2.邂逅のアクテュール

 各地の支部に駐在している審問官は、定期的に首都の本部に報告書を提出するようになっている。この報告書というのが、率直に言って面倒臭い。支部に提出している日常業務の報告書は非常に簡素なもので、日常生活を圧迫するような手間がかかることはほとんどない。しかし同じ内容のものを本部に提出すると、毎回これでもかと――まるで意地悪な継母が手摺りの埃を確かめるかのように――細かな指摘を受けるのである。だから結局この日のために、報告書は詳細にまとめ直す必要があった。日頃の言動はともかく、職務に対しては勤勉で卒がないと評判の審問官カウフマンも、この定例報告の時期が近づくといささか憂鬱になるのである。
 とはいえ――いくつかの苦難を経て、この度も教会機関本部への定例報告は、恙なく終了した。数か月に一度の大仕事を終え、本部を出たカウフマンはほっと息をついて肩を回す。鉄道を何時間も乗り継いで都会まで出てきたのだから、家で退屈しているであろう吸血鬼に土産のひとつでも買って行ってやるべきだろう。家にある料理のレシピ本を読破してしまいつまらないとぼやいていたから、都会の洒落た料理の本でも買ってやろう――そうすれば家で作って貰える料理が増えるし――そう考えながら、軽い足取りで街路を進んだ。

 首都はさすがに賑やかで、行き交う人の数はどんな都市の比にもならない。常にこの刺激的な喧騒に身を浸すのは疲れそうだが、時々であれば、こうした空気を吸うのも悪くは無いだろう。ここ数日の気疲れを晴らすべく、のびやかな心持ちでいたのも束の間――ただならぬ雰囲気の怒声が聞こえてきた。
「テメェ、何様のつもりだ」
 声の方を見れば、店先に背の高いふたりの男がいる。ひとりは、いかにも仕立ての良いジャケットを羽織った裕福そうな男で、もうひとりは帽子を目深にかぶった黒づくめの服の男である。そして、裕福そうな男が、帽子の男の胸倉を掴んでいる状況だ。その傍らには、華奢な娘が怯えた表情で震えていて、通行人たちは何事だという顔をしつつも、巻き添えを恐れて遠巻きにそれを眺めるのみだ。胸倉を掴まれている黒づくめの男は、ひらひらと両手を振った。
「いえいえ、何様だなんて……。ただ、貴方の口説き文句があまりにも乱暴なので、お手本を見せてあげようと思いまして」
「なんだと……?」
 一触即発――黒づくめの男に煽られて、裕福そうな男はついに拳を振り上げる。しかし、それが相手の頬に届くことはなかった。
 人間同士の争いごとはほとんどが警察の管轄ではあるのだが、目の前で行われようとしている暴力を見過ごすほど、この審問官は惰性で生きてはいない。黒づくめの男の頬めがけて突き出された拳の衝撃が伝わる瞬間に――掌で受け止めてその力を殺し切った。想像よりもずっと軽い音を立てて、男の握り拳は掌に納まっている。
「そこまで」
「な――」
 渾身の力を込めたはずの拳を涼しい顔で受け止められ、裕福そうな男は目を見開いた。
 受け流しの動作は、審問官にとって非常に重要で初歩的な技術のひとつである。彼らが日夜相手とする、夜鬼は人間の何倍もの膂力を誇る化け物だ。馬鹿正直に正面からぶつかり合えば、命がいくつあっても足りない。よって最初は皆、どのような状態でも相手の一撃を受け流せるよう、素手と武器とで徹底的に訓練をする。そうして一人前になった審問官であれば、一般市民の殴打を受け流すなど取るに足らない。
 しかし、些か派手さに欠ける地味な技であることは否めない。それこそ心得のない者には、この技術がどれほどの研鑽を重ねたものなのかは正しく伝わらない。何故自分の渾身の一撃がふいになったのかという真相に辿り着けないまま、裕福そうな男は掴まれた手を振り解いて、威勢よく吠えたてた。
「次から次へと、なんなんだ今日は!」
「知っていると思うが、暴力行為は刑罰の対象だ。付け加えると、あまり店先で騒ぎを起こすと営業妨害もオマケについてくるぞ」
 親切心からそのように教えてやると、裕福そうな男はふんぞり返って、刑罰という言葉を恐れたり反省する様子も見せずに、薄ら笑いさえ浮かべてみせた。
「脅しのつもりか? ええ? 俺を誰だと思ってんだ? キューネル家の跡取りだぞ。その俺に、どこのどいつが生意気に説教するつもりだ?」
 ――いや、誰だ? カウフマンは眉間の皺を深くした。この国の、歴史の長い貴族の中にその名前はなかったはずだから、土地や商売で成り上がった富豪なのだろう。余裕がある態度を見るに、こういった騒ぎを起こすのは今回が初めてではなさそうだ。おそらく、金の力で揉み消している――見下げ果てた根性だが、それがまかり通るのもまた、悲しいかな人の世である。しかし、今回ばかりは相手が悪かったと思い知らせるしかないだろう。幸い、こちらにはうってつけの肩書がある。
「こいつは失礼、自己紹介がまだだった。俺は教会機関『第十三教区』所属の審問官、カウフマンだ」
「なに……?」
 にわかに男の顔色が変わり、笑顔が引き攣る。『第十三教区』とは、教会機関が定めた十二の教区に当てはまらない、夜鬼の討伐機関である『白夜』の別の呼び名である。しかし、この呼び方をするときは、いささか異なる側面を指していることが多い。すなわち――教義に反するものを裁く『異端審問官』としての側面だ。かつて審問官たちは、国内に蔓延った邪教を排するために、かなり荒々しい――時に強引と思われるような――方法で、異教徒を排除した。国として掲げる信仰をひとつに統一しなければ、争いは無くならないと考えられていたからだ。
 その甲斐あって、今は教会機関に反発する大きな組織はほとんど存在しておらず、平穏が維持されている。そういった歴史が語り継がれているから、人々は教会に対しての信仰とともに、畏怖の心を忘れていない。今もなお「悪いことをすると十三教区から審問官がやってくる」などという脅し文句が存在しているほどだ。夜鬼専門の荒事屋と思われがちだが、審問官が教会の教えに従わないものを厳しく罰する存在であることは誰もが知るところなのである。
「教会の人間が、いつも行儀良く祭服を着てると思わない方がいい。神はアンタを許すかもしれないが、人の定めた法と秩序を平然と侵すものを――審問官おれたちは人とは思わないんでな」
 もっともらしい演出にするために、声を低くして淡々とそう言うと、これ以上強くは出られないと判断したのだろう。裕福そうな男は小さく舌打ちしてから、口を引き結んで足早に去っていった。教会にケチをつけられることは、何の利益も生まないどころか、百害あって一利なし――その判断ができたところは、利口だと褒めてやるべきだろう。
 一息つくと、後ろからパチパチと良く響く拍手が聞こえてくる。振り返ると、黒づくめの男が手を打ち鳴らしながら笑みを浮かべていた。
「これはこれは、まさか審問官様が助けに入ってくれるとは――まさに天恵、神の御加護と言えましょう」
 大仰で芝居がかった男の物言いに苦笑いを浮かべながら、カウフマンは男とその傍らの娘とを交互に見た。
「二人とも、怪我はなさそうだな。……なんとなく察しはつくが、経緯を説明して貰っても?」
 本来であれば事実確認は両者からすべきではあるが、なにも本当に犯罪として立件するつもりはない。ただ、自分の肩書を持ち出した以上は、適当な事後処理はできない。そうした判断から彼らに説明を求めると、華奢な娘が一歩前に出て、胸の前で祈るように手を組んで頭を下げた。
「審問官さま、助けて頂いて感謝いたします。……先程の方が、突然自分の恋人になるようにと言ってきたのです」
「それはまた情熱的な……知り合いかい?」
「いいえ。今日初めてお会いしました。勿論お断りしたのですが、しつこく付きまとわれて……そしてこちらの方が、横から声をかけてくれたのです」
 娘に紹介された黒づくめ男はにっこりと微笑んだが、帽子のおかげで顔の半分は分からない。彼は朗らかな声で、言葉を継いだ。
「困っている女性を助けるのは紳士の義務ですから。そうですよね?」
「良い心がけだな。しかし、相手がすんなり引き下がるとも限らない。手に負えないと思ったら、すぐに警察に助力を乞うように」
 その忠告に、男と娘は素直に頷く。帰路につくと言う娘に、家まで送っていくことを申し出たが、それは謹んで辞退された。存外自立心が強く、さっぱりとした気性らしい。彼女は背筋をすっと伸ばして、きびきびと歩いていく――なるほど、その姿は確かに声をかけて口説きたくもなるかもしれない。しみじみとそんなことを思っていると、黒づくめの男が気安く背中を叩いてきた。
「見事な手際でした、お兄さん。本当にありがとうございます」
「気にしなくていい。たまたま目に付いたから、対応しただけだしな」
「そうだとしても、実行するのは立派なことです。面倒ごとは、見て見ぬふりをする方がずっと容易いですから」
 言いながら、男は懐から封筒を取り出して審問官へ手渡した。一瞬、なにかしらの賄賂かと審問官は訝しげな顔をしたが、どうやらそうではないらしい。ほとんど厚みを感じないその封筒を開くと、そこには長方形の紙が入っていた。手に取って眺めると、その紙は美しい装飾が施されていて、中央には優雅なテキスタイルで、このように描かれている。

 ――『シャグラン・ダムール』

 しばしその紙を見つめたカウフマンは、これが演劇のチケットであることを理解した。
「……劇のチケットか?」
「はい。今日のお礼です。ありがたいことに、この演目は大変好評を頂いておりまして、チケットの入手も困難なようですから」
「へえ」
 最後に劇場へ足を運んだのはいつのことだったろう――おそらく、両親が健在の時だ。子供の頃は、照らされた舞台の上で目まぐるしく場面が変わる様子に感嘆を覚えていたが、そこで繰り広げられている物語の細部までは、理解しきれていなかったような気がする。今なら、かつてと違った楽しみ方ができるのだろうか? そのようなことを思案していると、チケットが二枚重なっていたことに気付く。男が付け加えた。
「この演目は全体を通して、『愛』が大きなテーマでもあります。ぜひ親密な人――恋人、家族、あるいは友人と、ご一緒にお越し頂ければと」
 そう言われて、わざわざ連れてこようと思う人物はひとりしか思い浮かばない。しかしあの吸血鬼は、人間が描いた物語に興味を示すだろうか? その辺りは疑問が残るが、案外と好奇心が旺盛だから行くと言うかもしれない。もしそうでなければ、支部のシスターにでも譲ってやればいいだろう。流行りの劇ということなら、きっと彼女らの間ではすでに話題になっているはずだ。
「いいのか? そんな貴重な――」
 ここまで口にだして、ふと、先ほどからの男の言葉を振り返る。その演劇と彼自身の距離感が――とても近しいように思えた。その正体はすぐに知れた。
「それは勿論。知己が観に来てくれるとあれば、一層演技に熱も入ろうというものですから、ね」
 そう言って、男は目深にかぶった帽子を指先で押し上げる。露わになったその貌は、美しいひとを毎日間近で眺めているカウフマンでさえ、思わず息を飲むほど端正に整っていた。男は片目を閉じて、悪戯っぽく微笑むとこう付け加えた。

「申し遅れました。ボクはリドヴァン。しがない役者で――この『シャグラン・ダムール』の演者のひとりです」
 

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