幸せは決して歩いてこないから

 絵を描くという行為は、それをしない人が想像するよりも遥かに、心身を削る行為だ。それ故に、ひと仕事終えた時の解放感は計り知れない。出展する予定の絵を描き終えたので、久しぶりに今日は休日らしい休日を送っている。

 同居人がバイトに出かけていくのを見送ってから、リビングのソファに全身を預ける。柔らかな感触に沈み込んでいきながら目を閉じると、先程の同居人の言葉が反芻された。

 ――いってらっしゃいのキスして?

 顔を寄せ、悪戯っぽく目を細めて笑う様は、かつて――出会ったばかりの頃――とは比べ物にならないほど大人びていた。十二年前、年齢の差はそのまま身体の大きさが違うことを表していたが、時が経つにつれてその差は縮まり、今はただ、年齢の欄に書かれる数字に差があるだけのようなものだった。

 ――大きく、なったな。

 それは喜ばしいことだった。しかし同時に、何か、深々と胸に刃物が突き刺さるような、そんな思いがある。とても、人には言えないような、そんなものが。

 そんなことを考えていると、不意に家の電話が鳴った。はっとして立ち上がり受話器を取ると、よく聞き慣れた中年の女性の声が聞こえてきた。

『もしもし、千歳くん?』
「あ……敏江さん。お久しぶりです」

 その女性は同居人――日渡ひわたりあきらの祖母だ。両親と別れて暮らさなければならなかった燦を引き取り、親同然のように育てた人であり、その関係でお世話になっている人である。

 家庭内暴力が原因で、燦の両親は離婚していた。親権は母親のものになり、燦の姓も母方のものになったが、肝心の母親は数年間にわたる恒常的な暴力による心身の衰弱が著しく、単身で満足に子供を育てることは困難になっていた。

 そこで、白羽の矢が立ったのが母方の祖母である敏江さんだった。
 一人娘が駆け落ち同然に家を出ていき、長らく連絡が取れないでいたところ、突然いろんなことが起きたものだから、彼女の困惑は計り知れない。それでも、彼女はまず母子が生きていたことに安堵し、快く孫の面倒を見ることを了承してくれた。燦が家を出たあとも、こうして何かにつけて気遣ってくれている。

『燦くん、元気にしてるかしら。電話が繋がらなくて』
「バイトに行ったところです。元気すぎるくらいですよ」

 そう返すと、彼女は受話器の向こうでくすくすと笑った。それに続いて、このように話した。

『そう、良かった。それでね、もうすぐ燦くんのお誕生日でしょう。今年で二十歳になるから、お祝いをしてあげたくて。うちでパーティーをしようと思うんだけど、どうかしら? もちろん千歳くんも一緒にね』
「ああ、それは……喜びそうですね」
『そうよね! プレゼントも用意しておかなくちゃ。燦くんにも、このこと伝えておいてくれる?』
「分かりました。バイトが済んだら、そちらに連絡するよう伝えておきます」

 機械に疎いらしい敏江さんからは、度々こうして燦絡みの電話が来る。本当に何の用もなく、元気かどうかを尋ねるだけのこともあるが、特にそれを煩わしく思ったことはなかった。

『悪いわね。千歳くんには本当に、何から何までお世話になっちゃって』
「いえ。空き部屋を有効活用してもらうほうがありがたいですよ。ちゃんと家賃も貰ってますから」
『ならいいんだけど。でも、なかなか気軽にお家に人を呼べないんじゃない? お友達とか、彼女とか』

 一瞬、息が詰まる。

「……いえ、今のところそういう用事は、ありませんから」
『そう? 遠慮しないでなんでも言ってね。そういう時は燦くんをうちへ寄こしたっていいんだから!』

 ありがとうございます、と返事をしているのが、自分ではない誰かのように感じた。これが心にもない、明らかな社交辞令で返している言葉であるせいだろう。

 この家に他の誰かを立ち入らせる気はなかった。
 ――燦のほかには、誰ひとり。

 このあと、二言三言と他愛もない世間話をして、彼女との通話を終えた。受話器を置いて、何故かどっと疲労した心地になって、再度ソファに座り、そのままずるずると横たわる。

 現実を直視したくなかった。日頃、上手に上手に目を逸らしながら生きているつもりでも、それはふとした瞬間に目の前に現れて肩を掴んでくる。逃げるなと、言い聞かせてくるように。

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 己の行いについて、悩んでいた。

 登下校の際に通りかかる燦の家から、度々大きな物音や怒鳴り声が聞こえているのは知っていた。小さな子供がいることも。だからこそあの日、尋常じゃない怒号を耳にしてあの家のドアを叩いた。それを『勇気ある行動』だと大人たちは称賛したが――結果としてその行いは、幼い子供を孤独にした。住処を移ったらしいという話をそれとなく耳にしたが、その子がどうしているのかは、知ることができなかった。

 そうして少し時間が流れた。高校進学を控えて、登校と下校を繰り返すだけのような単調な日々が続いていたある日。下校中に突然子供の大きな声が聞こえてきた。

「ちーちゃん!」

 ――その声が、自分を呼んでいるものとは露ほども思わなかった。子供の声だな、と思っていると、後ろからバタバタと足音が近づいてきて、脚に突進してきた。脚に取りついてきたその子供を見て、その時は随分と驚いたものだった。それはあの日、玄関から転がり出てきた子供だったからだ。ややあって、子供の後ろから早歩きでやってくる女性がいた。

「ああ――あなたが佐伯千歳くん?」
「そう、ですけど。えっと……」
「日渡敏江と言います。……娘と孫のこと、ありがとうございました」

 彼女曰く。勇気ある行動をとった学生に、礼をしたかったのだという。それで、このあたりを訪ねて回って俺を探していたらしい。それならばとご厚意に甘えて、喫茶店でケーキなどをご馳走してもらう運びになった。

 女性と子供の歩幅と調子に合わせてゆっくり歩いていると、燦が隣でちらちらとこちらを見上げているのが分かった。明らかに、何か言いたげである。

「どうした?」
「えと……んっと……」

 燦は落ち着きなく視線をきょろきょろとさせて言い淀んだ。子供の情緒になど詳しくはない。してやれるのはせいぜい、怖がらせないようにしゃがんで目線を合わせてやることくらいだった。

「言って。怒らないから」
「ん……ん……」

 促すと、燦はぎゅっと目を瞑って数回頷いてから、手を差し出した。

「て、つなご……」
「いいよ」

 差し出された手を握ると、本当に――ぱっと明るくなるという言葉の通りに、燦は満面の笑みを浮かべた。小さな手は驚くほど力いっぱい手を握り返してくる。子供って意外と力があるんだなと、ぼんやり思った。喫茶店にいる間も、燦は傍を離れなかった。えらく懐かれていた。その様子を見て、敏江さんは微笑ましげに目を細めた。

「千歳くん。もしご迷惑でなければだけど……時々燦くんに、会いに来てあげてくれないかしら」
「それは、構わないですが……俺でいいんでしょうか」
「いいのよ。燦くんも、千歳くん来てくれたら嬉しいよね」
「うん! うれしいー」

 本人がそう言うなら、そうなんだろう。それからは週に二、三回程度、放課後に日渡家を訪れることにした。部活には入っておらず――高校でも入る予定はなかった――その分勉強をしなさいときつく親には言われていたが、勉強くらいはどうとでもなる。帰りが遅ければ小言を言われることはあるが、両親はそれほど俺に関心は無い。だから、成績さえ問題なければ、放課後はある程度自由に過ごせたのだ。

 日渡家へ行くたび、燦が嬉しそうな顔をして出迎えてくれるので、悪い気はしなかった。――居心地の悪い家に、帰るよりはずっと。燦は目に見えて元気になっていって、よく喋るようになった。たくさん喋りたいことがあるらしい。あっちこっちに飛び跳ねる燦の話を聞きながら、俺は大抵、手近なものをデッサンしていた。絵を描くことだけは、あまり両親は良い顔をしていなかった。ここでは自由に紙を広げて描くことができたのだ。

 あるとき、俺はかねてから気にしていたことを燦に訊ねた。

「……寂しくないか? お父さんとお母さん、いなくて」
「んー……」

 ある時そう訊ねると、燦は少し悩んでから首を横に振った。

「おばあちゃんたちやさしいから、さみしくないよ。ちーちゃんも、きてくれるもん」

 そう言って、燦が笑ったから。ようやく俺は、自分の行いが正しかったのだと受け入れることができた。
 勇気を出して良かった。この子が生きていて本当に良かった。傍にいてあげよう。そうしたいから傍にいよう。彼が大きくなって、ひとりで生きていけるまで――



「遅かったね、千歳。最近道草多いんじゃない?」

 ――新たに手に入れた温かな日々は、暗鬱とした日々を浮き彫りにした。見かけだけが立派な家に帰れば、やたらと露出した服を着た姉が声をかけてくる。目に入れるのも疎ましくて、そのまま自室へと足を向けると、腕を掴まれた。

「返事くらいしなよ。昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって、べったりだったのに」
「……放っておいてくれ。あんたと関わりたくない」
「何それ、可愛くないの。……もう手伝ってあげないよー」

 一瞬で、血が沸騰するようだった。姉の腕を乱暴に振り払って睨みつけると、目の奥が痛んだ。怒りのあまり、視界がちかちかと明滅しているような気さえする。

「二度と俺に触るな……! そんなもん願い下げだ……!」

 玄関のドアが開いた。父が、ちょうど帰ってきたのだ。物々しい雰囲気の姉弟を目の当たりにして、しかし父の表情は少しも動じていない。そんなことはいつもの事、あるは気にするほどの事ではないとでも言うかのように。

「千歳。あまり大きな声を出すんじゃない。遅い時間に、ご近所に迷惑だろう」
「……」
「千晶、夕食はもう食べたのか」
「うん、食べたよ」
「そうか。じゃあ先に部屋に行ってなさい」
「はーい。待ってるね、パパ」

 ――悍ましい会話のやり取りに、眩暈がした。

 用意されていた食事をどうにか咀嚼する。
 飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで、そして、全て吐いた。

 部屋へ戻ってベッドに横になっていると、控えめなノックの音が響いた。返事をしないでいると、細くドアが開いた。視線を向けなくても、そこにいるのが誰かは分かっていた。

「何か用、母さん」
「……ご飯、おいしくなかった?」
「別に。普通だったよ」

 そう、と淡々とした母の声が返ってくる。鉛のように重苦しい沈黙が流れる。よっぽど、言ってやりたかった。どうして何も言わないのかと。どうして見て見ぬふりをしているのかと。

 けれど、言えなかった。勇気が無かった。
 だから? だとか。それがどうした、だとか。そう返ってきたらと考えると、恐ろしくて堪らなかった。
 父も姉も、母も、皆どうかしている。この家は、ずっとおかしかった。

 いや、もしかしたら。俺もどうかしているのかもしれない。
 自分が正しいと思い込んでいるだけで、本当は、俺も――どうかしているんじゃないかって。



「ちーちゃん?」

 燦に呼ばれて、はっとなって顔を上げる。子供の丸い目がぱちぱちと瞬いてこちらを見ていた。小さい手が服の裾を掴む。

「どうしたの? おねつある? いたい?」
「あ――ああ……いや、なんでも、ないよ……」

 心配そうな子供の様子を見て、安心させないと、と思った。笑おうとして、失敗した。泣いてるみたいな顔になって、だけど涙は出なかった。泣いてたまるかと思っていた。あの家族のために、泣くのは馬鹿馬鹿し過ぎるからだ。こんな顔を燦には見せられなくて、俯いて片手で顔を隠した。おろおろし始める子供に、できる限り平静を装って、言った。

「なんでも、ないんだ。ちょっと、家に帰るの――嫌だなって、思っただけで」
「……おうち、きらいなの?」
「……少しだけ」

 その嘘を、あの時の燦が見抜いたのかは分からない。
 ただ、燦は言ったのだ。俺の人生をすっかり変えてしまう言葉を。

「じゃあ、おおきくなったら、いっしょのおうちに住も?」
「え……?」
「ちーちゃんのすきなもの、たくさんおこうよ。そしたら、おうちすきになれるよ。ちーちゃんが『ただいま』ってかえってきたら、ぼくが『おかえり』するんだ。それでね、いっしょにすきなことして、たのしいままねむって、またつぎのひ、おはよーってしたい! ……いや?」

 真っ黒になったカンバスの上に。拙い言葉が描いた未来は、あまりにも眩しかった。そんな未来があるのだろうか。そこへ歩いて、行けるだろうか。

 もし、そんな未来があるのなら――生きていけるかもしれない。どんなに、心の隅に汚泥のような吹き溜まりがあったとしても。君がそこに、居てくれるのなら。
 
 燦の小さい身体を抱きしめた。顔を見られたくなかったからだ。けれど、本当のところは――縋り付いて泣きたいくらいだった。

「いやじゃないよ」
「ほんと?」
「うん。……一緒にいよう」
「うん!」

 嬉しそうにしがみついてくる手を、愛しく思った。本当の家族のように。兄弟のように。変わらず愛しく思い続けられるものだと、そう信じていた。あの時は。

 俺たちは、願った未来へ辿り着けたのだろうか。そのはずだ。好きなものに囲まれて、好きなことをして、一緒にいる。そんな生活を手に入れた、なのに。

 笑いかけられるたびに。
 見つめられるたびに。
 些細に触れ合うたびに。

 どうしてこんなにも、罪悪感に押し潰されそうなのだろう。