アンバーグリスの詩

 日用品の買い出しの途中、ある店が目に留まった。そこは落ち着いた雰囲気の香水店のようで、いかにも老舗といった雰囲気である。こんな店がここにあったのか。いや、おそらく香水にさほど興味を持っていなかったから見落としていたのだろう。ショーウィンドウを覗き込むと、様々な形の香水瓶が並んでいる。実用性と美しさを兼ね備えたそれらは、芸術品と呼んでもいいだろう。興味を惹かれて、重厚感のあるその扉を開いた。
 一歩店内に足を踏み入れると、ふわりと漂う芳香が出迎えた。それに続くように、店主らしい初老の男性が声をかけてきた。
「おや、いらっしゃいませカウフマン審問官」
「どうも。俺を知ってるのか?」
「教会は男性が少ないですからね。自然と覚えますとも」
 ここへ来てからは、まだそう経っていない。街を離れる用事も多いので、顔を覚えられているとは予想外だった。
「そいつは失礼。今日は非番なんでね。少し見せてもらうよ」
 勿論です、と店主は微笑んだ。公の姿を知っている人に私生活を見せることに少々気恥ずかしくなりながら、店内を見て回る。しばらくすると、店主が声をかけてきた。
「よろしければ、ご案内しましょうか。お悩みなどがあれば、それに合わせた香水を提案させて頂きますよ」
「いや、これといっては――」
 香水はいくつか持っていた。しかしそれほど頻繁につけてはいない――最近は女性と出かけるようなこともない――ので、特に買い足そうと思うことも無かったのである。
 特別な目的があるわけではない。しかし何か、自分の中に変化を求めるような意識があるのかもしれなかった。それはやはり、あのひとと一緒にいることが大きいのだろう。
「あえて言うなら――こう、落ち着いた大人というか……そういう雰囲気のものがいい、かな……」
 漠然とそのように答えると、店主は目を丸くした。
「これは意外でした。十分に落ち着いた大人の男性に見えますが、まだ至らないとお考えなのですね」
 微笑ましそうにして、店主は店の奥に一度消えて、周りの香水瓶よりも一回り小さい、深みのある群青色の瓶を手にして戻ってきた。
「こちらはいかがでしょう。大変貴重な香料が手に入りましたので、それをベースに調香したのですが」
 少量を吹き付けた試香紙を手渡されたので、顔の傍でそっと振ってみる。ほのかに甘い、柔らかな土のような香り。花とも香木とも違っていて、表現が難しい。それでいて、身体の緊張を解すような心地良さを感じる香りでもあった。
「『アンバーグリス』といいます。鯨の体内で作られ、排出されたものが熟成して、このような深みのある香りになるのです」
 店主の話はさらにこのように続いた。
「今はそのようなことが分かっていますが、かつては海に漂っていたり、浜辺に打ちあがっているのを見つけるだけだったので、不思議な物体だったようです。そのため、東の国では『$[ruby 龍涎香 りゅうぜんこう]』と呼ばれたそうで」
 龍――ないし、竜種ドラゴンと呼ばれるもの。神話の終わりとともに忽然と世界から姿を消したそれらは、今もなお様々な伝説を各地に遺している。芳香を放つ謎の灰色の琥珀アンバーグリスを、未知の生き物に結びつけて考えるのは、面白い発想だった。
「一説では、龍の好む香りであったという話もあります」
「へえ」
 その香水を、買うことを決めた。香りが気に入ったのと、その稀少性に蒐集癖と所有欲を刺激されたからだ。


 帰宅すると、カーテンの閉め切られたリビングのソファで、吸血鬼ロクスブルギーは寛いでいた。
「ただいま」
「おかえり」
 お決まりの挨拶をかわしてから、買ってきた食料品やらを整理し、吸血鬼の隣に座る。彼は、普段と違う香りに気が付いたようだ。
「香水でも付けてきたのか?」
「ああ。ふらっと立ち寄った店で、勧められてね。少し値が張ったが、たまにはいいかと――」
 買ってきた香水を見せてやろうとしたところで、ロクスブルギーが肩口に顔を埋めてきた。血を吸うときにもそのようにするが、今はそれが目的ではない。香りの正体を突き止めようとしているようだ。動揺して瓶を取り落としてしまったが、幸いにもそれは柔らかなソファの上に落ちたので無傷だった。
「龍涎香か。確かに、君にしては奮発したね」
「分かるのか? さすがに博識だな」
 何百年と生きているだけのことはある。感心してそう言うと、どことなく得意気な顔のロクスブルギーが訊ねてきた。
「――君は、鯨を見たことがあるか?」
「いいや、実物はない」
 海の傍に住んでいたこともあるが、狭い内海であったので、残念ながら鯨を見ることはなかった。そうかと頷いて、ロクスブルギーはどこか遠くを見るような目で話し始めた。
「鯨という生き物はとても大きいが、ひどく繊細でもある。海の中に棲んでいるのに、海水以外から水分を摂らないと生きていけない。皮膚は乾燥に耐えられず、海から離れれば、自身の重みで内臓を潰してしまう。だから、陸にはほとんど上がることができない。彼らと僕らは、少し似ている」
 『吸血鬼ドラクル』もまた、比類なき強さの生き物である。しかし陽の下では皮膚が爛れ、夜がなければ安らかに生きられない。不便な身体のもの同士、思うところがあるようだ。ロクスブルギーが、他の生き物に対してこのように憐れみを向けることは珍しいことだった。
「沖に鯨を見つけると、時が経つのも忘れて眺めてしまうことがあった。今思うと、僕はそのとき嬉しかったのだろう」
 漂った甘い香りが、ある情景を想像させる。月がぽっかりと浮かぶ夜の海岸を、ひとりで彷徨う吸血鬼と、遠い沖合いを泳ぐ鯨。両者の距離は遠く、言葉すら交わせはしない。それでも、微かな繋がりを感じて、彼は鯨を眺めていた。一時でも、孤独を安らげるために――
 不意に、身体に重みがかかる。ロクスブルギーが寄りかかって、体重を全てこちらに預けていた。彼は目を瞑って、満足気に微笑む。
「気に入ったよ。香りが強すぎると『食事』の邪魔になるが、これくらいならいい。美味しそうだ」
 その言葉に、思わず口を引き結んでしまう。龍涎香は香辛料としても使われるとのことだったが、正しくその意味で機能することになろうとは。今晩は『食事』の約束の日ではないのだが――ひと口ほどは、覚悟をしておく方が良いかもしれない。

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