君はまるで神様で


 無機質なアラームの音が、意識の遠くで聞こえる。枕元に置いたスマートホンを弄る手つきは慣れたもので、ものの数秒でアラームを停止させる。嫌だ。まだ寝ていたい。だってまだバイトの時間までは余裕があるし、そのバイト先まではバイクを飛ばしてたったの十五分で着くのだ。だから、この次のアラームまで寝ていて良い。

 静寂を取り戻した部屋で再び微睡んでいると、コンコンとドアをノックする音、続いてよく聞き慣れた男の声が部屋に飛び込んでくる。

あきら。アラーム鳴ってたぞ」
「んー……いいの、まだ時間あるから……」
「そうか。飯が冷めても良いなら、好きにしろ」

 想定外の言葉に、一気に意識が覚醒する。がばりと身を起こしてドアの方を見ると、呆れた顔の男がいる。同居人――というより、この家の主――の佐伯千歳さえきちとせだ。
 
「え、作ってくれたの!? 嬉しい、食べる!」

 勢いよくそう返してベッドから這い出てくる様子を見て、千歳は呆れた顔のまま、少し頬を緩めて笑った。踵を返して歩いていく彼の後ろに続いて、その肩に手を乗せながら訊ねる。

「なに作ったの、ちーちゃん」
「『千歳さん』な」
「はーい。なに作ったの、千歳さん」
「別に大したものは用意してない。そんなに期待するな」

 そう言われながらリビングへ向かうと、テーブルの上には炊き立ての白米、味噌汁、焼いた鯖と野菜の焼き浸しが並んでいた。トースト一枚を慌てて齧って家を出ていく日の方が多い身としては、十分過ぎる朝食である。

「うわ、朝からこんなに作ったの?」
「放っておくと、お前が碌なものを食べていかないから」
「俺のためってこと?」
「お前に何かあったら、おばあさんたちに申し訳が立たない」
「つまり俺のためじゃん」
「……分かった。そういうことでいいから、さっさと食べろ」

 そんな会話を交わしながら各々の席に着く。どちらからともなく手を合わせ、いただきますと言って箸を持つ。ちらりと視線を上げれば、向かいの席に座った千歳が味噌汁を啜っている。寝不足気味なのか、うっすら目の下にクマができていた。が、それを差し引いても――多少の贔屓目は否めないが――今日も最高に格好良いなと思った。たった何日かぶりに一緒に朝食を食べるだけなのに、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。俺は世界で一番の幸せ者だとさえ思える。

「あ、ちーちゃん、これおいしー」
「……『千歳さん』な」
「はい……千歳さん」
「よろしい」

 小言のように、逐一呼び名について抗議されたって、全然気にならない。
 何故かってそれは、俺は佐伯千歳のことが大好きだからだ。


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 ちーちゃん――佐伯千歳とは、なんだかんだ十年以上の付き合いになる。幼馴染と言っても良いだろうが、八つも歳が離れているので、あまり幼馴染、という呼び方は似つかわしくない気がしている。俺が小学校に通う前のちびっこだった頃、千歳はもう背筋の伸びた凛々しい学生だった。近所に住んでたお兄ちゃん、という感じだ。しかし、ある出来事からそれは少し変わることとなる。

 俺の家はあまり環境が良くなかった。連日連夜、両親は喧嘩をしていて、酒瓶が宙を舞ったり、母さんが用意した食事を床が食べてしまうなんてことがしょっちゅうだった。その間の子供はというと、火の粉を被らないよう、リビングの隅っこで膝を抱えて、窓の外へ視線を向けていることが多かった。

 家の中の様子など、見ていたくない。両親が喧嘩しているか、そうでなくてもその爪痕思い出すばかりだから。通り過ぎる人をぼんやり眺めて、散歩してる犬が見られるとラッキーだなと思ったりしていた。そうやってひたすら、嵐が過ぎるのを待っていた。

 ある日、いつものようにそうして家の中の現実から逃避していると、窓の外からこちらを見ている人がいた。黒い詰襟の制服をきっちりと着た、無愛想な学生だった。窓の外の人と、目が合ったのは初めてだった。しばらく黙って見ていると、その人が小さく手を振った。それに、小さく手を振り返した。その人は少し笑って、通り過ぎていった。行ってしまった。少し残念な気持ちになった。

 それからというもの、その人は頻繁に窓の外に現れては、手を振っていった。今思うと、あれは下校中だったのだろう。その人がやって来るのが楽しみになっていたし、やって来ない日は悲しかった。その人を見逃さないように、何をするにもその窓辺のそばに居るようにした。少しだけ暖かな気持ちになるから、その窓辺が好きだった。

 ささやかな幸福を得たのも束の間、火の粉が降りかかる日はやって来た。いきなり頭にガツンと衝撃があって、頭から垂れてきてる液体が、果たして酒だったのか血だったのかは定かではない。とにかく母さんが泣き叫んでいて、父親は子供の髪を、引っこ抜いた雑草かなんかみたいに掴んで怒鳴っていた。漠然と、死ぬかもと思ったのは、なんとなく覚えている。

 父親に嫌われているのは分かっていたし、母さんが俺を助けられないだろうことも分かっていた。
 半ば宙吊りみたいになっていろんなものを諦めていると、あまりにもその場には不似合いな、ごく日常的なインターホンの音が鳴り響いた。

 ピンポン。ピンポン。繰り返し音が鳴った。両親は凍りついたように動けないでいた。
 そのうちに、それはドンドンと玄関を叩く音になった。

「すみません、大きな音が聞こえましたが、大丈夫ですか。何か、ありましたか」

 抑揚の乏しい、しかしよく通る少年の声だった。少年は繰り返しそう呼びかけてくる。しかし家の中の誰も、人前に出られる姿をしていなかった。そうこうしているうちに人が集まってきたらしく、玄関の外が何やら騒がしくなっていた。いよいよ放ってもおけず、母さんが這いつくばる様に玄関へ向かおうとすると、出るな、と父親が叫んだ。玄関の外の人にも聞こえていたのだろう。ただならぬ雰囲気を感じ取った人々の声がざわざわと大きくなった。

 父親は俺を投げ捨てて、母さんの足首を掴んで罵声を浴びせ始めた。母さんが殺されてしまうかもしれないと思った。そんな恐怖から、力を振り絞って一目散に玄関へ向かって鍵を開けた。すぐに、ドアが開けられた。

 ――薄暗い家の中に光が差し込んだ。そこにいたのは、窓の外にやってきていた、あの学生だった。
 そう、この学生こそが、佐伯千歳だ。

 この後のことは、あまり覚えていない。父親は警察に手を引かれて連れていかれ、母さんも項垂れて、警察の人に支えられながらそれに続いた。俺はというと、近所の人に囲まれてひどく心配されていた。やれ病院へ連れて行かないととか、親戚に連絡しないととか、大人たちが大わらわになっている横で、俺は千歳の手を握っていた。千歳は大人たちと違って、静かだった。何も言わずに隣にいて、そのとき口を開いたのは、一言きりだった。

「もう、大丈夫だよ」

 俺は、その言葉を信じた。ぶっきらぼうな優しい声を信じた。幼さの残る柔らかな手を信じた。
 大丈夫だ。この人がいるから。
 この時から、ずっと。佐伯千歳は――俺にとって、神様だった。


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 少し早起きをしたおかげで、皿を洗う余裕すらあった。からっぽの胃を真心こもった手料理でいっぱいにして、機嫌はすこぶる良い。さすがに、家主様に食事を用意してもらっておいて、何もしないでいるほど恩知らずではない。朝食の皿を濯ぎながら、食後のコーヒーを楽しんでいる家主様に声をかけた。

「作品、もうできたの?」
「ああ。少し手直しはするかもしれないが、概ね仕上がってる」
「そっか! お疲れさま」

 千歳は画家だ。とはいえ絵だけで食べていけるほど世の中の景気は良くないので、デザインの仕事を受けたり、美術の非常勤講師をしたり、様々な仕事をこなしている。ここ最近は、公募展に出すための作品にかかりきりになっていて、同じ家に暮らしているのにも拘らず顔を合わせない日が続いていた。
 作業部屋で、死んだように眠っている千歳を初めて見た時はかなり慌てたものだが、一緒に住んでいるうちに慣れた。そういう時には、俺が食事を多めに作っておくことが多い。いつでも好きな時に、食べられるように。仕事がひと段落しているときには、今日みたいに千歳が食事を用意してくれることもある。一緒に住んでいる以上、このあたりは持ちつ持たれつだ。

 皿を洗い終えて、ちょうどバイトに向かうのに良い頃合いになった。簡単な身支度をして、鞄をひっつかんで玄関へ向かうと、千歳が見送りにきて口を開いた。

「夕飯はどうする?」
「まかないあるから大丈夫。そっちは?」
「今日は――人と会う約束をしてる。帰りは夜遅くなるかもしれないから、気にせず先に休んでくれ」
「分かった」

 いつものなんてことないやりとりに、ざらついた感情が過ぎる。だから、少しだけ意地悪をしたくなったのだ。ちょっとだけ間を置いて、いつも通りの調子で訊ねる。そう――至っていつも通りの調子の、俺だ。

「……最近よく夜出かけてるねー……」
「なんだよ、その含みのある言い方は……」
「いーや別に? 楽しんできてねー」

 スニーカーに足を突っ込んで立ち上がり、一度振り返る。少し見上げるような位置の千歳に、背伸びをして顔を近づける。

「千歳さん。……いってらっしゃいのキスして?」

 もちろん千歳は困惑した。な、と小さな声をあげて驚いて、怪訝そうに眉を寄せて、困ったように目を泳がせた。千歳の困った顔を見ると、申し訳ない気持ちと一緒に別のものが湧き上がってくる。それがなんであるか薄々気付いてはいるけれど、見て見ぬふりをしている。今のところ。

「なーんて、冗談! じゃあ行ってきまーす!」

 困った顔の千歳の肩を叩いて、軽快に外へ出てドアを閉める。駐車場に停めてあるバイクにキーを差して跨り、エンジンをかけようとして、項垂れる。我知らず深い深い溜息が漏れ出ていた。

 約束をしている人は恋人なのか、なんて。聞けるはずがない。
 そうだ、だとか。だったらどうした、だとか。そう返ってきたらと考えると、恐ろしくて堪らないのだ。

「嫌だな」
 
 俺は佐伯千歳のことが本当のきょうだいのように大好きで、神様のように尊いものだと信じていて。
 それでいてそのくせ――全部暴いて滅茶苦茶にしたいほど、愛している。

「……夜までに世界、滅んだりしないかな」

 もし、世界を滅亡させるスイッチがこの手の中にあったなら。今すぐ家に戻って、千歳にキスして、抱きしめて、そしてスイッチを押してしまおう。顔も知らない誰かに、千歳が会いに行く前に。

 そんなことを思う程度には。この想いは親愛からは行き過ぎていて。敬愛と呼ぶには暴力的過ぎて――とても、千歳に打ち明けられは、しなかった。