「――そういうわけで、劇のチケットを貰ったんだ」
「ふうん」
再び鉄道を乗り継ぎ、日暮れ過ぎに家に帰ったカウフマンは、食卓で首都での出来事をロクスブルギーに語って聞かせた。吸血鬼はチケットを手に取って、常と変わらない淡白な表情でそれを眺めている。
「そのリドヴァンという役者――ここに連なっている名前の先頭に書いてあるから、おそらく主演なのだろうね」
チケットには演目名である『シャグラン・ダムール』という文字の他、主要な役者の名前が書かれていた。その先頭に、『リドヴァン・フランメ』という名前がある。これがおそらく、先日会った男だろう。
「ああ、後から気付いたよ。サインでも貰っておけば良かったかな」
主演を張るほどの役者であれば、あの目を惹く容姿も頷ける。目の前にいる吸血鬼は間違いなく、カウフマンが人生で出会った中で一番美しいが、あの俳優はまた違った系統の美男といっていいだろう。
舞台演劇は、民衆の間で高い人気を誇る娯楽のひとつであった。演劇という文化そのものの愛好家、あるいは特定の役者の支持者であったり、中には演出の善し悪しを論ずる批評家めいた人たちもいて、その熱の高まりは留まるところを知らない。審問官になってからのカウフマンは懐に多少余裕はあれど、心のゆとりはあまりなかったため、娯楽というものからは足が遠ざかっていた。最後に演劇を見に行ったのはそれこそ――母に手を引かれて劇場へ向かった幼い日が最後ではないだろうか。自然、演劇への興味というものも無いに等しかったが、人生の大目的を果たした今は、生活を楽しみたいという意欲が湧いてきていた。永い時を生きる友人の退屈を紛らわせるという意味でも、新しい娯楽に触れるのは良い機会だ。
「観に行こうぜ。幸いにも夜公演のチケットだ」
その提案に、ロクスブルギーは快く頷いた。
「良いだろう。演劇を観るのは久しぶりだ」
「へえ、観たことはあるのか」
「永く生きているからね」
ロクスブルギーは――本人もあまり正確に憶えていないが――少なくとも五百年以上は生きている。ならば勿論観劇くらいはしたことがあっても不思議ではない。しかし、気になる点がひとつあった。興味と惰性を天秤にかけたとき、やや惰性が勝つ彼が、自発的にそういった人の多い場所へ足を運ぶのだろうかということだ。
「ひとりで?」
可能な限りさりげなく、カウフマンは問いかけた。吸血鬼は視線を彷徨わせてから、やや躊躇しながら口を開いた。
「いや……、……姉と」
「姉」
これは新しい情報だ。一緒に暮らし始めてやや経つが、ロクスブルギーの口から過去のことが語られることは、あまりない。わざわざ根掘り葉掘り聞こうとも思わないが、誰と一緒に過ごして、どんなことを考えて生きてきたのか――気にならない道理はなかった。
「姉……っていうのは」
――教会の資料によれば、『吸血鬼』には大別するとふたつの種類がある。『原種』と『雑種』。前者は超自然的に発生した、謎に満ちた生命体。後者はごく一部の生殖可能な個体から産まれた次世代――大まかには、このような違いがある。そしてロクスブルギーはおそらく前者のはずなのだ。
「君の疑問は尤もだ。僕は、親の胎から産まれたわけじゃない。姉弟というのはあくまで、僕と彼女の間での役割のようなものであって、血の繋がりがあるわけじゃない」
カウフマンの考えを先読みして、吸血鬼は答えた。
「僕が自身の『誕生』を認識したのは――ここから遠い、東の国でのことだ。彼女とはその頃に出会って、しばらくは一緒に過ごしていた」
しばらくは、ということは、その後は別れたということだ。姉の話をするロクスブルギーは淡々としていたが、憎からぬ感情があることは、それとなく伝わってきた。姉弟という関係を受け入れていたのだから、一定の親しさはあったのだろう。なのに、何故別れることになったのか――そこには何かしらの要因があったに違いない。
好奇心は時に、他者の心を土足で踏み荒らす原因となる。この吸血鬼が、乏しい表情からは想像もつかないほど、繊細な情緒を持っていることを知っている。人並みに傷つき、鬱屈としながら何百年を生きてきたことを知っている。だからこそ、好奇心の赴くまま、彼の姉について深く訊ねることは、止めておいた。いつか、彼が話してもいいと思える時がきたら、その時で良いのだから。
「……そういえば、アンタが棺の中で着てた服ってちょっと東国の雰囲気があったよな。あの服どうしたんだよ」
そっと話題を別の方向へ向かわせる。カウフマンの気遣いが功を奏したのかどうかは定かではないが、吸血鬼は常のような歯切れの良さで言葉を返した。
「ああ、あの服なら目立ちすぎるから、起きたときに処分してしまったよ」
「勿体ないな、綺麗な服だったのに」
今でも思い出すことができる――棺の中で眠っていたロクスブルギーが美しかっただけではなく、どことなく異国情緒を感じさせるその衣装が一層彼の特別さを引き立てていたことを。言われてみれば、あれはたぶん特別な身分の人だけが着られるような、立派なものだったのだろう。それも百年以上は昔のものなのだから、この時代に着て歩くのは確かに悪目立ちしそうだった。
「別にあの服でなくたって、十分に僕は君のお眼鏡に適うだろう?」
得意気に口の端を持ち上げて、ロクスブルギーは微笑んだ。憎たらしいほどに美しい。二十年を費やして、なお後悔はないと思わせてくれるほど、彼に眼差しを向けられることは特別なことだ。
「勿論。アンタが役者じゃなくて良かったよ」
「何故?」
「ひとりじめできなくなる」
「業突く張りめ」
二人分の笑い声が部屋の中を満たす。そこはかとなくしんみりとしていた空気は消え去り、和やかな雰囲気で食卓を片付け、吸血鬼にひとくちの血を分け与えたのち、カウフマンは就寝することとした。朝早くから長い時間をかけて移動していたせいか、疲労が溜まっていたらしい。ベッドに横たわってほどなく、幸福な眠りに落ちた。
その後、ロクスブルギーは屋根の上で空を眺めていた。街外れに家があるおかげで、周囲を気にせず夜を過ごすことができるのは非常に快適なことだ。住むことになった家の立地がそうであることは偶然だが、『吸血鬼』という化け物を受け入れ、血を提供し、日々の楽しみや慰めを与えてくれる人がいるということは、幸運以外の何物でもない。数百年生きてきて、今がもっとも恵まれていると思う。だから、近頃は昔のことをまるで思い出していなかった。 時間の感覚が乏しいので正確には憶えていないが、姉である恒春――あるいは、キネンシスというのが彼女の後の名だ――とは何十年かは一緒にいたはずである。彼女は、ロクスブルギーが生まれて初めて出会った同胞だった。
自分が化け物であるという自覚を得た瞬間、襲ってきたのは強烈な孤独感であった。地にはこれほど多くの生命が満ちているというのに、その誰も彼もが、自分と同じではない。血に餓えて、身体の底から渇く感覚を、日差しが肉を焦がす感覚を、誰も理解してはくれない。叫びたくなるような痛みを受けても、なお死なない身体を羨ましがれらさえする。――孤独だった。苦痛を理解されないことは、こんなにも寂しく空虚なものか。そんなときに、彼女と出会った。夜来香の咲く、月が美しい夜だった。
『怯えないで。ふたりなら怖くないでしょう?』
そう言って彼女は笑って、手を引いた。冷たい手だ。自分の手と同じ温度に、ひどく安心した。この世に化け物は自分ひとりではなかった。その後なかなか同胞に出会うことはなかったが、彼女がいたから孤独ではなかった。
彼女は少しばかり自由すぎるきらいがあって、振り回されることも多かったが、それでも彼女のことが嫌いではなかった。しかし彼女はやがて、自意識の中の欲求に気付くと、それを満たすために離れていった。
今はどこでどうしているのだろう。彼女のことだから、きっと面白可笑しく過ごしているのだろうと思うが――
仰いだ空に、ぽっかりと月が浮かぶ。 彼女と出会った時に似ているとぼんやり思ったのは、何かの予感だったのかもしれない。
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