母が亡くなったのは五歳の時。その三年ほどの後、父もこの世を去った。もはや両親がいなくなってからの人生の方が長くなって、彼らとの思い出は古ぼけた本の掠れた文字を辿る様に困難だった。
父は、仕事人間であった。しかし常に気を張っているということはなく、好きなことにひたすら打ち込んでいるというような様子だった。目新しいものや珍しいものが好きな父にとって、貿易商という仕事は天職だったのだろう。珍しい骨董などのことになると、止まらないほど饒舌になる父に、母は大概呆れていた。――それでもなんだかんだと、彼を愛していたのだろう。機嫌良く話を続ける父の傍らにいた母は、いつも困ったように微笑んでいたような、そんな記憶がぼんやりとあった。
商家に生まれたわけではない父は、代々商売を続けているような人たちと比べると、圧倒的に横の繋がりがなかった。父は少しでも商機を広げるために、方々の知り合いにまめに手紙を書いていた。それこそ、夜を徹して。薄く灯りの漏れる父の書斎の扉を開けると、机で書き物をしている父の姿が、小さな燭台に照らされていた。しばらくそれを見ていると、父はこちらを見もせずに穏やかな声で、早く寝なさいと咎めてきた。生意気な子供だったので、お父さんだって夜更かししてる、と反論した。父は確かに、と言って笑った。雰囲気が和んだところで、書斎に踏み入った。普段は母に、仕事の邪魔をしないのよと言われてあまり入れなかったので、この時は母が寝ていて良かったと思ったものだ。
机に近付くと、したためた手紙が何通も置いてあり、父の手には万年筆が握られている。琥珀色の軸が、燭台の灯りに照らされて輝いている。キャップやクリップ、そしてニブに至るまで繊細な手彫りが施されているそれは、子供の目から見ても美しく、かなり値の張るものであろうことが理解できた。やや遠慮がちにそれを指さしながら、持ってみてもいい? と訊ねた。父は頷いて、その万年筆を手渡してくれた。どきどきしながら万年筆を手に取ってみると、普段自分が字を書くのに使う鉛筆よりもずっしりと重くて、そして手に余るほど大きかった。無言で差し出された紙の切れ端にそっと線を引くと、ペンの先が紙の表面をかりかりと進んでいく感触が伝わる。黒のインクは書き始めた方から順に乾いていき、その微妙な濃淡の違いが新鮮であった。
すごい、と何に対してか曖昧な賞賛の言葉を述べると、父は笑いながら、こう言った。
「仕事で成功したかったから、その万年筆を買ったんだ。成功した後の自分が、それを持って大きな契約の書類にサインをしている、格好良い姿を想像しながらね――母さんには、ペン一本にいくら使うのかって、怒られたけど」
母のその様子が容易に想像できたので、思わず笑ってしまった。そのあと、さらに父はこう続けた。
「でも、これがあったから仕事がうまくいったと、信じているんだ。いつか、お前がこの仕事を継いでくれるなら、この万年筆も、一緒に託そう」
「ほんと?」
「ああ。これは私――我が家にとって、成功と幸運のお守りだからね」
父は微笑んで頷いた。手に持ったその万年筆を見ながら、遠い未来に思いを馳せた。
自分の船が、遠い異国まで渡ってゆき、その風とたくさんの品物を積みこみながら、またこの国に戻ってくる。そんな、未来を。
――そうだ。あの時は順当に、父の跡を継いで貿易商になりたいと思っていた。
自室で報告書を書きながら、そんなことを思い出していた。今握っている万年筆は、自分で買ったものだ。父の持っていたそれに比べると、価値としては遥かに劣る、ごくごく簡素なものだ。しかし、もう何年も使っているから随分と手に馴染み、これがないと書き物が捗らないほどである。こんなに長く使うことになるのなら、最初からもう少し吟味して、洒落たものを選んでおけば良かったような気もするが、もはや後の祭りである。銀色の軸はすっかりくすんでしまい、鈍い輝きを放っているが、何の問題もなく使えていた。
確認していないが、父の万年筆はきっと、遺体と一緒に焼けただろうと思う。父は商売が絡むときにはいつも、肌身離さずあの万年筆を持っていたからだ。あの日も当然、懐に持っていたに違いないのだ。幸運の象徴は、最後の最期に父を守ることはなかったが、こうして自分が後を継がなかった以上、父の元にあるほうが相応しいと思った。
あの琥珀色の美しい万年筆は、父の人生によく似合っていたと思う。見栄っ張りな一方で、相応の努力家でもあった。あの万年筆を持つべきは、存在したかもしれない未来で商売に精を出していたであろう華やかな自分であって、決して今の自分ではないからだ。
不意に、部屋の扉が慎ましやかに叩かれる。返事をすると扉が細く開いて、同居人――吸血鬼だが――がやってきた。少しばかり渋い顔をして、手には紅茶の注がれたカップを持っている。
「少し休憩するほうが良い」
部屋に閉じこもってから、何時間かが経っていた。仕事が多かったというよりは、物思いに耽っていて筆の進みが遅かったということの影響が大きいのだが、それを知らない吸血鬼は仕事に根を詰めすぎていると思ったのだろう。日中は寝ていることも少なくないが、わざわざ休憩を促しに来てくれたようだった。カップを机の上に邪魔にならないように置くと、吸血鬼は人のベッドに遠慮なく横になって、差しこむ薄い日差しすら厭うように隅に縮こまりながら話し出した。
「君、じきに誕生日だそうだね。何かプレゼントしようか」
「ああ――そんな時期なのか」
紅茶のカップに口をつけながら、そういえば、と思い出す。これまで、誕生日を祝われることは少なくなかったはずなのだが、どうにも毎回その場限りの愛想笑いを浮かべていた気がして、あまり印象に残っていなかった。
「万年筆はどうだい。なかなか年季が入っているじゃないか、今のそれは」
机の上に置かれた万年筆を指差しながら、吸血鬼が提案した。
「……いや、万年筆はいい。まだこいつが使えるからな」
「そうか。では、何か違うものを考えよう」
眉根を寄せて小さく唸りながら、吸血鬼は別の案を考え始めた。結局のところ、そのプレゼントは自分が買うことになるのではないか、ということに気付いてはいるが、その気持ちが嬉しいので言わないでおく。何を選んでくれるのか、楽しみにしておくことにしよう。
改めて、自分の万年筆を手に取って眺める。飾り気の無い、鈍い銀色。ただひとつの願いだけを叶えるために進み続けた自分の傍らにあったもの。その道程を描き続けてきたもの。愛想の欠片もないほど、ただひたむきに、書くというその役割を果たしてきたそれは――自分の人生によく似合っているような、そんな気がするのだ。
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