――ゆらゆらと、身体が揺られている。そのことに気がついて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。視界に映ったのは瓦礫だらけの地面と、そこへ降り注ぐ黒い雨。見知らぬ風景というよりは、何もかもが分からない。ここがどこであるかはおろか、自分が何者なのか、何故ここにいるのかなどの一切が、思い出せなかった。
「……ここ、は……」
そう呟くと揺れが止まり、その代わりに黒づくめの防護服の人間が、顔を覗き込んできた。
「おい、こいつ生きてるぞ!」
驚いた声と共に、身体が放り出された。強かに地面にぶつけた身体に力を込め、よろよろと半身を起こす。辺りを見回すと、そこは黒と灰色で全てが構成されている、倒壊した市街地のようだった。その風景の中に、黒い防護服の人々が何人も映っている。彼らは何人かで一組になって、巨大な車両の中に何かを運び入れている。それを注視してみると――人間の、遺体であることが分かった。思わず、目を見開いた。
防護服姿の人々は狼狽えたように距離を取り、懐からあたふたとそれを取りだした。銃だ。それを認識した瞬間に、身体が勝手に動いた。
素早く近付いて、防護服で保護された手を強く蹴り上げる。銃は手から零れ落ち、からからと瓦礫の上に転がった。素早くそれを拾い上げたところで――我に返る。今、何をしていた? 手の中に収まった銃を眺めると、これのことを、よく知っている気がした。顔を上げると、防護服の人々はわあわあと騒ぎながら、また別の銃を取り出してこちらに向けていた。
「う、うわああ、動くなあ! 銃を置け!」
――とりあえず、言われた通りに銃を置いた。銃口を向けられてはいたが、撃たれたところで、当たらないだろうという妙な確信があったからだ。銃を持った人はいかにも慣れてなさそうな様子だし、周りの仲間と思しき人々も、一様に怯えている。変な話――全員、殺せそうだ。しかし、そうするのが適当なのかどうなのかは、判断ができなかった。だから、彼らの次の行動を待った。
「おやおや、何の騒ぎ?」
場違いなほど陽気な声が、重苦しい緊張を破った。軽い足取りで現れた男もまた防護服を身につけていたが、いくらか軽装で、顔が伺える。眼鏡をかけた、細身の若い男だった。
「マキネン博士! この生存者が、銃を奪取してきました!」
「アハ! 民間人に銃取られちゃったのぉ!? ドジっ子だねぇ〜」
眼鏡の男はけらけらと笑いながらこちらを振り向くと、懐から素早く銃を取り出して躊躇なく発砲してきた。何故、反応できたのか――幸いにも身体が勝手に飛び退いたおかげで、銃弾は空を切った。眼鏡の男の顔から、ふっと笑顔が消える。
「あーら、外しちゃった――いや、避けたのか」
瓦礫を踏みしめながら、男が近付いてくる。銃は、少し離れた場所に置き去りになってしまった。向こうが仕掛けてきたら、銃弾を掻い潜って、そのまま素手で戦うか、銃を拾いに行くしかない。しかし、怖い。何か、説明のできない本能的な恐怖が襲ってきた。ほどなく、眼鏡の男がすぐそばへとやってきて、見下ろしながら銃口を額に突きつけてくる。
「お前、ただの民間人じゃあないね――どこの犬?」
――死の気配。漠然とそんなことを思った。この男からは、あまりにも濃厚な死臭がする。あるいは、死そのものなのではないかと、錯覚するほどに。そして、男の質問には答えられそうもない。銃を突きつけられて問われてみても、今より以前のことは、何ひとつ思い出せないからだ。
「おれ、は――」
――俺は、なんだ?
眼鏡の奥の目が細められたそのとき、また別の声が近付いてきた。
「マキネン博士、何をもたもたしてる。撤収するぞ――」
おそらくその場の全員がそちらに顔を向けた。やはりその人も、例によって防護服を着ている。顔は伺うことができず、くぐもって聞こえてくる低くざらついた声の調子から、辛うじて男だということだけが分かった。他の多くの人々と同じ防護服だが、腕章をつけているのはその男だけのようだ。
「ごめーん。すぐに始末するから、ちょっと待っててよ」
「そいつは残党か?」
「さあ? 運ぼうと思ったら生きてたから、殺すところ。生存者を連れてこいとは指示されてないからね」
「生存者をわざわざ殺せとも、指示はされてないはずだが」
腕章の男が、こちらを向いた。頭部を覆う装備のために、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、どうやら眼鏡の男とこの男は、違う哲学を持っているらしかった。眼鏡の男は舌打ちをして肩を竦めた。
「じゃあ、キミが決めてくれない? 藍博士」
生殺与奪の権利を横流しされた腕章の男は、やや沈黙した。視線が合わない中、無言で見つめ合う時間がややあってから、その男が口を開いた。
「おい、そこの。好きな方を選ばせてやる。何も見なかったことにして立ち去るか――衣食住を保障されながら、気の狂うような仕事に就くか」
淡々と、男が選択肢を示した。およそ是非の無いような択だ。ここがどこかも、自分が誰かも分からないのに、どこかになんて行きようがない。ただひとつ分かるのは――こんな場所で生き抜いていくのは限りなく不可能に近く、胸の中に湧き上がる、確かな本能が叫んでいることだけだった。
「……こんなところで、死にたくない」
「……では、こちらへついてこい」
眼鏡の男の方はというと、やれやれと溜息をつきつつ、半目になって言葉を投げかけてきた。
「運が良かったね、君」
その通りだった。もうひとりの男が来なければ、こいつに殺されていただろう。この男は危険だ。本能に訴えかける恐怖を振り払って、足早に眼鏡の男の傍を離れた。
向かった先には何台かの車が停まっている。そのうちのひとつに乗るよう促され、身を縮こまらせながら荷物と一緒くたの助手席に座った。男は運転席に座ると、防護服の頭部を取り外してこちら――荷物起きである――に寄越す。雨で湿気った防護服の下から出てきたその人の顔をようやく見ることができた。冷ややかな目つきをした、淡白な表情の男である。左目の下にある黒子が印象的だ。彼はひとつ息をついてから、その冷淡な表情からたやすく連想できるような、温度の無い声色で問いかける。
「お前、名前は」
「憶えてない」
「どこから来た」
「分からない」
素直に答えると、男は怪訝な顔をしたまま、車を発進させた。瓦礫を押し潰しながら、車は少し先を走る大きな車を追いかける。あれの中に何が積まれているのかは、想像しないほうが良いだろう。
「妙な真似はするなよ。お前は死にたくないらしいが、俺にお前を殺す理由がひとつでもできたら、その時がお前の最期だ」
強く戒められている、あるいは脅されているのは分かるのだが――雨風を遮られた車内はほんのりと温かく感じられ、極度の緊張から解き放たれた身体は疲労と空腹を訴えている。不規則な揺れを心地良くさえ思い、重たくなってきた瞼に抗うことができず目を閉じると、急激に睡魔が――
「……おい、眠ったのか? ……どういう神経してんだ……」
運転手の呟きは届くことなく、車は黙々と、悪路を走りながら目的地――最果てへと向かっていった。
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