前編 / つめたい手、あたたかなスープ
審問官は休日が不規則な仕事ではあるが、一年のうちにはいくつか、必ず休んで良い日が決められている。そのひとつが、自身の誕生日だ。『朝の神』を信奉する教会機関の教えでは、生誕は太陽の昇るとき――すなわち朝に喩えられ、特に盛大に祝うべきものだとされている。そのため教会機関に所属する者は、誕生日だけは必ず休暇を取る。そうして家族、あるいは親しい間柄の人とともに、ご馳走を食べたり、思い切り羽根を伸ばしたり、外出して買い物や観劇を楽しむなどして、幸福な一日を過ごすのだ。何十回と聞かされたお決まりの文言を思い返しながら、誕生日の朝は訪れた。
秋から冬へと、移ろい始める季節の空気は冷たい。ベッドの中で目を覚ましたものの、休日だということも手伝ってなかなか起き上がれない。寝返りを打ち、いっそもうひと眠りしてしまおうかと思ったところで、慎ましやかに部屋のドアを叩く音が聞こえ、次いで、澄んだ声とともにそのひとが部屋の中へやってきた。
「朝食の時間だよ」
ベッドのすぐ傍らまでやってきて、ロクスブルギーはこちらを見下ろす。微睡みの中でさえ、なんて美しいひとだろうと惚れ惚れしてしまう。この宝石のような赤い瞳が、自分だけを映しているのはなんと贅沢なことだろうか。所在なげに手を伸ばせば、特に言葉がなくともひんやりとした手が応じて掬い上げる。白い手に触れて、握りしめて――そのひとが今日もここにいることを、過分に幸福な今が、夢や幻でないことを確かめる。
「……おはよ」
「おはよう。そして誕生日おめでとう、ルー」
起き抜けに誕生日を祝われることは久しかった。歳を重ねることに対しては、もはやなんの感慨もなくなってきた分、改めて祝われるのはどうにも面映ゆい。対して、ロクスブルギーは機嫌が良さそうに微笑んだ。
「食事をしたら出かけるとしよう。今日は君にプレゼントを選んであげると約束したからね」
「良いのか? わざわざ真昼間に外出なんて」
ようやっと半身を起こしながら、吸血鬼に問いかける。彼の天敵はごく限られるが、避けることはなかなか難しい。気温が低いとはいえ、カーテンの向こうにはすっきりとした晴天が広がっていて、吸血鬼が出歩くのに適しているとは言い難い。ロクスブルギーは普段外に出たがらないほうだが、今日は随分と意欲的だった。
「目的がある場合は仕方がない。店は明るい時間にしか開いていないし、君の誕生日は今日を逃せばまた一年後だ。いちいち太陽のご機嫌伺いはしていられないよ」
肩を竦めてそう言いながら、起き上がって身支度をするようにと彼が催促してくる。はいはいと返事をしながら、ようやっと柔らかく温かな寝床に別れを告げる。
リビングへ向かい、手分けをして食卓の支度をする。テーブルには昨日のうちから用意してあった小さな花束が飾られている。花瓶など、どこにしまってあったのか家主ですら記憶にないほどだが、それを見つけてきて綺麗に磨いたのだろう。そうやってロクスブルギーが、自分の誕生日を祝うために準備をしてくれたことを思うと、それだけでプレゼントとして十分だった。このまま家でゆっくり過ごしたっていいのだが、今日は彼が出掛けると言ってきかないので、それは胸の中に仕舞っておいた。ほどなく二人分の朝食が並び、向かい合って席に着く。珍しく、ロクスブルギーは自分の分の食事も用意していた。
「誕生日は、家族と一緒にご馳走を食べるのが定番だそうだからね」
こちらの胸の内を見透かしたかのように吸血鬼はそう言って、手ずから時間をかけて煮込んだスープを口に運んだ。なるほどと納得しながら、それに倣う。
家族。その言葉を反芻した。家族と呼べる人たちは、もうこの世にいなかった。家族になれるかもしれなかった人もいたが、愚かにも自分で手放してしまった。
――そうか。このひとは、家族だと思ってくれているのか。
スープの塩味が、じわじわと胃に染み込んでいくのを感じた。いつもより少しだけしょっぱいような気がしたのは、たぶん気のせいだ。
後編 / 幸いなるかな
列車に乗って、少し遠くの街へ足を伸ばす。普段なかなかやってこないような大都市の駅に到着すると、列車を降りたところから既に、人の多さを感じた。ロクスブルギーは大丈夫だろうかと、心配になって視線をやるが、本人はいたっていつも通りだ。冷え込む季節になったせいか、あたりには着こんだ姿の人も増えて、上から下まできっちり着込んだ――日光に焼かれないために――吸血鬼の様子も不自然には見えない。案内板に従って駅を抜けると、街の大通りは目まぐるしく行き交う人々や、各々に主張する店の看板が一斉に視界に飛び込んできて圧倒される。ロクスブルギーが訊ねてくる。
「さて、プレゼントを探すのに適した店へ行こうか」
「そう言われても、これと言って思いつかないな」
「選び甲斐のない奴だな君は――まあいい。歩きながら良さそうな店に入ろう」
そのように方針を決めて歩き出す。通りに面した大きなウィンドウには、それぞれの店が客引きのために趣向を凝らした商品が展示されている。ロクスブルギーは時折立ち止まって、それらを言葉もなく眺めていた。文化の移り変わりや文明の進歩が、興味深かったりするのだろうか。こういう機会に遠出ができるのは、彼の退屈を慰める良い機会かもしれなかった。
道中、洒落た雑貨の店を見つけ、どちらからともなく店へと歩を進めた。店中には年代物の書籍や国内外の工芸品が所狭しと並んでおり、価格も高価なものから手頃なものまで様々だ。本物志向の愛好家たち、あるいは土産を探している観光客に至るまで、多くの人が店内を見て回っている。ロクスブルギーも真剣になって商品を見始めたので、しばらくそっとしておくことにした。店内を眺めていると、いつか連れて行ってもらった商館の様子を、ぼんやりと思い出した。あの頃は目に映るものの何もかもが新鮮で、誕生日のたびにあれが欲しいこれが欲しいとねだったものだ。悲しいかな、歳を経るごとにそうした感情は薄れていってしまった。それでも、こうした雑多なものに触れているとかつての少年が顔を覗かせるような気がする。
少年は、兵隊の人形を集めて部屋に飾っていたのだったか。赤い服の兵隊が、格好良くて好きだった気がする。父が買ってきてくれた用途不明の置物は、ついぞ何に使うものだったのか分からなかった。対して母が選んでくれたものは、図鑑や辞典や、実用的な本が多かったのを憶えている。正反対な両親だったが、それぞれに我が子を愛していた。共に在れた時間は短かったとしても、今はもう帰ることのできないあの部屋には、確かに両親の愛が詰まっていた――
「ルー」
物思いに耽っていると、傍へやってきていたロクスブルギーが軽く服の袖を引いた。思いがけず深刻な顔になっていたらしく、吸血鬼の顔がやや心配そうだ。なんでもないと答える代わりに、声をかける。
「どうだ。良いものあったか?」
「本人の意見を聞こうと思ってね」
彼が案内した先にカメオやブローチ、指輪などの装飾品が陳列されていた。年代物の鈍い輝きを放つそれらは、宝飾店に並ぶ真新しいものには無い良さがある。
「悪くないな」
「そうか。ではこのあたりから選んであげよう」
言いながら吸血鬼は真剣なまなざしでそれらを眺めて、やがて銀色の指輪を手に取った。表面に細かな槌目があるようで、光に照らすと角度によって、微かに鈍い輝きを返す。年代物の割に、錆も少なく綺麗な状態である。興味深く眺めていると、店員が通りすがりに、そちらは錫でできております、と教えてくれた。銀に似ているが、言われてみれば少し穏やかな色をしている。成程と頷き合ってから、ロクスブルギーが言う。
「内側に祈りの言葉が刻まれているらしい」
「へえ」
ロクスブルギーが持ち上げた指輪の内側を覗き込むと、『すべての災い、全ての苦しみを遠ざけますように』という文言が刻まれている。意外というか、ロクスブルギーは当然ながら神を信奉してはいないものの、祈りというものには理解があるようだった。
「いいじゃないか。君が持つのに相応しい言葉だ」
「じゃあ、それにしようかな」
「そうするといい。うん――難航したが、良い品があって良かった」
満足気に頷くロクスブルギーからその指輪を受け取って、会計に向かう。吸血鬼がするのは、選ぶところまで。彼は自分で働いているわけではないので、結局のところ支払いは自分ですることになる。勿論その気になれば吸血鬼は、金銭など払わずに欲しいものを手に入れられるのだが、その話はやめておこう。手の中で指輪を転がすと、店の照明を受けて微かにきらきらと輝く。闇夜の下でしか見つけられない、砂粒のような大きさの星みたいだと思った。
無事に目的を達成し、少しばかり喫茶店で休憩するといい時間になっていた。帰りの列車はうたた寝をしている間に最寄りの駅に到着し、徐々に明かりの灯る家々を横目に、自宅までの人気のない道をゆっくりと歩く。静かに歩いていたロクスブルギーが、不意に口を開いた。
「今日はありがとう」
「それはこっちの台詞だろ。わざわざ外に出てくれてさ」
「いや――僕の個人的な満足のためだというのが大きかっただろう」
少し間を置いてから、吸血鬼は言葉を付け加えた。
「君が特別、何かを欲しがったりしないのは分かっていた。だが、なにか贈り物をしたいと思ってね」
人間の一年は、僕の一年とは全く違うものだから、と。吸血鬼はそう呟いた。彼なりに、いろいろ考えてくれたのだろう。だが――
「そういうことなら、もうひとつ貰ってもいいか?」
少し前を歩いていた吸血鬼は立ち止まって振り向き、こちらに歩み寄る。ひとつと言わずふたつでも、と答える彼に手を差し伸べる。
「手を出して」
「こうか?」
ロクスブルギーは特に疑問を抱かず、素直に手を差し出した。そのひんやりとした手を取って、先程選んでもらった錫の指輪を、白い指に通す。
このひとに選んでもらえたものなら、なんだって嬉しい。だけど、別に何かが欲しいわけじゃない。もし、あえて欲しいと願うものがあるのなら、あと何十年かの間だけ――どうか、どこへも行かず、誰のものにもならないで。
「……傍にいてください」
吸血鬼は自分の指に嵌められたそれをまじまじと眺めて、それからこちらの顔を見た。さすがに少し顔が熱い。気まずくなり視線を泳がせていると、不意に正面から小さく唸るような声がしたので、そちらに目がいった。
「よくもまあ――そんな言葉を臆面も無く言えるものだ」
そう言って視線を逸らしているロクスブルギーは、形の良い唇を僅かに曲げてなんとも表現しがたい顔をしていた。むず痒いというか、恥ずかしいというか、そういう類の感情が見え隠れしている。取り合ったままの手に少しだけ力が加えられて、赤い瞳がゆっくりとこちらに向き始めた。
「――君こそ、怖くなって逃げ出さないだろうね」
吸血鬼の声には、いつも通り抑揚がない。しかし、その瞳の奥に、言葉の裏に、隠した感情があるのだろうことが、今は分かる。
このひとを、孤独にさせたくない。自分の命を使い切ったとて、叶えられないことだと分かっている。けれど、それならばせめて、すべての災いと苦しみが、少しでもこの人から遠ざかりますように。愚かしく――祈ってやまないのだ。
「逃げないよ。……よく知ってるだろ?」
「……違いない」
小さく笑いあって、再び道を歩き出す。
たとえこの道の先が、明かりひとつ見えない暗闇だったとしても。逃げたりはしない。この手の届く距離に、ささやかに瞬く星のような、あなたがいるから。
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