「――起きろ、着いたぞ。……結局着くまで眠りやがって……」
呆れたような声と軽く頬を叩かれる感触で、目が覚める。窓の外に目をやれば雨は止んでいて、広がる荒涼とした大地の一角に、蜃気楼のような揺らぎが見える。しばらくすると、その揺らぎが晴れていき、半円状の真っ白なドームのようなものが現れた。その存在の唐突さと大きさに呆けていると、運転席で男が言う。
「ここが『ステッラ』――人類を保護する楽園であり、地獄のような研究が行われている研究所だ」
その半円に開いた入り口に、先行していた車両が入っていく。男が車を向かわせていくのは、そことは別の入り口で、中に入ってほどなく、並んだ車両の列の端に車を停めた。男に倣って車外へ出ると、ドーム内部の中央部分に建物が見える。
「ここの責任者に、お前の処遇について報告をする。さっき会った奴のように、直ちに命を取るような真似はしないだろうが、粗相はしないように。もしそいつがお前を撃てと言えば、俺はそうする」
いいな、と厳しい顔つきで言い含める男に、ひとつ頷く。出自の分からない生存者を連れてくる、それ自体がタブーであるらしいことは、それとなく理解できていた。この男はそれを押して――自らの哲学に則って――助けてくれたのだ。そのことについては、素直に感謝の気持ちがあった。
「――ありがとう。え、と」
「……藍細雪だ。ここの研究員で、医療セクションを統括している」
差し出された手を握り返すと、防護服のグローブ越しにしっかりとした手の感触がした。そうして彼と一緒に、建物の方へ向かう。入り口の手前に検問をしている人がいて――防護服と、簡易な武装を身に着けている――こちらを認めると敬礼して出迎えた。
「おかえりなさい、藍博士。……そちらの青年は、ええと――?」
「廃棄市街地で倒れていた生存者だ。これから副主任に報告へ行く」
「そうですか。……その――念のため、拘束しておいた方が……」
検問の男が、ちらちらと視線を寄こしながら小声でそう提案した。今となっては武器も持っていないし、抵抗しようとか、ここの誰かに害をなそうというつもりはないのだが、それを人に信じてもらうということは難しいようだ。
「……首輪でも、手錠でも、好きにすればいい」
そのように口を挟むと、藍博士は黙ってこちらを見てから、ひとつ息をついた。
「……不要だ。何かあれば、俺が『処理』する」
そう言って、検問を通り過ぎていく。その後に続くと、前を向いたまま彼が説明をした。
この場所は『ステッラ』の玄関であり、外界と内部を隔てる役割をしていて、実際にはこの下――つまり地下――に、研究所と居住区が設けられている。内部に外界の汚染物質を入れないために、滅菌と着替えを済ませなくてはならないとのことだ。建物に入ると細いドアがいくつも並んでいて、そこにひとりずつ入っていく。ドアをくぐるなり、無機質なアナウンスが服を脱ぐようにと指示してくる。渋々全裸になると、独特の色をしたライトと薬品とを浴びせられ、温風で全身を乾かされ――そこまで終わると、小部屋の出口の脇に新しい下着と服が用意されていた。作業着のような、装飾性のかけらも無い服であるが、清潔な服はそれだけで快適さをもたらすらしいと、袖を通して実感した。
着替えを終えて小部屋を出ると、その先の薄暗い通路で藍博士が待っていた。防護服の代わりに白衣を羽織った姿は、なるほどその肩書きがすっと腑に落ちる佇まいだ。
「行くぞ。遅れずについてこい」
淀みない足取りに続いて、通路を進む。その突き当りにある扉の中に入ると、がくんと身体が落ちるような感覚があり、これが昇降機だということが分かった。昇降機は緩やかに速度をあげて下降を続け――ほどなく、目の前がぱっと明るくなる。
明るい青空に、眩しい太陽の光。眼下には白を基調とした建造物が規則的に建ち並んでいる。緻密に計算されて設計された美しい都市のようだ。それよりなにより、地下だというのにまるで屋外のような――それどころか、外でもそうそうお目にかかれないような、晴天。昇降機の透明な壁に張り付いて、食い入るようにその風景を眺めた。もしかすると、思い出せない記憶の中にあるどれよりも、美しい風景かもしれなかった。
――楽園。
思わず、その言葉が過ぎった。曰く、気の狂うような仕事が行われている場所であることは頭の片隅にはあったのだが、それでも、この場所が綺麗だと思ったのだ。
昇降機は地上――そもそも地下なのにおかしなことだが便宜上――に着く少し前に止まって、扉を開けた。外へ出ると、透明な廊下が大きな建物へと続いている。あの街並みを間近で見られなかったのは少し残念だったが、とにかく今は藍博士についていかなくてはいけない。せっかくここまで来て、殺されるのはごめんだった。
研究所の入り口は固く閉ざされていたが、藍博士が扉の横のコンソールに指で触れると、軽い音を立てて開いた。中に入ってからも同じような扉があったが、同じようにして開いた。この建物の大体の扉を、博士は指一本で開けられるらしい。それは、相応の権限を持つ人だということが伺えた。途中何度か白衣を着た人たちとすれ違ったが、誰も彼も畏まって挨拶をしてきたから、おそらく間違いないだろう。本当に、運が良かった。そういう人が見つけてくれなければ、ここまでもたどり着けなかった。やがて再び昇降機に乗ることになり、今度は上の階へと向かう。降りたフロアにはひとつだけ扉があり、その扉横のコンソールを藍博士が操作すると、音声が返ってきた。
『――はい』
「俺だ。保護した生存者の報告へ来た」
『どうぞ』
扉が開き、藍博士は一度、厳しい目つきでこちらを見た。たぶん、粗相をするなと念を押されたのだろう。博士に続いて部屋の中に足を踏み入れると、そこは眩しくさえ思えるような白い部屋だった。その中央に、書類の積まれた広いデスクがあり、周辺にはいくつもの電子インターフェースが浮かんでいる。その人は伏せがちだった顔を上げた。金髪の若い男だ。緑色の、静かに燃えているような目をしている。しかし、美しく整ったその顔には、何の感情も見出すことができなかった。
「さて――」
ひとつ言葉を吐いて、彼は息をつく。
「ちょうど今しがた、イェリ――マキネン博士が彼について散々文句を言ってきたところだ」
「……奴の躾をもう少しちゃんとしてくれ、副主任。お前の言うことしか聞かないんだから」
「残念ながら、聞いている『フリ』をしているだけだよ、あれは」
藍博士の苦言に、副主任と呼ばれた人は淡々と返事をしたのち、まっすぐにこちらを見た。
「記憶が無いそうだな。本当か?」
頷く。
「言葉は理解しているようだ。他に、分かることは?」
質問というよりも、尋問という方が似合いそうなほど、彼の言葉には圧力を感じた。もし嘘をつこうものなら看破されてしまいそうだ――正直に答える方が良いだろう。ひとまず、街からここまで見たものが何であるかは概ね理解ができていること、銃の扱いが分かることなどを答えた。副主任はそれを静かに聞き終えて、引き出しの中から銀色の箱を取り出した。
「よろしい。では発言に虚言がないかどうか確かめる。――これを打て」
銀色の箱の中には一本の注射器が入っていて、その中は白濁した液体で満たされている。それを見て、藍博士が息を飲んだのが分かった。危ない薬なのだろうか。だとしても、拒否権は無い。前に進んで、その注射器を掴む。打てと言われてもどこに打てばいい――さすがに注射器の刺し方は身体も憶えていない――のか、とりあえず、肘の裏にある太い血管にその針を突き刺した。細い針が肉を穿って体内に入ってくる感覚が嫌に生々しく、その不快感から早く逃れたくて手早く中の薬品を体内に流し込んだ。その瞬間、強い眩暈を感じ、気付いた時には天井を見上げていた。
『おい、しっかりしろ』
ぼんやりとした視界に、藍博士と副主任の顔が映っている。耳鳴りがしているかのように、彼らの声もくぐもって聞こえる。
『まさか躊躇なく打つとは思わなかった』
『アレク、どうしてくれるんだ』
『心配するな。中身はただの睡眠薬だよ』
その後もふたりは何事かを話していたが、もうほとんど耳に入ってこなかった。強烈な眠気が襲ってきて、意識は途切れ途切れになって、そのうちに完全に瞼が開かなくなり、眠りに落ちる。その直前に聞こえたのはやはり抑揚の無い声だったのだが、何故かそれだけは、鮮明に聞き取ることができた。
『ようこそ――最果ての国へ』
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