無益と無味

「――無益だ」
 夕暮れ時の喫茶店で、向かいの席に座る吸血鬼がそう呟いた。何の前触れもなく放たれた言葉に少々面食らいはしたが、このひとが突拍子もない話を始めるのはそう珍しいことではない。落ち着いて、温かい紅茶を一口飲んでから訊ねる。
「何がだ? まさか友人と過ごす時間が無益だなんて、そんな寂しいことを言ってくれるわけじゃないだろうな」
「無論、そうじゃない。僕と、この食べ物のことだ」
 そう言って彼は手に持ったサンドウィッチを示した。ふんわりとしたパンの間に、瑞々しいキュウリがたっぷり挟まっている喫茶店の定番メニューである。吸血鬼には人間同様の食事は必要無いが、人間社会に溶け込むため、あるいは自身の娯楽の一環として、血液以外を摂ることもある。
「$[ruby 胡瓜 フーグァ]はほとんどが水分で、重要な栄養素は少ない」
「胡瓜――キュウリのことか?」
 時々、彼は聞いたことの無い言葉を口にする。彼の生まれ――と表現するのが正しいのかは分からないが――である、東の方の国の言葉らしい。
「そうだ。とにかく胡……キュウリは生き物の生存には必要の無い、意味の無い食物といえるだろう」
 しげしげとサンドイッチを見つめて、彼は更に自問自答のように語る。
「それを、吸血鬼ぼくが食べている。これほど無益に無益を重ねることがあるだろうか」
 おそらく、サンドウィッチを食べながらそのようなことを考えるのはこのひとくらい――あるいは吸血鬼は皆そのように考えるのかもしれないが――だろう。家で退屈そうにしていたので気晴らしに外出に誘ったのだが、気が晴れているか分からない小難しい話が始まってしまった。どうしたものかと思いながら、そのサンドイッチを一切れ皿から取り頬張った。口の中に独特の香りが広がり、ぱり、と小気味良い音を立てる。その食感からキュウリの鮮度が高いこと、そして提供する店が食材の選定に心を砕いているだろうことが窺えた。
「ん、うまい」
 自然と零れた感想に、吸血鬼が反応する。
「ほう、美味い? 君が考えるキュウリの良さとは、一体どんなところだ?」
 キュウリの、良さ――? これまでの人生においてそんなことは考えたことが無い。好きか嫌いかは、個人の好みだから答えることができる。しかし、客観的にその良さが何かと尋ねられるのは、少々困った。キュウリはキュウリである。急に振られた難題に顔が強ばるが、答えないわけにもいくまい。孤立無援の、キュウリの名誉はここで守らねばならないだろう。そんな謎の使命感に駆られながら、懸命に頭を働かせる。
「そうだな……まず食感が良いかな。それから、生のままでも食べられること。水分が多いってことは腹の足しにもなるし、別に栄養も全くないってわけじゃないだろ」
 なんということだ。こんなにも陳腐な言葉しか出てこないとは。思いつく限りの言葉で、キュウリを褒め称えるが、力不足を感じざるを得なかった。とにかく、人間も単に栄養を補給するためだけに食事をしているわけではない――そう説明すると、ロクスブルギーはなるほどと頷いて、神妙な顔でもう一口それを口に運んだ。ピークの時間を過ぎた喫茶店は人もまばらで、隅で静かに語らう二人組を注視する人はいない。遠慮なく口を開いてサンドウィッチを頬張り、ぽりぽりと音を立てて咀嚼し、味わい、飲み込んで――目を伏せた。
「……味が、しない……」
「キュウリ農家に怒られるぞ……」
 今日の知見――吸血鬼ロクスブルギーは、キュウリがあまり好きではないらしい。

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