君にかけた呪い

 身支度を整え、陽が傾いた頃に家を出た。
 電車内は帰宅する学生たちで賑わっていて、どことなく懐かしいような気持ちになる。

 高校までの学生生活は、特段充実したものではなかった。放課後に、制服を着たまま日渡家へ立ち寄っては、燦と一緒に過ごした日々のことばかりを思い出す。家のことを全て忘れて、燦と二人で自由に過ごした時間。あの時間があったから、美大へ進学しようと思うことができて、今がある。かけがえのない日々だった、そう思っている。

 最寄りから二つほど先の駅で降りて待ち合わせの場所へ向かうと、そこにはもう約束した相手が待っていた。サングラスをかけ、店の壁に背を預け、腕を組んで瞑目している、背の高い男。どう見ても近寄りがたいその風貌に声をかけるのにも、最近ようやく慣れてきたところだ。

「悪い、待たせたか」
「……いや。俺が早く着いただけだ。気にしなくていい」

 男は壁から背を離してサングラスを外し、じっとこちらを見た。この男はしばしば、そうして無言で何かを訴えるような目を向けてくる。見つめられ続けられて視線がこそばゆくなり、目を逸らしながら声をかける。

「先に、用事を済ませてもいいか?」
「構わない。行こう」

 彼――依藤真澄よりふじますみは、美大の同期だった。だった、というのは、彼がその大学を中退してしまったからだ。二年生のときだった。
 油画を専攻していた俺と、日本画を専攻していた依藤は、学生時代さほど関わりがあったわけではなかった。同じ現役の合格生。そのくらいの認識。加えて依藤は社交的な方ではなく、直接会話をしたことも数える程度のことだったろう。それでも依藤のことを憶えていたのは、入学後に見た彼の絵が、群を抜いて目を引くものだったからだ。

 あの絵の精緻さと豪胆さを表現する適切な言葉を、未だに見つけられないでいる。天才。少なくとも、俺にはそのように感じられた。描き出された山水の、空気の色さえありありと分かるような。そんな鮮烈な印象を、その絵に憶えた。卒業してずいぶん経った今でも、彼の絵の印象は強く残っていて、自身のこれまでの画家としての人生に、多少なりと影響を与えていた――まさか、その人の絵を再び見ることになるとは思っていなかったのだが。

「そうだ、専門家に聞きたいことがあるんだ」
「そんな大それたものじゃない。……何を聞きたいと?」
「誕生日のプレゼントに、ワインを贈ろうと思っていて」

 燦の誕生日に何をあげるか、ここしばらく考えていた。せっかく酒を飲める歳になるのだし、それなら長いこと世話になっているバイト先でよく目にしているであろう、ワインをと思いついた。実に名案だ――自分がまるで良し悪しが分からないという点を除いては。
 しかし今日は幸いにも依藤がいる。依藤は今、バーテンダーとして働いていた。酒のことを訊くのであれば、これ以上の適任は少なくとも知り合いの中にはいないだろう。

「こういうのってどうなんだ? 二十歳のお祝いに、二十年物のワインを……みたいなやつ」

 ギフト用のワインを探していた時に見かけたウェブサイトの画面を見せると、依藤は眉間に皺を寄せた。

「ワインは別に、寝かせれば寝かせるだけ美味くなる酒でもない。下手に選ぶと単に味のぼけたワインになるぞ。まともな味のものなんてその辺の店にそう置いてない」
「そうなのか……今から探すのは難しいかな」
「……そんなものを探しているなら、事前に言っておけ」

 溜息をつきながら、依藤はどこかへ電話をかけた。手短に数分話をしたあと通話を切り、こちらへ向き直った。

「知り合いの店に、二十年物なら何本か取り扱いがあるそうだ。少し遠いが、行くか?」
「本当に? 折角だから行くよ」

 目的地を駅へ変更し、依藤が問い合わせていたらしいワインショップへ向かうことになった。大規模な商業施設の、ほどほど広さがある酒の売場で手に入るくらいに考えていたが、良いものを探すとなるとそうもいかないらしい。己の不勉強さに申し訳なくなった。

「ありがとう、何から何まで……今日の食事は、俺が奢るよ」

 そう申し出ると、彼は小さく頭を振った。

「いや。また、一緒に出掛けてくれればそれでいい」

 それきり、依藤は黙ってしまった。もう陽も落ちているのにかけたサングラス越しに、彼は車窓の向こうを眺めている。正直なところ、この男のことはよく分からなかった。

 ――三ヶ月ほど前、仕事で関わりのあった人に誘われて向かったバーで、依藤と再会した。そのバーには一枚の日本画が飾られていて、その絵からは、間違いなくかつて見た依藤真澄の作品と同じ雰囲気を感じた。あの頃よりも、多少の鮮烈さを欠いていたとしても。この絵はどこで、とバーのオーナーに訊ねると、彼が描いてくれたんですよ、とカウンターの奥にいたバーテンダーを示して、それが依藤だったのである。

 思いがけない再会に驚きながら――向こうが俺の名前を憶えていたことが一番の驚きだったが――その日は少しだけ話をし、連絡先を交換して別れた。それからというもの、依藤からはちょくちょく食事に行こうと誘いがあって、こうして今日も一緒にいるというわけだった。

 ワインショップについてから、依藤と店のスタッフにあれこれと説明を聞き、二十年物の白ワインを一本購入した。綺麗な化粧箱に入れてリボンもかけてもらい、二十歳の祝いに相応しい、立派な贈り物だろう。自分のものでもないのに、手提げに入れた重みには不思議と満足感があった。
 燦は喜んでくれるだろうか。喜んでもらえたらいいなと思う。その様子を想像するだけで、胸が温かくなるから。この包みを当日まで隠しておかなければならないのが、ひとつ大変ではあるのだが。

「その贈る相手は、前に言っていた、面倒を見てるとかいう子供か?」

 手提げを眺めていると依藤がそう訪ねてきた。再会してから今日までの間に、昔話をする機会はいくらかあって、依藤は俺の今の生活をいくらか知っている。燦の家の事情までは、話してはいない。

「そうだよ。もう子供って感じでもないけど」
「……実の兄弟でもないのに、奮発するんだな」
「いいんだ。俺が、祝いたいんだから」

 燦が二十歳になる。こんなに嬉しいことはなかった。燦のこれまでの人生は、決して平穏ではなかったからだ。化粧箱をひと撫でして、またある日のことを思い返した。

 瞼に焼き付いている、ある夏の日。
 真っ白な壁。低い天井。制服を着た燦が俯いて肩を震わせていて、嗚咽交じりの声で言った。

 ――俺、なんで生きてるんだろ。

 あの子は自身の命を、一度は否定した。本当はそれまでにも、何度も何度も否定していたのかもしれない。その姿があまりにも辛くて、痛ましくて――いつかの自分を見ているようで。救いたかった。救わないといけなかった。そうでなければ、心がばらばらに砕け散ってしまっただろうと、そう思ったから、だから。

 あの日、燦に呪いをかけてしまったのだ。
 生きていく理由がないのなら――俺の為に生きてくれ、と。

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 買い物を済ませたあと、当初の予定通り依藤と食事をした。こじんまりとして洒落たその店は、少し遅い時間まで開いていたので、ゆっくりと食事を楽しむことができた。依藤はこういう綺麗な店をいくつも知っていて、必ずメニューに載っている酒を紹介してくれるので、日頃はほとんど飲まない酒も、一杯は付き合うようにしている。正直なところ、酒にはあまり強くない。付き合いで飲んでは頭痛や吐き気に苛まれ、翌日まで引き摺るのが嫌で、好きではなかった。が、今はそうでもない。依藤の勧める酒が美味いせいもあるのか、適切な量であれば、身体と心の緊張を解してくれるような気がしていた。

 そうして依藤と話すのは、学生時代のことや、卒業してからのこと、絵に関することなど――さして親しくもなかった間柄なのに、不思議なことに尽きないくらい話題があった。話が合う、というのはこういう感覚のことをいうのかもしれない。酒をちびちびと口へ運びながら、こう言った。

「こんなことなら、学生の頃からもっと話せば良かったな」
「そうか?」
「そうだよ。絵の話とかしたかった。今話すのも有意義だけど、学生の頃だったらより良い刺激があったと思うんだ。専攻も違ったし。ほら、あの山水画。あんなに描き込んである日本画ってあまり見たことが無くて、どういう着想で描いたのかとか、一度聞いてみたいと思ってたんだ」
「……お喋りだな。絵のことになると」

 口元を押さえて小さく笑いながら、依藤がそう言った。あまり自覚がなかったが、そう指摘されるとかなり多弁になっていた気がして恥ずかしくなってくる。

「ご――ごめん。つい」
「気にしなくていい。楽しんでくれているのなら」

 そこで一度言葉を切ってから、依藤は続けた。

「……昔から、君はそうだった。いつ見ても、楽しそうに絵を描いていた」
「実際楽しかったんだ。俺にとっては、自由に絵を描ける環境ができて」
「良い事だ。――楽しんで描く。それだけのことができずに、筆を折ったやつはたくさんいる。俺も、そうだった」

 グラスを傾けて琥珀色の酒を口に流し込む、依藤の姿には言い知れぬ諦観が纏わりついていた。彼はまだ、絵を愛しているに違いなかった。しかしそれ以上に、彼は絵で傷つき、苦しんだのだろう。また描かないのかとか、趣味でもいいじゃないかとか、そんな言葉は、とてもかけられなかった。人生を絵に賭けていた、依藤真澄やその他大勢の姿を、知っているから。

 絵の道を、続けることは容易じゃない。その道に進む以上に、それは難しい事だ。経済的な安定も、約束された名声も無く、ただ、己の表現を突き詰める。時には筆が鉛のように重くなる感覚を味わい、また別のときには、心の中から描き出せるものが何ひとつなくなるような虚無感に苛まれながら、それでも、描き続ける。

 俺自身にも、そんなときが全く無いわけではなかった。ただ、その苦しみよりも、自由に絵を描ける歓びが遥かに勝っていただけ。絵を描くことが、断ち切りたいものを断ち切った何よりの証であり――未来を描くことでもあったからだ。

 帰りの電車が無くなる前に店を出て、駅へ向かうことにした。支払いは持つと再度言ったのだが、結局いつも通り割り勘になった。人気の無くなった駅までの道を歩きながら、改めて依藤に礼を言った。

「今日は本当にありがとう。良いプレゼントが買えたし――食事も美味かった。……その、いつも俺ばかり楽しんでないか?」

 べらべらと喋り倒していた自分を思い返して、申し訳なくなりながらそう訊ねた。依藤は小さく首を横に振って否定した。

「いや、そんなことはない。俺も楽しかった」
「そうか。ならいいんだけど」
「佐伯」

 依藤が立ち止まった。それに倣って立ち止まり、彼の方を見た。彼はサングラスを外して、目を細めた。遠くのものを見るように。あるいは――愛しいものを、見るかのように。

「君が好きだ」
「……え」
「君を食事に誘うのも、美味い酒を勧めるのも――少々手のかかる贈り物を探してあげるのも、君のことが好きだからだ」
「え、あ、」

 狼狽えているこちらをよそに、依藤は歩み寄って俺の手を取った。触れた手が熱いのは、酒が入っているせいなのか、あるいは別の何かのためなのか、判断がつかなかった。

「……返事は急がないし、強制する気もない。ただ、心に留めておいてくれないか。俺は誰にでも親切なわけじゃない。君に特別な好意があって、親切にしている」

 特別な好意。この言葉と行動の意味するところが分からないほど愚かではなかった。しかし、分からなかった。彼に特別好かれるようなことをした憶えはないからだ。

「……そんなの、いつから……」

 思わず口から漏れた疑問に、依藤は困ったように笑って、溜息交じりに呟いた。

「……学生の頃から、ずっとだよ」

 そうして依藤は手を離した。手が離れたあとも、その熱が纏わりつくように手に残っている心地がした。駅に着くまで会話はなく、横を歩く男の顔はいつも通り平然としているように見えた。何を話せばいいか分からない。先程まで心の通った友人であったはずが、途端に知らない他人になってしまったような心細さがあった。

 駅で別れるとき、さすがに一声かけるべきだろうと依藤を見ると、向こうも同じように考えていたらしく、視線がぶつかった。息が詰まる心地がしたが、どうにか声を絞り出した。

「……それじゃ」
「……ああ」

 また、とはどちらも言わなかった。また一緒に出掛けてくれればそれでいい。そう言っていたのは、さっきのことを、打ち明けると決めていたからだろうか。そのうえでまた会いたいと、そう考えているからだろうか。正直、次に会うときが来るとして、今日と同じように楽しく会話できる自信はなかった。

 ほんの数駅の移動が、そこから家までの何百メートルかが、ひどく長く感じられた。掌に残った熱が、重く重く圧し掛かっているかのようだ。ようやく家の前へたどり着くと、家のリビングには明かりがついていた。

 鍵を開けて家に入ると、ペタペタと足音が聞こえてきて、リビングから寝間着の燦が顔を出した。

「おかえりー」
「……ただいま」
「? どしたの、具合悪い?」
「いや……ハハ、ちょっと飲み過ぎたのかな」
「えー、お酒弱いのにそんなに飲んだの?」

 笑ってそう誤魔化すと、燦は咎めるように眉根を寄せたが、すぐに穏やかな顔になって続けた。

「小腹空いたから、夜食作ったんだ。たまご雑炊。ちーちゃんも食べる?」
「そうか。じゃあ一口貰うかな」

 燦へのプレゼントは、ごく自然に――あたかも自分のもののように――しまい込んで、食卓についた。温かな湯気を立てる雑炊が控えめに椀に盛られて供される。出汁と卵の優しい味が胃に染みる。正面に座って、燦も雑炊を食べ始めて、そのうちにそわそわと、言葉をかけてきた。

「……食事? 行ってたの?」
「ああ。大学の時の――知り合いと」
「そうなんだ。最近、夜会ってるのその人?」
「うん」

 質問されるままに何気なくそう答えていると、燦が大きく息をついた。

「……そっか。そっか! なーんだ、友達か」
「なんだってなんだよ」
「別に? へへ、じゃあ俺食べたから先に寝るね」

 燦はそそくさと食器を片付けてから、傍へやってきて横にしゃがみこんだ。その様子は、飼い主の傍に座る犬が思い出された。つられて手を出して頭の上に乗せようとすると、燦はすっと首を下げた。完全に犬の振る舞いだ。思わず吹き出しながら、わしゃわしゃと燦の頭を撫でた。嬉しそうに笑って、燦は肩を竦めた。

「ちーちゃんは誕生日なにくれんの?」
「それは当日のお楽しみ」
「ちぇー」
「ほら、もう寝ろ。明日もバイトだろ」
「はーい。……おやすみ」

 燦の額が額にこつんと触れて、すぐ離れた。悪戯に成功した子供のように、にまにまと笑って燦は部屋に引っ込んでいった。食べた食器を片付けて、浴室に向かう。温かいシャワーを頭から浴びながら、様々なことが頭の中に過ぎっていた。

 依藤に好意を向けられていることに、特に悪い感情はなかった。依藤真澄に対しては尊敬の念ばかりがあるし、人間的に好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きだと言えた。けれど、特別だという想いに応えられるかどうかは別の話だった。

 ――いいや、応えられるはずは、ない。

「燦」

 愛している、人がいる。
 押し潰されそうな罪悪感が、爛れた劣情に変わるほど。

「……あきら」

 押し殺した声で、叫んでいる。

「…………ッ!」

 雨のような水音が全てを掻き消し、押し流していく。歯形のついた手と、流れていく濁ったものをぼんやりと眺めながら、冷たい壁に額を付けた。

 愛している。
 ――この手で呪いをかけた、あの子のことを、どうしようもなく、愛している。