自分の知る限り、吸血鬼ロクスブルギーが身だしなみのための特別な何かを用意しているのは見たことが無かった。無頓着だと言いたいわけではない。特段こだわりがあるようには見えない、という意味だ。だから身体を洗う石鹸も、服を洗う洗剤も、全てこの家に元々あるものを一緒に使っている。しかし、彼がここへ住まい始めてから、この家のものではない香りがするのだ。
その微かな花の香りは確かに、ロクスブルギーから感じられた。ここへ来るときには私物だってさして持ってはいなかったはずだが、香水でも使っているのだろうか? 些細な疑問ではあったが、一度それを意識すると気になって仕方がなかった。
「……で、君はさっきから何をしているんだ」
その香りの正体が気になったのと暇だったのとで、無心になってロクスブルギーの長い髪を櫛で梳かしていると、彼が半眼になって問いかけてきた。気持ちは分かる。おもむろに隣に座ってきて無言で髪を梳かしてくる同居人の姿は、まあまあ不審だろう。いかにこの貴い吸血鬼が身の回りを世話をされるのが好きだと言っても、意図が見えないまま好き放題に自分の髪に触れられるのは看過できなかったらしい。説明をせよと言いたげなロクスブルギーに、まずは悪意はないということを伝えなくてはならない。
「いや、香水の香りが気になって」
「香水……?」
「違うのか? ずっと花の香りがするが……」
合点がいかなそうに首を傾げる、吸血鬼の長い髪を一房持ち上げて顔に近付けると、やはりその香りがする。この香りの元が彼であることは間違いがなかった。花の香りの奥に、金属のような匂いが混じっているような――それは孤高に生きてきたこのひとに良く似合う香りだった。この美しい顔に、どんな化粧も施したとて余分になり得るが、このさりげない花の香りは、ほどよく吸血鬼を飾り立てている。もしもこの香水を調香した職人がここにいたら、称賛の言葉を贈りたいほどだ。
「……ああ、なるほど」
ややあってから、ロクスブルギーはそう言って自らの手の甲に牙を突き立てた。噛み痕から血が滲み出てきて盛り上がり、彼はそのまま、その手をこちらに近付けた。
「この香りのことではないかな」
促されるまま香りを嗅ぐと、その深い赤色の血からは先程よりも強く、微かに鉄錆の混じった花のような、あの香りがした。
「血の、匂い?」
「僕からすると、気にも留めないものだから気が付かなかった」
ロクスブルギーは手を引っ込めて、反対の手の指で噛み痕を撫でる。するとはじめから何もなかったかのように、跡形もなくその傷は消え去った。花の香りだけが、あたりに漂っている。
「この血が何百年も身体中を満たしているから、匂いが漏れ出ているんだろう。気に障ったかな?」
「まさか。どんなセンスの良い店で買ったのかと思ったくらいだよ」
「そう」
目を細めてそう言ったあと、吸血鬼はこちらの手を取った。白い指が手の甲の上を滑ると、先程拭い取った血で何かの図形を描き始めた。掠れながら描きあがったそれは、薔薇の花に似ていた。
「できた。……なかなか良いセンスだ、君も」
心なしか満足そうに――ロクスブルギーは微笑んだ。
「カウフマンさん、最近香水してるのね」
「は?」
数日後、定時報告のために教会へ向かうと、資料を受け取ったシスターがそう言った。確かに、時々――何かしらの催しがある時には――することもあるが、最近は特に覚えがなかった。こちらが不可解そうな顔をしていると、いつの間にか周りに数名のシスターが近寄ってきていた。
「あらほんと。いい香り」
「上品な感じね。ちょっと意外」
「今度はどこの人を口説くつもり?」
「人聞きの悪いことを言うな。ほら、散れ散れ!」
笑いながら、彼女らは再び各々の仕事に戻っていった。シスターというと、世間の人たちはとてもお堅い印象を抱いているようだが、街角を歩いている娘と何ら変わらない。いつだっておしゃれと恋の話が気になっているのだ。
ところで――
「香水……?」
人通りの少ない廊下で立ち止まり、自分の身体のそこかしこを嗅いでみると、覚えのある香りがした。吸血鬼の身体を満たしている血の、あの香りだ。シスターが言うには、最近この香りがずっとしていたらしい。――不意に、満足そうに微笑む彼の顔が脳裏に浮かんだ。
――なかなかいいセンスだよ。
「……そういうことか……」
手の甲を顔に近付けると、未だに一際鮮明に――香しい、薔薇と鉄錆の香りがしていた。
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