『おはようございます。定刻になりました。職員は速やかに持ち場につき、作業を開始してください。……』
爽やかかつ、無機質なアナウンスが繰り返し鳴り響き、一日が始まる。持ち場について、ひとつ息をつく。――無感情であれ。それがここでやっていくのに、一番大切な心構えだった。
やがてベルトコンベアが、今日の『仕事』を運んでくる。大小様々な、人間の身体だったもの。それらの、比較的綺麗な部位を拾い上げる作業。これは良し、これは駄目。ガイドラインに定められた基準だけを脳裏に呼び起こし、ただただ、流れてきた肉を選り分ける。それだけのことだ。かつては牛や豚の肉も、こんなふうに工場で加工されて、マーケットに並んでいたらしい。今は人間も、資源としてそのように扱われているだけ。それだけだ。――最後に肉を食べたのはいつだったろう。そんな思考が横入りしている間にも、手は脳と別々に動いて、要不要を選んでいく。それらがかつて、尊いと言われていたモノであることは、考えないようにした。
視線を動かせば、同じ服を着た人がずらりと並んで、同じ作業に従事している。目元以外を厳重に覆う作業着は、中の人が男なのか女なのかすらも覆い隠して、おそらく毎日一緒に仕事をしているこの人たちのことは、ほとんど分からない。多分、食事の時に顔を合わせている人もいるだろうし、休憩中にすれ違った人もいるだろうが、印象に残るようなやり取りが起こることはほとんどない。ここ、処理セクションの作業員の多くは、正気を切り売りして最低限の生命の保障を得ている労働者だ。そうでもしないと、生きてゆけない。それほど、世界はぼろぼろになっていて、今もなお――終末に向かってひた走っている。
ベルトコンベアが、千切れた腕を運んできた。兵士のものだろうか。厳重な装備で覆われているそれは、肉体の状態がすぐには確認できなかった。一度コンベアから降ろし、周りの装備を全て剥ぎ取る。中から出てきた筋肉質な左腕を検分すると、その薬指に鈍く光るものが嵌っていた。指輪だ。こうした付属品は取り除かなければならない。しかし、それなりに高価そうなこれをどうするべきか。廃棄物の中に入れてしまうのは違うような気がする。純度の高い金属であれば、別の貴重な資源になるかもしれない。判断がつきかねたので、一度その指輪を防護服の隙間に捻じ込んで、作業に戻った。
最悪な単純作業を繰り返しているうちに午前の作業が終わり、昼休憩の時間になった。滅菌用のブースに入り、霧状の薬品とライトを全身にくまなく浴びていると、服の隙間に捩じ込んでいた指輪が落ちて、ごく小さな音を立てる。結局そのまま持ってきてしまった。拾い上げて、自分と同じように薬品とライトを浴びせる。防護服を脱ぎ、指輪を作業服のポケットにしまって、滅菌ブースを後にした。
昼食は研究セクションにある食堂で摂る。扱っているもの――いつどうやって事切れたか分からない人間の身体だ――の特性で、処理セクションから研究セクションに向かう通路には、絶えず滅菌用のライトが降り注いでいる。この中でもっとも恐れなくてはならないことのひとつは、感染症である。薬も、食料も、限られた数しか無い。おそらく人類がもっとも快適に暮らしているだろう、この場所であっても。
研究セクションに辿り着くと、先程までとは打って変わって、明るく開けた空間が出迎えた。食堂の中央に浮かんでいる大きな電子インターフェースには、現在の時刻、気温や湿度、風速などが表示されている。
この非人道的極まりない行いをしている会社は、『人間』を使って『人間』を再生させるための研究機関であり、そして行き場を失った人類を収容するコロニーだ。特殊な鏡面のドームで覆われ、科学の力で再現した作り物の空の下で、人々は細々と生活している。
『ステッラ』――それが、美しくもおぞましい、この場所の名前だった。
配給された食事――固形の合成栄養食と水、カップ一杯のスープなど――を食べた後は、午後の作業が始まるまで自由時間だ。貴重な時間ではあるが特段したいことなどはないので、適当に静かな場所でうたた寝でもするのが常なのだが――
ポケットから取り出した指輪を、改めて眺める。しっかりと滅菌を施したためなのか、見つけた時よりも輝きが増したように見える。綺麗と言ってもいい。これをどこかしらに提出しなければならないだろうが、どうしたものか。ここへ来て日が浅いうえに、同じ仕事に従事する者たちは一様に無気力で、相談や質問のために、声をかける気にはならない。きっと自分も、周囲からは同じように思われていることだろう。悩んだ末に――会えるかどうかは五分五分だが――相談できそうな人に会うために医療セクションへと向かった。
医療セクションは研究セクションと同じ建物内にあり、カンパニー内の医療と衛生管理を担っている。文字通り、カンパニーの生命線ともいえるだろう。
壁に取り付けられたコンソールに社員番号を入力すると、医局への内線が繋がる。
『何だ。次のメディカルチェックの予定は五日後だが』
コンソールの横のスピーカーから、無愛想な男の声が聞こえてくる。機嫌が悪いのだろうか。いや、この人の機嫌が良い様子は見たことがない。つまり、いつも通りということだ。
「相談したいことが」
『……入れ』
溜息交じりの声とともに、コンソールの横の扉が小さな音を鳴らす。開錠されたその扉の先には、さして広くもない部屋がある。簡易的な診療器具とベッド、壁沿いには多くの旧時代的な書類や本が積まれていた。デスクで書類に目を落としている男がこの部屋の主であり――医療セクションの統括責任者である藍博士である。博士は眉間に皺を目一杯寄せて、大儀そうに口を開く。
「それで?」
高圧的に促され、ポケットから取り出した件の指輪を差し出すと、博士は怪訝な顔をして指輪とこちらの顔とを交互に見た。
「作業中に、見つけた。どこへ持っていけばいいのか分からなかったから、聞きにきた」
「……処理セクションにはマニュアルもないのか?」
得心が言った風に呟いてから、博士は指輪を受け取って眺めた。運ばれてくる死体の多くは、今日を生きるのに必死なゲリラ兵か軍人のものだから、こうした装飾品がついていること自体が稀である。マニュアルがあったとしても、貴金属の取り扱いなどは省略されているかもしれない。そんなことを思いながら待っていると、博士がおもむろに口を開いた。
「混じりものだろうが、おそらく銀だな。希少ではあるが、この大きさじゃ熔かしてなにかの一部にするくらいしか、使い道が無い」
その指輪が嵌められていたのは、兵士の手だ。死にに行くようなものなのに、何故そんな希少なものを身に付けていたのだろう。戦いに出る前に売り払えば、前の日の食事を豪華にできたかもしれないし、束の間の逃避行をするための路銀にできたかもしれない。けれどそうしなかったのは――どんな利益と引き換えても、手放せない理由がそこにあったのだろう。
「大切なものだったのかな」
そう呟くと、藍博士は何かを思案するように視線を彷徨わせてから口を開いた。
「婚約あるいは婚姻の証として、指輪を交換するという一般的な文化があるが。……記憶と一緒に忘れたか?」
「……そうなのか」
説明されてからそれを見ると、とても眩しいものに見えた。――何も無い自分には、理解の及ばないもののようにも思えた。
「……あろうがなかろうが、こちらにとってはどうでもいいものだ。惜しいと思うなら、持っていればいい。不要になったら、研究セクション内の資源分別ボックスにでも入れておけ」
そう言いながら、博士は親指で器用にそれを弾く。小さな音をたてて、銀色の指輪はくるくると宙を回転し、こちらの掌に収まった。
「用が済んだなら行け。五日後は定刻に遅れないで来るように」
さっさと出ていけと言わんばかりに手を振る藍博士に礼を言って、医局を出た。
手の中にひんやりと硬い感触がある。自分のものではないのに、大切にしなければいけないような気になって、そっと手を握りしめた。誰も知らない、誰にも知られずに終わった物語を。
いつか自分が物語を取り戻すときが来たら――この重みをもう少し身近に感じられるのだろうか?
内なる問いかけに、応えるものはない。自分自身ですら、自分自身のことが、何ひとつ分からないのだから。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます