嘆きの川の畔を越えて

 数日ぶりに目を覚ますと、周囲の気温が一層下がっていることに気が付く。洞の奥から這い出し外を見てみれば、外はまた一段と寒く、地面の表面がうっすらと白くなっていた。寒い寒い、冬が来たのだ。どれだけ冷えたところで、生命の維持には支障が無い。夜が長いこの季節は、陽の光を天敵とする吸血鬼ドラクルにとって、過ごしやすい季節だといえる。しかし――どことなく、冬は苦手だった。
 低い位置から射してくる薄陽は木々に阻まれ、霧に散らされて、肌を灼くような鋭さは失っている。このような日は、日中でもいくらか過ごしやすい。襤褸布を羽織って洞の外に出ると、足元で薄玻璃の割れるような音がした。爪先で土をどかしてみると、透き通った結晶が砕けている。土を持ち上げていた霜柱だ。一歩踏みしめるごとに、それらが砕けて音を立てる。ざくざく。ぱきぱき。命の気配がごく薄い森の中に、軽やかで空虚な音が響く。
 軽い喉の渇きを覚えながら、寒々しい森の中を歩く。しばらく血を口にしていない。人間の血を得ることは、それほど困難なことでも無い。人里に下りる気があればだ。そういったことを厭うのなら、冬眠する獣のように、人目に触れないところで最低限の活動をするに留めるということもできる。どうせ、どれほど飢えても渇いても、死ぬことはできないのだから。
 視界が開けた場所に出ると、半分凍り付いたような川が、微かな水音を立てていた。その岸辺に、何かが――いや、誰かが倒れている。近付いて見ると、それは年老いた女であった。肌着同然のような姿のまま川を流れてきたのか、身体は冷え切っていて、既に心臓は止まっていた。流れ着いたばかりなのか、遺体の状態は綺麗である。望外の幸運だ。生き血の方が遙かに美味ではあるが、人間の血には違いない。遺体を川の傍から移し、張り付いた氷が溶けた頃に、首筋の太い血管に噛みついた。冷え切った血が、どろりと口の中を満たす。それを飲み下すと、血に刻まれた記憶が、否応なしに次々と頭の中へ雪崩れ込んでくる。
 老女はこの川の上流にある寒村で暮らしていたらしい。そしてその村では、食料の乏しい冬になると、食い扶持を減らすために、自主的に年寄りが姿を消す。この女も、そういった事情であの凍り付いた岸辺へ流れ着いたようだった。女の血は時間をかけてすっかり綺麗に吸い尽くしたが――どうにも、後味が悪かった。
 軽くなった遺体を、柔らかい土の下に埋めた。運良くそのまま安らかに眠れるかもしれないし、獣が掘り起こして食べてしまうかもしれない。しかし、してやれることはこれ以上なにもない。墓標も用意できなかったが、このような森の奥深くでは、きっと誰一人この老女を悼みには来ないだろう。
 ――冬は、苦手だ。来た道を戻りながら、そんなことを思った。


「寒くないか?」
 少し前を行く、友人が肩越しに振り返りながらそう訊ねた。時代の進歩は目覚ましい。今しがた買い揃えてもらった羊毛の防寒具は不足なく、身体を寒波から守ってくれている。問題ないことを示すために頷くと、彼は満足げに笑って、再び歩き出す。――本当は、こんなに着込まなくたって平気なのだけれど、この季節に薄着でいるとそれはそれで悪目立ちする。かつてのように、素足で歩くというわけにはいかない。新品のコートとマフラーを装着し、一回り着ぶくれした姿で、彼の後に続く。
 道の途中、数名の子供が連れ立って町の郊外へと駆けていくのが見えた。友人はそれを見て足を止め、彼らに声をかける。
「おおい、どこへ行くんだ-?」
 すると、子供たちも足を止め、手に持った道具をそれぞれ掲げてみせ――釣り竿、バケツ、網である――大きな声で返事をしてきた。
「湖で釣りするのー!」
「おかあさんに夜ご飯にしてもらうー!」
「そうかー! 気をつけろよー! 何かあったらすぐ大人を呼べよ-!」
「はーい!」
 子供たちははしゃぎながら、目的地へ向かって駆けていく。ざくざくと重なり合う足音は、彼らの笑い声と同じく賑やかだ。それを見送って、友人はしみじみと笑う。
「寒いってのに、元気だねえ……」
 肩を少しいからせて、彼は歩く。彼の着ているコートは、それなりに年季が入っている。自分のコートこそもっと暖かいものに新調すれば良かったのに、まだ着られるからと言って、こちらの服ばかり買った。そのせいで、彼の両手は既に塞がっている。店員と一緒になって、これが似合うだの、こっちのほうがいいだのと、着る当人を置いてきぼりにして盛り上がっていた――何がそんなに楽しかったのやら。そう思いながら視線を巡らせると、街のそこかしこには、これから訪れる冬の祭典のための飾り付けがされ始めていた。
 人々の吐く息は白く、歩む速度は遅い。しかし、活気が失われているということは決して無い。子供たちは霜柱を踏みしめて走って行くし、街角や店からは音楽と談笑が聞こえてきて、教会には祈りを捧げる人が絶えず訪れる。目を伏せて、遠い遠い、いつかのことを思う。
 人が寒さに抗う術の少なかった頃。冬は死の季節だった。死から外れた不死の生き物は、雪と死が降り積もるのを、ただ眺めているだけだった。いつかそうやって、周りの全てが死に絶えるのかもしれないと、そんな想像をして――だから、冬は苦手だった。
 少し早足になって、友人のすぐ隣に並んで歩く。触れ合わずともあたたかく感じられるのは、人間の体温が高いからだろうか。彼は目を丸くして、どうしたのかと問いたげである。感じたままの言葉を、口に出した。
「――冬も、悪くないな」
 その言葉の真に意味するところを知りはしないだろうが、彼は笑った。眉間の皺を緩めて、目を細めるその様子を見るとき、胸の内に広がるものをなんと表現するのが正しいのか分からないが――つまるところ、僕にとってはそれだけで、あたたかいのだ。

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