コートのポケットに突っ込んだ手に、ひんやりとした固い感触が触れている。なんてことのない一枚のカードキーだが、これは自分の命よりも大切な――というと大袈裟だが重要さの度合いとしてはそのくらいの――ものである。あのひとの住処の鍵。渡された直後には嬉しくて舞い上がってしまったが、冷静になってからはだんだんと、その重みを感じている。絶対に落とすことはできない。だから、どうせすぐに使うからと思ってポケットへ入れていても、こうして手で触れていないと落ち着かないのだ。
そうしていささか行儀悪く、高級ホテルのようなエントランスホールに入ると、フロントの係が小さく微笑んで頭を下げる。軽く視線で応えつつ、足早にエレベーターへ乗り込んでカードキーを翳す。そろそろ顔を覚えられてしまったかもしれない。こちらは別に構わないが、彼女はそれで良いのだろうか。――いや、多分良いも悪いも考えていないだろうな、と思い直して頭を振る。そういった杞憂はこちらの役目。何が起きたとて、彼女の何かが変わることはない。その美貌が、永劫に不朽であるように。そう考えているうちに、スムーズに昇っていたエレベーターがぴたりと止まって、扉が開く。
高層マンションの最上階。近年は資産として所有されるばかりで、実際には人が住んでいない、なんてこともしばしばあるそうだが、ここにはちゃんと主がいる。ここの主は、高層階特有の景色だとか、資産的価値とか、まして富や名声を誇示する為だとか、そういう理由でここに住んでいるのではない。最上階が一番、人目に触れずに済むからだ。
広々としたそのワンフロアは、全てそのひとのものだった。大都会の喧騒を遙か高みから見下ろせる、そんな贅沢な眺望にも関わらず、部屋という部屋は全てカーテンが閉まっていて、朝だというのに薄暗い。一番奥――寝室のドアをそっと開けると、広々としたサイズのベッドの上に、横たわる姿がある。無意識に襟を正してから、そこへ近付いた。
長い黒髪が、ベッドの上で無造作に広がっている。対してそのひとはというと、すらりとした四肢を縮こまらせ、猫のように背を丸めて眠っていた。白く滑らかな肌はごく薄い衣類だけで覆われ、身体の凹凸や曲線が透けて見えていて――少し目のやり場に困りながら、ベッドの縁に腰かけた。手を伸ばして、頬にかかった黒髪をはらう。
――ああ、今日も綺麗だ。
未だに、ここへ立ち入ることを許されているという事実を疑いたくなる。そう思うくらいに、このひとの美しさは近寄り難く、恐れ多くて、完全に別世界の生き物みたいだった。そのひとの無防備な姿をいま独占しているということが、浅ましい欲望をこれでもかというほどに満たしていて、自分は愚かな生き物だなとつくづく思う。――しかし、その愚かさにはきちんと代償があった。
不意に――信じられないほどの強い力で、手首を掴まれる。驚きの声を上げる間もなく柔らかなベッドに引き倒されたかと思えば、次の瞬間には首筋を鋭い痛みが襲う。視線を向ければ、馬乗りになったそのひとが噛み付いていた。鋭い牙が突き刺さる痛みと吹き出す血の滑り、そして唇の柔らかさを感じながら、獣を宥めるようにそっと、そのひとの後ろ頭を撫でた。絹のような手触りの髪は、するすると指の間をすり抜けるほど手入れが行き届いている。
「――おはよう、ロクスブルギー」
そう声をかけると、したたかに噛み付いていたそのひとはゆっくりと身体を起こして、こちらを見下ろした。赤い瞳は微睡んでいて、まだ半分夢の中にいるかのようだ。視線が合うと、眦が和んで笑みの形を作った。薄く艶やかな唇からは――鮮やかな色の血が滴っている。
「……おはよう、ルー」
そのひとはそう言ってから、そのままゆっくりとこちらに倒れ込む。柔らかな身体を抱き留めると、血の滲んだ傷口に再度唇が触れた。今更も今更、その感触に身体が緊張する。そんなこちらの気も知らずに、彼女は人の身体の上に寝転んだまま目を閉じた。
「疲れた」
手短に述べられた一言には、心底の実感が込められている。昨日は日中に撮影の仕事があって、長い時間外出していたはずだ。それだけでひどく体力を消耗するのは――このひとが『吸血鬼』という、夜に生きる種族だからである。
「お疲れ。……買い出し、俺だけで行ってこようか?」
「駄目」
良かれと思っての提案は、すげなく拒否されてしまった。『吸血鬼』には、日光を直接浴びると肌が焼け爛れてしまう、そういう弱点もある。日中の外出自体がそもそもリスキーだった。必要なものを教えてくれれば、それを買って帰ってくることくらい苦にしないのに――常々そう考えているのだが、彼女はそうしない。頼りにされていないのだろうかと思うと、少し胸が痛んだ。身体付きだけ大人でも、学生という身分がそう思わせるのかもしれない。早く社会に出て大人になりたい。そうすれば――もっと頼ってくれるかもしれないから。そんなことを考えている間にも、彼女は小さく息を吐きながら、目を閉じて休息している。本当に疲れているらしい。心配になって、やり場のない腕を中空に彷徨わせていると、薄目を開けてロクスブルギーが呟いた。
「なにか機会がないと、なかなか一緒に出かけられないだろう」
彼女は少し唇を尖らせた。――つまり、一緒に出かけたいと、そういう解釈で良いのだろうか? そんなことを口に出して、もし的外れだった場合恥ずかしいことこの上ない。なんと返答すべきか迷っていると、血のような赤い瞳がこちらを見上げる。薄く微笑まれると、じわじわと顔が熱くなった。
「おや、可愛らしい坊やだね」
「坊やって言うなよ。一応、成人してるんだから……」
「僕からすれば、いつまで経っても子供だけどね」
くすくすと笑いながらそう言うロクスブルギーだが、さすがにそれは聞き捨てならない。細い肩を掴んで、ぐるりと体勢を逆転させる。彼女を下に組み敷いて見下ろしながら、身体の曲線をなぞるように手を滑らせていく。
「……子供に、アンタを悦ばせたりできるか?」
「へえ、君にはできるのかな?」
挑発するように微笑んで、彼女はこちらの手をとって、胸の膨らみの上に誘った。一枚の薄い布越しに、柔らかな胸と小さな突起の凹凸を感じる。それを知らないわけでもないのに、驚くほど緊張するのは何故なのか。しかし――そんな内心に反して、口からは強気な言葉が飛び出してくる。好きなひとの前で見栄のひとつも張れないのは、男の名が廃るというものだ。
「俺以外にできる奴がいるなら、教えてもらいたいね」
「ふふ――じゃあ、お手並み拝見といこう」
――結局、買い出しに出るのがそれから何時間か後になったのは、また別の話である。
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