吸血鬼ロクスブルギーが街へ出かけるのは、大抵日が暮れてからだ。昼夜を問わず労働に勤しむ同居人――もっと楽な仕事に就けと何度も勧めている――が留守の間、日用品や食材の買い出しに行くのが、暇つぶしのひとつであった。
そんな暇つぶしの帰り道、吸血鬼は声をかけられた。
「もし、そこの方」
大通りを垂直に横切る細い路地を少し入ったところに、粗末な出店のようなものが立っていた。そこには目深にフードを被った老女がひとり座っており、カウンターにはおそらく水晶でできているのであろう球体が置いてある。吸血鬼は、これが何か知っている。いわゆる占い師という人間だ。彼らには運勢を占ったり、未来を見通したり――そういった特殊な能力があると信じられているが、実際のところは分からない。ロクスブルギーは占いに懐疑的である。しかし、致命傷を何度受けても死なないという冗談みたいな生き物が存在するのだから、そんな特殊な能力のある人間がいても別にそう驚くことではないかもしれない。ともかく、ロクスブルギーはその老女の方へ向き直った。老女は、枯れ枝が風に揺れるような覚束なさで手招いた。
「不穏な気配が付きまとっています。詳しく見せてください。さあ」
適当な誘い文句だなと思いつつ、好奇心が旺盛な吸血鬼はわざわざその出店の方へと足を運んだ。もし本当にこの老女が特殊な能力を持つ人間だったとしても、なにも問題はない。吸血鬼は人間との間のトラブルに対して、いくつも取りうる手段があるのだから。
「それで? どうやって僕に付きまとう不穏を明かしてくれるのかな」
「心を静め、この水晶の中をご覧ください。貴方の抱えている不安、恐れ……そういったものを映し出すことでしょう」
言われたとおりに、吸血鬼は水晶玉を見つめる。何の変哲もない、透明な石英の玉である。一体これを覗いて、何が見えるというのだろう? 疑問に思いながら眺めていると、老女は水晶玉にこれでもかと顔を近づけて手をわなわなと震わせた。
「おお……おおお……」
もしこれが演技やフリだとしたら大したものである。何かを見つめている、真に迫ったその様子に期待――良い方にも悪い方にも――が高まる。
「貴方につきまとうもの。それは、過去。過去の貴方の行いが、今の貴方を追いかけ、追いつめようとしています」
「ほう」
それはひとつ、もっともな意見だった。過去に道を違えた同胞からは怨嗟のごとく恨まれているし、互いに死なない以上、この先どこかで出会う可能性は常にある。出会うたびに血の雨を降らせることになる――そんな未来に嫌気が差しているのは事実だ。
「貴方は、今の生活をとても大切にしていますね。過去に追い立てられることを嫌い、静かに暮らすこと望んでいる」
「……そう、安らかな生活こそ僕の望みだ」
「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも。しかし、口で言うのは易くとも、それを続けていくのは難しいこと。――ですので、こちら」
不意にどん、と重い音を立てて、カウンターにそれなりの大きさの壺が置かれた。いったいこの老婆、いつそのような動きをしたのだろう? 想像以上に機敏に動いたらしい老婆は、これまでと打って変わって早口で話し始めた。
「こちらの壺は幸運を齎す泉の女神の神器を模して造られた『しあわせの壺』にございます! 模造品と言いましても、偽物ということではございません。壺の原料には女神の住まう泉の底から掘り出した土を練り込み、その加護を凝縮しているのです。こちらをお求め頂ければ、絶え間なく泉が湧き出るかのような幸運をお約束いたします!」
途端に胡散臭くなった話を聞きながら、吸血鬼は顔を顰めた――
「――いや、今のは買わずに帰ってくる流れだろ!」
一通り話を聞き終えた家主の人間は、割合大きな声でそのように叫んだ。玄関先に独特な風合いの壺を置き、その横に佇んでいるロクスブルギーは悪びれた素振りもなく言った。
「別に与太話を本気で信じたわけじゃない。幸運に恵まれるなら良し、そうでなければ置物として活用すればいいだけのことだ」
「詐欺師を喜ばせてどうするんだよ……」
それなりの大きさの壺は、花を飾ろうと思えばかなりの量の花が必要になる。常にそのように保っておくのは骨が折れるだろう。もっとも、泉を思わせるティールブルーに、どことなく民族調の幾何学柄が施された壺は、何を飾らずともそれ自体が飾るに値する――限りなく前向きに考えれば、だが。
「……まあ、アンタが生活の傾くほど無茶苦茶な浪費をするとは思ってないから、好きなものを買えば良いけどさ……」
どうせならもっと有意義なものにすればいいのに、と家主はぼやいているが、吸血鬼にとっては、それなりに意義がなくもない買い物だった。
静かに暮らしたい。少なくとも、共に暮らす彼が、安らかにその命を終えるまで。どれだけ長く見積もっても、あと六十年ばかりがせいぜいだ。なんて短い、一生なのだろう。彼がいなくなった後のことを思えば、あらゆる意味で憂鬱になろうというものだ。
この安らかな今を、一分一秒永らえるためなら――たまには胡散臭い占いを信じてみるのも悪くないだろうと、そう思ったのだ。
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