冬のある日。渋る吸血鬼を説得して、凍てつく風の吹く街を一路、服飾店へ向かっていた。
一緒に住み始めてからしばらく、ロクスブルギーは自分の持っていた数枚の服の他は、こちらのクローゼットの中の服を自由に着て生活していた。それ自体は別に構わない。しかし冬場は洗濯物の乾きも遅いし、厚手の上着も必要になるだろう。来年も、その先も、変わらず冬は巡ってくる。当面人里で暮らしていくのだから、彼自身の服をもっと用意しておく方が良い。寸法だって、自分に合ったものの方が絶対に着心地が良いのだから。そのように話したのだが、どうにも吸血鬼は気乗りしない様子で、渋い顔をした。何をそんなに渋るのかと訊ねれば、このように言葉が返ってきた。
「服屋は苦手なんだ」
「なんでだよ」
「試着が疲れる」
あまりにも人間臭い回答に、思わず笑ってしまった。ロクスブルギーには、少々怠惰な一面がある。特に他者に影響を及ぼさないような事柄にはそれが顕著だ。自分の着る服などはその一例なのだろう。
「気に入ったものの方が良いだろ?」
「別に。襟があって、袖がついていれば僕はなんだって構わない」
まるで取り付く島がない。本人がそう言うのならば、適当に買ってきた方がいいのだろうか――いや、それではまるで味気がない。ロクスブルギーの容姿は、贔屓目を抜きにしても美しい。静かに心を奪われる、芸術品のような美しさ。そんなひとに、本人に似合うか吟味もせずに、適当に選んだ服を着せていいのか? 答えは否だ。それは彼の美しさに対する冒涜に等しい――感情的で多少過激な思想であることは自覚している。
そんな葛藤が顔に表れていたのか、ロクスブルギーはひとつ溜息をついた後、観念したように口を開いた。
「……なら、君が選んでくれ。こだわりがない以上に、似合っているかどうか、僕には分からないから」
――ほどなく、街の服飾店に到着した。上等な日常着と畏まった服を取り扱うこの店の品物は、そう安価ではないが、着心地が良く、品が良く、そして丈夫だ。与えられた使命を果たすには申し分のない店だろう。
まずは寸法を測ってもらい、普段着のシャツを何枚か選んだ。襟と袖にフリルをあしらったシャツは、白くしなやかな生地のドレープが生み出す陰影が芸術的だ。その上品な華やかさは、均衡の取れた彼の肢体の美しさを際立たせている。綺麗だ。その感想で胸がいっぱいになり、無言で立ち尽くしてしまう。
「どうかな」
「良い」
「似合っている?」
「勿論」
どんな言葉を並べても、この美しさを賛美するには値しない――そんな思いから、言葉少なにロクスブルギーに応えた。それを聞いて彼は、ではこれは頂こうと告げ、店員は深々と頭を下げた。そんなやり取りを何度か繰り返しているうち、店員がいそいそとコートを持ってきた。
「是非お試しください。当店随一の逸品です」
そうして吸血鬼――店員はそんなこと露知らず――の肩にかけられたのは、柔らかな黒色のコートだ。ケープの縫い付けられたデザインは輪郭に遊びを与え、実用性の中にも洒落た雰囲気を醸し出している。さながら良家の貴公子か、人気の俳優かといったような佇まいだ。
「良いな――」
「良いですね――」
思わず漏れ出た感想に、店員が同じように応えた。美しさは万国共通言語であり、出会ったばかりの者同士にも共感の心を芽生えさせる。店員はこの後にも、ロクスブルギーのために見繕った服をあれこれ持ってきてくれた。無論、あちらは商売であるからそういった意味での下心はあっただろうが、どれも良いものばかりだったので、さすがの観察眼であった。熱心な店員に付き合って話している間、ロクスブルギーは革張りのソファに腰かけて欠伸をしていた。一通りを紹介されたあと、駄目押しのように店員が持ってきたものがあった。
「これからまだ寒さが厳しくなりますから、こういったお品も加えてみてはいかがでしょう」
それは羊毛で織られた、薄手のマフラー。その深紅の色は、吸血鬼の瞳の色を彷彿とさせる。手に取れば軽く、肌触りも柔らかだ。そろそろ面倒になってきているロクスブルギーを手招いて、首元にそれを巻く。頭の天辺から爪先まで、ほとんど黒一色の姿に花が咲くように、鮮やかな赤が映える。――ああ。やっぱり、この人には赤い色が似合う。いつかの光景が、脳裏に蘇るような心地だった。
最終的に、購入するものは結構な量になった。会計を済ませて一足先に店の外で待っていると、店員の勧めで早速コートを着たロクスブルギーが出てきた。何度見ても、深く頷いて拍手を送りたくなるような姿だ。
「ルー。さっきの襟巻も出してくれ」
「はいよ」
外が思っていたより寒かったのだろうか、そのように彼が言うので、包みの中からマフラーを取り出す。しかしロクスブルギーは手を伸ばす気配がなく、じっと無言で見つめてくる。一拍おいてから、先程のように彼の首元にそれを巻いた。どうやらそれが正解だったようで、吸血鬼は薄く微笑んだ。その反応にほっとして、訊ねる。
「お気に召したかい?」
「そうだね。僕の服は、これからも君が選んで良い。――お気に召すまま、着飾ってあげよう」
「――そいつは……光栄だね」
目を逸らしながらそう返すと、おかしそうにロクスブルギーが笑ったので、顔が熱くなってきた。それを悟られないように――無駄な抵抗かもしれないが――背を向けながら、極めて平静に提案する。
「……折角出てきたんだから、喫茶店でも寄っていくか」
そうだね、と返ってくる声は、まだどこか笑いを堪えているかのような響きがある。やはりこのひとには、二十年経った今でも、あらゆる意味で敵いそうにはないし――それでもいいやと、思えるのだった。
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