1.月下のソリスト

 乾杯、という声とともに、ガラスの触れ合う音が慎ましやかに響く。雲ひとつない晴れ渡った夜空の下、広々としたバルコニーに設けられた一席で、紳士と淑女は向かい合って微笑みを交わし、葡萄酒のグラスを傾けた。一口を口に含んで一拍置いたのち、紳士はうっとりとした口調で呟いた。
「貴女のために、最上級の葡萄酒を用意させました。お口に合えば良いのですが」
「まあ、嬉しい。とても美味しゅうございます」
 ころころと淑女が微笑む様子を見て、紳士は確かな手応えを感じていた。古来より、適度な酒は緊張感を解し、相手とのコミュニケーションを良好にするための助けとして利用されてきた。事実――紳士はこれ以上ないほどに緊張している。意中の女性が、暫くぶりに食事を同席してくれることになったからだ。彼にとって、彼女の発するこの第一声はどんな政治的な物事よりも重要であった。ひとまずは、上々の結果を収められたことに安堵しながら、礼を失しないように、また下卑た視線だと思われぬように注意深く斜め四十五度の淑女の姿を見つめた。
 赤みがかった、魅惑的な紫水晶の瞳。月光のように柔らかな白金の髪は、空想上の女神のそれに似ている。今まで出会ったどの女性よりも美しく、品性を感じる立ち居振る舞いはまさしく淑女のそれでありながら、微笑んだ顔は少女のようにあどけない。そんな不思議な魅力に満ちた彼女を射止めることに、紳士は執心していた。そして彼は今日、贔屓の醸造場から一番良い酒を取り寄せるだけではなく、もうひとつ、彼女と親しくなるためのとっておきの手立てを用意していた。
「時に――観劇などはお好きでしょうか?」
「劇?」
 やや唐突な言葉に、淑女は小首を傾げた。性急な誘いだったか――と紳士は少し後悔したが、一度口から転がり出た言葉を撤回することはできない。こうなれば情熱の赴くまま、懸命に語るしかあるまい。彼は懐から、美しい箔押しの施された封筒を取り出し、その中に収められた、一枚の長方形の紙を彼女の前に差し出した。それは舞台演劇のチケットで、大きく演目名が書かれている。

 ――『シャグラン・ダムール』

 目の前に置かれたそのチケットを、淑女はしげしげと眺めた。紳士はひとつ咳払いをして、得意気に語る。
「隣国でとても人気がある演目なのですが、こちらでも公演が決まり話題になっているのですよ」
「まあ、そうなのですね。……このチケット、私が頂いてしまって良いのですか?」
「勿論です。私も、友人の伝手で融通してもらいましてね。なんでも、今回の公演の主演は大層な美男子だそうで……余計にチケットを取るのが難しくなってしまったとか」
 紳士は苦笑いしながら、それを手に入れるのにどれだけの苦労があったのか、自分がいかに有力な著名人との繋がりを持っているのかという、己の魅力――彼が考え得る理想の男としての――をつらつらと語り始めた。チケットには、演目と共に主要な俳優の名前がいくつか書かれている。淑女はそれを順に眺め――そして微かに目を見開いた。しかし、熱弁を振るう紳士は、残念ながらそれに気付くことはなかった。
「それでですね、どうでしょうか――是非今度いっ」
 紳士がその先の言葉を発するよりも早く、淑女は満面の笑みを向けて身を寄せ、彼の手を両手で握った。
「貴重なチケットをありがとうございます。観に行くのが本当に楽しみ!」
 柔らかな掌の感触に包まれて、勢いに押された男がはい、それは良かったと狼狽えながら返事を返すと、そそくさと淑女は立ち上がって優雅に一礼する。
「あ、ごめんなさい。予定を思い出したわ。それでは、ごきげんよう」
「え⁉ あ、はい⁉」
 紳士が立ち上がりかけた時には既に――淑女はバルコニーを離れて遥か彼方にいた。いったいどんな速さで歩いて行ったのか、そんな疑問を持つ暇もないほど紳士は茫然として、小さくなっていく背中を見送った。

 淑女は黒のレースで彩られたドレスの裾を翻しながら、軽やかに夜の街を闊歩する。すれ違う男たちは振り返り、薔薇の残り香に胸を掴まれる。しかしその影は決して、誰にも捕まることはない。彼女はこの世界で最も自由な女であった。彼女は先程「貰った」チケットを取り出し、月の光に翳しながら再度眺めて、小さく微笑んだ。

「さあ、今回は――いったいどんな姿を見せてくれるのかしら?」

 その顔はあどけない少女のようでもあり、妖艶な美女のようであり――また、慈しみ深い母のようなものでもあった。

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