みを当ててくれる。だから、彼の誕生日を、当日に祝ったことはないけれど、たまにはちゃんと祝ってあげようかな、気まぐれにそう思い立って質問をする。

「日渡くん、誕生日に欲しいものある?」
「えっ、くれるの?」
「気が向いたらね」
「やった。嬉し~何がいいかな~」

 彼は腕を組んで頭を捻ってから、思いついたように言った。

「あ、じゃあ……『友情』がいい!」
「友情ぉ?」
「俺あんまり、友達いないし。冬野さんが仲良くしてくれるの、嬉しいから。これからも、仲良くしてください!」

 それ以上欲しいものないかな、と嬉しそうに笑うから、私も――それ以上何も言えないのだ。

「……気が向いたらね。じゃ、お先ー」
「えー!? なんでぇ!? おつかれ」

 頂いたまかないの皿を片付けて、彼より一足先に、店を出る。なんとなく重たい足取りを励ますように、横断歩道の白いところだけ踏みながら、一歩一歩跳ねるように歩いた。

 ボーイミーツガールは始まらない。私と彼の間には、友情と仲間意識のほかに、何も育つことはない。そんなことは出会ってまもなく分かったことで、今更それについて、思うことは何もないのだ。そう、何もない。

「……どんな人なんだろうな」

 当て所なく呟いた言葉に、応える人はいない。
 できれば、私が足元にも及ばないくらい、『ちーちゃん』が素敵な人でありますように。
 そうしたら、遠慮なく負け惜しみを言うことも、きっと許されるだろうから――

 なんて、少しだけ感傷的になりながら、帰路についた。