こうして久方ぶりの観劇の予定が決まるも、カウフマンはその間も、普段と変わりなく職務をこなし、公演前日の夜には街の郊外に現れた夜鬼を退治していた。出没した位置、大きさや特徴などを記録したのち、聖油をかけて灰になるまで燃やし、危なげなく帰宅。軽い食事の後すぐに眠りについて、起床した頃には正午を少し過ぎていた。
寝汗をシャワーで流してからロクスブルギーの部屋を見に行くと、彼はクローゼット――以前はなかったが、服が増えてきたので置くようにした――の前で腕組みをしていた。
「おはよう、ルー。丁度いいところに来た」
「おはよう。今日着ていく服を選べって?」
「そうだ。よく分かっているじゃないか」
満足そうに、吸血鬼は微笑む。何を着たって人並み以上に様になるのだから、悩むことないだろうにと思うのだが、彼にとって、服というものは基本的に自分で選ぶものではない。少なくとも今それは、自分の仕事だとカウフマンも思っている。
やはり皺の無い白いシャツというのは王道の装いだ。そして普段より少しだけ華やかに、柄物のボトムとジャケットを合わせてみる。正直着こなすのが難しいだろうと感じていた服だが、ロクスブルギーが着ると不思議と自然と受け入れられてしまう。いや待て――このように人目を惹くような格好で連れ出していいものだろうか? 劇場には当然劇団の関係者などもいるだろうし、俳優として勧誘されてしまわないだろうか? 内心でそのような心配をしていると、ロクスブルギーがぽつりと言葉を零した。
「かつては観劇というと、随分畏まった服を着せられたものだよ」
「らしいな。だが、今となっちゃ庶民も楽しむ文化だ。そこまで畏まらないでいいだろ――これでいいんじゃないか、旦那様?」
選ばれた服に袖を通して鏡の前で確認したロクスブルギーは、うんうんと頷く。
「ご苦労。ご褒美に髪を拭いてあげよう」
椅子に座るように促され、カウフマンはそれに従う。互いに身嗜みを整えて、紅茶を飲んで一息ついてから、のんびりと首都へ向けて出発した。
街で生活をしはじめた頃は、列車に乗るのにもどことなくぎこちなさがあった吸血鬼だが、今となっては違和感もなく、実に優雅な所作で乗り込んでいく。列車での道中は『シャグラン・ダムール』がどのような劇であるか――曰く、『愛』がテーマである――という話をしたり、車窓の風景を眺めたり、ありきたりではあるが楽しい時間を過ごした。体感としては、仕事で移動しているときよりも随分と早く到着するものだな、とカウフマンは思った。
日が暮れて街灯が点き始めた首都では、夕食の準備で忙しそうに行き来する婦人や、仕事を終えて看板が下ろされる店や、反対にこれから店を開け始める酒場の店主、そしてなにかしらの催しに繰り出していく人々が見受けられ、これから夜が訪れるのだなと感じられた。昼間の賑やかさとは違う、夜の賑わい。首都には定期的に訪れているカウフマンだが、ほとんど日中の街並みしか見ることはないので、新鮮な気分になっていた。
「夜になるというのに、人の多い街だな」
「確かに。娯楽が多いからなのかね」
カウフマンとロクスブルギーが住んでいる街は、決して田舎ではないが、都会かと問われると悩むような、そんな街である。酒場くらいは何軒かあるが、綺麗な服を着てダンスをするホールだとか、かしこまってディナーをする高級なレストランだとか、まして夜まで公演をするような大きな劇場などは無い。だから必然、人々は暗くなれば家に帰って早く休む。かつてはカウフマンも、遅くまで酒場に入りびたるようなことがあったが、近頃は仕事が終われば速やかに帰宅して、自宅で過ごしている。――仮に遅くまで酒浸りになっているようなことがあれば、同居人からの冷たい視線は免れないだろうからだ。
「こんなに街が明るくては、星もよく見えなかろうに」
不服そうにそう漏らすロクスブルギーだが、先程から真剣にあたりを伺っているところを見ると、都会の夜を興味深く思っているのだろう。街灯の傍で立ち止まり、それを見上げている吸血鬼の様子を少し離れたところから見守っていると、不意に後ろからとんとんと肩を叩かれた。振り返ると頬が押される感触があり、それが人の指先の感触だと理解するのと同時に、その人が口を開いた。
「こんばんは、お兄さん。公演、観に来てくれたんですか?」
片目を瞑って微笑むのは、件のリドヴァン・フランメであった。彼の問いに答えるよりも先に、カウフマンは反射的に声を落として訊ね返した。
「……公演前にほっつき歩いてて大丈夫なのか?」
「アハハ! 心配には及びません。ボクはいつもこんな感じですよ。むしろ本番前のルーティーン、というやつですね」
幸いにも往来はそれなりに人通りがあり、薄暗い時間でもあるので、それほど目立ってはいない。が、この男がリドヴァン・フランメだと知られれば、たちまち人だかりができるだろうことは明白だ。何しろ今話題の演目の主役である。しかし当の本人は、自分が話題性の高い人物であることを意識していないかのように声をあげて笑い、カウフマンの方がかえって周囲に気を回す始末であった。
「こうして街を歩いていると、様々な感情に出会えますからね。嬉しい、悲しい、愛しい、辛い……そうした新鮮な感情に触れることで、演技にも深みが増すというわけです」
「へえ、そういうもんか」
さすがに役者、芸術家肌の人間は感性が豊かだ。確かに、往来に目を凝らしてみれば、楽しそうに笑い合う人々、どこか悲しげな風情の人、肩を寄せ合う恋人、様々な人々が見て取れる。それらを眺めてリドヴァンは両腕を広げ――目立つからやめてほしいと強く思った――大きく息を吸い込んだ。
「ああ、やはり良い。人間の感情はとても繊細で興味深い。ボクはね――人間のことを良く知りたいと思っているんですよ」
彼の赤紫の目が、きらりと光った――ような気がした。ぞわりと肌が粟立つような感覚があり、無意識に半歩後退るが、リドヴァンはその長い脚で大きく一歩詰め寄った。
「貴方のこともです、カウフマン審問官。神に仕える身でありながら、貴方に纏わりつくその『魔性』の正体がなんなのか、とても興味があります」
「役者は日常でも芝居がかってるもんなのか? 何の話だかさっぱりだね」
「そうおっしゃらず。『こちらへ来て、こっそり教えてくださいな』」
その感覚には、覚えがあった。身体が無理矢理糸で吊り上げられるような感覚。抗おうとするが、足が勝手に前へ出る。一歩、また一歩と彼のほうへと近付いていく。奥歯を噛みしめながら、カウフマンの脳裏には、ある最悪な考えが過ぎっていた。
リドヴァン・フランメは、『吸血鬼』である――
何かが、高速で顔の横を飛んでいった。それは俳優の商売道具目掛けて飛んでいったが、 彼は首を傾げて、涼しい顔で避けた。後ろの塀に突き刺さった赤い短剣は、一瞬硬い音を立てたかと思えば、どろりとその輪郭を失って消えた。この間、ほんの数秒。雑踏に紛れた刹那の攻防は、誰にも見咎められはしなかった。
「その必要は無い。僕が答えだ」
後ろからゆったりとした足取りでやってきたそのひとの姿が、街灯の明かりで浮かび上がる。ロクスブルギーの姿を認めたリドヴァンは、目を見開いたその次の瞬間、思いもよらない言葉を口にした。
「嗚呼――なんという偶然! そこに御座すは、我が君ロクスブルギーではありませんか!」
カウフマンは思考停止して、ふたりを交互に見た。顔見知りなのか、それ以上に混乱していると、こんなにも深く長い溜息はあったろうかというくらいに息をついて、ロクスブルギーが返答する。
「……どこの品の無いケダモノかと思ったら君だったのか、赤旦……」
「その麗しい声! 気品ある姿! おお、またお会いできて光栄です我が君」
感極まった様子のリドヴァンは、その場で膝を折って首を垂れる。さすがにそこまでしていると、雑踏の人々の興味を引いてしまい、こちらを注目する者が出始めたので、カウフマンは小声で――身体の自由は利くようになっていた――しかし鬼気迫る調子で彼らに言った。
「おい、目立ち過ぎてる……! 周り考えろ」
その言葉で我に返ったのか、ロクスブルギーは腕組みをして肩を竦め、リドヴァンは立ち上がって辺りを眺めた。
「おっと失礼。つい興奮してしまいました。それはもう、随分と久しぶりの再会ですからね――」
説明を求めるように視線を向けると、ロクスブルギーは渋々といった様子で口を開く。
「……彼は、先に話した僕の『姉』の、血の繋がった息子だ」
姉――ロクスブルギーとしばらくの間、苦楽を共にしていた吸血鬼の女性。そのひとの子供。すなわち、雑種の『吸血鬼』。実際に、その存在に会うのは初めてだった。リドヴァンに視線を向けると微笑んでいて、その話が真実であることを肯定しているようだった。『吸血鬼』がふたりもこの場にいるという状況は、聞く人が聞けば恐ろしさのあまり卒倒するだろう――カウフマンもまた、そうそう起き得ない事態に直面しやや現実から逃避している――と思った。
「まさかあなたが人間と、まして審問官と一緒にいるとは思いもしませんでしたよ」
「……それで? 彼に何かを強いるつもりなら、残念ながら今宵の舞台からは降りてもらうことになるが」
ロクスブルギーは目を細め、真冬の北風のような冷たい調子でそのように言った。両手を胸の前に広げて、リドヴァンは首を左右に力強く振るった。
「滅相も無い! 我が君の所有物にボクが何かするわけがないじゃあないですかイヤだなあ」
いささかの語弊があるような気はするが、ひとまずここで事を構えることにはならずに済んだようだ。内心ほっと胸を撫でおろしているカウフマンをよそに、話は進んだ。
「さて……名残惜しいですが、そろそろ劇場に行かなくては。最高の観客がいることも分かったことですし――楽しみにしていてくださいね」
にこりと微笑んで、リドヴァンは踵を返す。その背が見えなくなった頃、どっと疲れが押し寄せてきて、カウフマンは思わずその場にしゃがみこんだ。ロクスブルギーが来てくれたから良かったものの、そうでなければあの『身体支配』を受けたときに、何をさせられていたか分かったものではなかった。下手をすれば他人を加害したり、自分に致命傷があったかもしれない。改めて、『吸血鬼』という存在の絶対的な力に触れ、身体が震えていた。
「……ルー、大丈夫か?」
手を差し伸べてくるロクスブルギーの表情は気遣わしげだ。その手を取って立ち上がり、心配いらないことを示すために笑ってみせる。
「ああ。悪かったな、心配かけて」
小さく息をついて吸血鬼も微笑んだが、その後すぐに舌打ちをした。
「……同胞の気配が纏わりついている人間には、手を出さないのが『吸血鬼』の美学のはずだが、どうやら若い世代は作法を知らないらしい」
「互いに分かるもんなのか? 気配とかって」
「浅からぬ関わりがあれば、分かる。獣が互いの縄張りを理解するのと同じような理屈だな」
なるほど確かに、数か月一緒に暮らしていれば、浅からぬ関わりと言えるだろう。『吸血鬼』と人間の関係が継続しているということは、うまいこと共生しているという推察もできる。であれば外野からその関係を壊すようなことをして同胞の『食事』を取り上げてしまうような事態になれば、衝突が起きかねない、といったところだろうか。人間も吸血鬼も、食べ物の恨みは怖いということだ。
「まあ……とりあえず俺たちも劇場に行くか?」
正直、もはや観劇するどころではないというような気持ちもあるものの、ここまで来たうえに厄介事まで起きて、楽しみのひとつもなく帰るのも馬鹿馬鹿しい。
「……ああ。当初の目的通り、劇を楽しもう。いかほどの出来か、お手並み拝見と行こうじゃないか」
ささやかな明かりが照らす街路を、劇場の方へと向かって歩く。
隣で歩くひとの横顔を盗み見ながら、カウフマンの胸中には様々な感情が渦巻いているのであった。
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