雨が、降っていた。春が終わり、夏へと移り変わる途上の季節。空はもう三日ほどもぐずついていて、しきりに雨が降ったり、はたと止んだかと思えば、また降り出してを繰り返していた。これは参った、と男は頭を搔く。畑の作物の根腐れが気がかりなのだ。とはいえ、お天道様に何か訴えられるはずもない。仕方無しに家の中で書を広げ、曇天の薄明かりを拾って学問に励んでいた。学問で身を立てることを諦めた後も、晴耕雨読の日々を送っている。
じき夕餉の頃合だ――そんなとき、微かに戸を叩く音が聞こえた。ややもすれば、雨音に混じって聴き逃してしまいそうなその音を、幸か不幸か、男は耳にした。はて、こんな時間――それもこの長雨の中――に、訪れてくる客人の心当たりは無かった。よもや物盗りではなかろうなと、おそるおそる男が戸に近寄ると、もう一度戸が叩かれた。
「ごめんくださいませ」
その音と共に聞こえてきたのは、若い女の声である。鈴の鳴るような澄んだその声は、男の警戒心を解かせるのに十分であった。男は戸を細く開け、外を伺った。
降りしきる雨の中に佇んでいたのは、声の主であろう若い女と、そして同様に年若い青年であった。二人はところどころ綻んだ粗末な着物を纏い、雨除けに襤褸布を被りながら、身を寄せ合っていた。驚いたのは、その二人の美貌にである。草臥れた着物に身を包んでいてもなお、どこの宮廷の貴人であろうかと思うほどだ。男は、濡れそぼった客人たちに慌てて声をかけた。
「どうしました。こんな日和に、若人が連れ立って」
「故あって、わたくし共は放浪の身なのです。束の間、雨を凌がせては頂けませんか?」
男は、客人たちに対してこんな想像をした。この男女はなんらかの、本人たちにはどうすることもできない事情――たとえば家同士の関係など――で周囲に交際を認められず、手に手を取って駆け落ちをしてきた。そうであれば、納得もできよう。ともあれ、男は多少の疑いは持ちつつも、この哀れな客人たちに軒先を貸してやることとした。
「ええ、構いませんとも。さ、おあがりなさい」
そう言って、男が戸を広く開けて招くと、女はほっとしたように顔を和ませて、青年の手を引いて家の中に入ってきた。火を熾した炉の前に彼らを座らせ、温かい茶を淹れてやる。暖を求めるように杯を両手で包みながら、女はそれを一口啜った。
「まあ、なんて香ばしい。それに身体が芯から温まるようです」
花の綻ぶが如く、その美しい顔に少女のような笑みを浮かべて、女はそう言った。対して青年は寡黙で、黙々と茶を飲んでいる。
「それは良かった。ちょうど夕餉にするところですから、少し待っていてください」
「わたくし共もお手伝いします」
女がそう申し出て立ち上がったが、頭のてっぺんから爪先まで濡れた彼女の纏う布が透けている――身体の線や、桃色の乳輪すらありありと分かる――ことに気付いて、慌てて顔を逸らした。
「あ、ああ、その前に、どうぞ着替えてください。私の着物を、お貸ししますから」
二人分の着物――努めて、状態の綺麗なもの――を取り出して二人に渡し、申し訳程度の衝立を立てて、男はそちらから目を背けた。一人住まいの質素な家には、気の利いたものはあまり置いてない。衝立の向こうから二人分の衣擦れが聞こえ、いつぶりにか男は変にどぎまぎした気持ちになった。
しばらくして、変わらず質素な――しかし擦り切れていないだけ整って見える着物を纏った客人たちが現れた。別に男はひとりで夕餉の支度をしても構わなかったのだが、女が強情に手伝うと言ったので、頼むこととした。あれやこれやと下知をしてみたが、意外にも彼女らは手慣れた様子である。放浪して長いのだろうか。そんな考えが頭を過ぎった。
炊いた米と、濃い目に味付けをした豚の肉と野菜。きわめて庶民的な夕餉を彼女らが気に入るかどうか、男はそわそわとしていた。しかしそれは杞憂だったようで、女も青年も、饗された食事を残さず平らげた。片付けも済み、夜が更ける頃になっても、雨は降り続いていた。客人たちが物憂げに外を眺めているので、男はつい、こう言った。
「何日か、ここへ留まっても構いませんよ。あまり豪華なもてなしはできませんが」
「ご親切に、ありがとうございます。……それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」
女と青年がさりげなく手を繋いでいることに気が付いて、思わず下世話な想像をしてしまった。彼女らが恋仲であれば、そのようなこともありえるかもしれない――そこまで考えていなかったと男は少し後悔しながら、自分と、彼女らとの間に件の衝立を立てて、夜を過ごすこととした。
――男が想像したようなことは起きず、朝が訪れた。雨はまだ降り続いていて、さすがに客人たちが退屈であろうと、読書を進めた。この家には、他に暇を潰すようなものが無かった。
「退屈でしょう。書は、嗜まれますか?」
彼女らは顔を見合わせて緩く頭を振った。
「あまり、触れたことはありませんね」
「そうですか。では、図録などはどうでしょう」
そうして、一冊の図録を棚から引っ張り出し、彼女らの前に置いた。それなりに大きさがある書物の頁を捲ると、細筆で緻密に描きこまれた植物の図に、解説文が添えられている。彼女らは物珍しそうにそれを覗き込み、黙々と読み進めていった。時折、女は楽しそうに青年の服の裾を引っ張り、小声で話しかけている。青年はというとやはり寡黙で、一言二言をそれに返すだけだが、二人の関係は特別なものであると考えるのには十分であった。男は一抹の物寂しさを抱えつつ、自分の学問に励むこととした。
雨の一日は、そうして平穏に暮れていった。朝昼晩と三人分の食事となると、目に見えて食材の減りが早かった。それを気にしているのか、彼女らはあまり量を食べない。気にせず食べるように勧めたが、客人たちはそれを固辞した。
――夜もすっかり更けた頃。いつもはそのようなことで目を覚まさないのだが、しとしとと雨の降る音で、男は目を覚ました。すると、すぐ傍らに女が座っていた。思わずあっと声を上げて飛び起きた。衝立の向こうで青年が眠っていることを思い出して慌てて口を覆ったが、女はさして気にする様子もなく微笑んだ。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「あ――いえ、雨音が少し、気になって」
そう返すと、女はそうですか、と返してから膝を寄せてくる。
「思いがけず、長くお世話になってしまいました。……そのお礼がしたくて」
更に女が近寄ってくる。寝間着の緩く結んだ帯が解けかけ、豊かな胸が今にも零れそうである。男は、女の言わんとすることを察して、肩を掴んだ。
「れ、礼など、私は気にしませんから。いけません、そのような――」
衝立の向こうに視線を向ける。青年が起き出してくる気配は無い。女は狼狽する男の手を取り、自分の寝間着の中へと差し入れ、豊かな胸に押し当てる。その、女体特有の柔らかさに、心臓が跳ねた。
「……あの子は、弟です。家主様の想像されているような間柄では、ありませんよ」
女の声が、甘美な毒のように鼓膜を擽る。彼女らは、恋仲ではなく姉弟だという。であれば、彼女とどうなったとて、何の咎めもないのではないだろうか。男は確かに、静かに欲情していた。家の中を漂う甘い匂いは、長らく男には縁のなかったもので、しかし男が変な気を起こさなかったのは、彼女と、連れの青年は恋仲なのであろう、その関係を乱すような行為は甚だ不義であると考えていたためである。しかし――今、男の前には誰のものでもない、恐ろしいほどの美貌の女がいる。
おそるおそる、女の胸を揉みしだく。吸い付くような柔らかい身体だ。女は微かに身じろいで吐息を吐いた。窓から差し込む、ごく薄い月明かりの下で、女の着物を剥ぎ取ると、傷ひとつ無い陶器のような美しい裸体があらわになる。女が、艶然と微笑んだ。
「……来て」
男は、二度目の拒否はしなかった。女を布団の上に組み敷いて、反り勃ったものを女の秘部に深々と沈めた。長雨でじっとりと重たく湿気た空気の中で交わりながら、女が吐息交じりに言う。
「……もうひとつだけ、お願いをしても良いですか?」
「なんでしょう」
女の白い腕が伸びて、男の身体を抱き寄せる。雨の降りしきる音の合間に、異様なほどはっきりと、女の声が耳に届いた。
「あなたの――血をくださいな」
え、と男が問い返す間もなく――首筋に鋭い痛みが走る。女が、そこに噛みついている。鈴の転がるような声を発するその口を大きく開け、獣のような牙を突き立てて、ごくごくと喉を鳴らして彼女は血を啜っていた。振り払おうとするが、彼女の細い腕は異常なほどの強さで身体を捕らえて離さない。血が抜けていく感覚と同時に、脳裏に、交尾の果てに雌に喰いつくされる虫の姿を思い浮かべた。
身体に力が入らない。しかし、次第に不思議な高揚感で満たされていった。ふわふわと宙を浮いているような心地になって――男は女の中で果て、そのまま意識を失った。
――空が薄明るくなった頃、青年は布団から起き上がる。眠っていたわけではなかった。人間と共に過ごすときは、暗くなったら横になるようにしないと不自然だと、姉――厳密にはそうではない――が言うのでそのようにしている。その姉はというと、一糸纏わぬ姿で家主の布団に横たわり、力なく四肢を放り出して動かない家主をしきりに撫でていた。青年は深々と溜息をついて、彼女に声をかけた。
「――毎度思うのだけれど、『食事』のたびにまぐわう必要があるのか?」
「いいえ? だけど人間は喜んでくれるでしょう? その方が血がおいしくなるから」
全面的には同意しかねるといった風に、青年は眉を顰める。
「……殺していないだろうね。君は時々、飲みすぎる」
「もちろん。気を失っているだけよ。あなたも頂いたら? 棘梨。しばらく血を飲んでないでしょう」
そう女に指摘され――棘梨と呼ばれた青年は喉元に手をやる。確かに、喉は渇いていた。彼らの喉の渇きや餓えは、人間の血によってしか、本質的には満たされることがない。だから、時折こうして人間に接触して血を吸っている。彼らは、『吸血鬼』と呼ばれる、人ならざる存在である。死と老いを超越した、不滅の化け物。年若く美しい人間の姿をしているが、彼らはもう何十年も生きていた。
青年は、倒れている家主の傍に屈んで、項垂れている彼の腕を持ち上げ、太い血管の通っているところに噛みついた。小さく喉を鳴らして、ほどなく青年は男の腕を解放する。女は目を丸くして問いかけた。
「もういいの?」
「いい。君に吸われるのは本望だろうが、僕にまでは本意じゃないだろう、彼も」
青年は立ち上がり、窓辺に近寄り外を伺う。雨は止んでいたが、依然として曇天が広がっていた。じき、また降り出すかもしれない。だが、それでいい。彼らにとって、日差しの下を歩くことは拷問の如き苦痛に等しいからだ。曇っていれば、幾分かはましである。ようやく女も起き上がってきて、服を着た。家主の貸してくれた服は、彼女には少し大きい。
「次はもう少し大きな町に行きましょう。わたくし、綺麗な服が欲しいの」
「そんなもの、どこに買う金があるんだ?」
「なぜ買うの? 貰えるでしょう?」
心底不思議そうに女が首を傾げるので、青年はまた溜息をついた。姉を自称するこの吸血鬼の女に、何を言っても無駄である。彼女は人間社会の在り様を知識として理解してはいても、それに倣う気は基本的に無い。
「……好きにしてくれ。僕は静かなところが見つかればそれでいい」
「本当に陰気なんだから。それじゃ、行きましょう。陽が翳っている間にね」
そう言って、女は跳ねるように、軽やかに外へと出ていく。一晩抱き合った、血を吸った男のことはもう頭の片隅にもないようだ。青年は外へ出る前に、借りた布団を片付け、家主の乱れた寝床を多少整えてやった。男はまだ気を失っているが、食事を摂って健康的に過ごせば、活力を取り戻すだろう。――あとは、どうか彼女のことは悪い夢として忘れてくれることを祈るのみだ。
外へ出ると、人気の無い道をやや進んだ先で、女が手を振っている。特別、彼女と共にいることにも理由は無かった。ただ、同じ『吸血鬼』だから。偶然出会った同胞だから、なんとなく共にいた。そのうちに、理由もなく別れるだろう。
歩き始めると、再び雨が降り始めた。霧のように細かい雨が、煙のように視界を奪う。元来た道はもう定かでなく、向かう先も分からない。それでも、身体が朽ちない以上、前に進むほかはない。
この魂が安息を得られる場所へ、いつか辿り着くために。
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