祖父はよく言っていた。服は人の在り方を示すのだと。
こう見られたいだとか、こうありたいとか、なりたいだとか。そういう、秘密の願いの現れなのだと。
だから僕は、放っておけなかったのだ。
あの日、自分なんてどうなったって構わないのだと、その身一つで物語っていたあの子のことを。
---
けたたましい目覚まし時計の音。目を擦りながら、ベッドから起き上がるのにも体力がいる気がしてくる。時の流れは残酷なもので、誰よりも早く軽やかに起き出して、待ち切れずに遊びに繰り出していく、そんな少年時代は長くない。鏡を覗き込めば、二十代も半ばを過ぎ、生活に疲れてきたような冴えない男の顔。――いや、疲れたのは生活にではなくて、昨日農家のおばちゃんの、麦の刈り取りを手伝ったせいだ。絶対。
普段使わない筋肉という筋肉が悲鳴を上げているのを感じながら、階段を降り、顔を洗って服を着替える。どんなに面倒でも、綿のシャツにアイロンは欠かさない。その上にベスト。スラックスにはプレスをしっかりとかける。仕事道具を乱雑に突っ込んだ小さなポーチをベルトに引っ掛けて、最初に向かうのはキッチンだ。
もはや目を瞑っててもできるくらい慣れきった手つきでケトルをコンロにかける。沸いた湯で紅茶をいれて、トースターに食パンを放り込んで、あとはどうするか。昨日貰った卵がたくさんあるので、オムレツにしようか。フライパンを熱する間に、ボウルに卵を三個、贅沢に割り入れて、塩と胡椒を適量。黄身と白身を混ぜるのもそこそこに、熱したフライパンにバターをひとかけ。それが溶け切ったところで卵を流し入れる。僕は半熟が好みだ。卵が固くなりすぎないようざっくりとかき混ぜながら、様子を見て手前に寄せながら形を整えはじめる。
ふっくらとしたオムレツを皿にとる瞬間は、何度経験しても良いものだ。立ち上る湯気とかすかなバターの香りに満足しながら、ひとさじ分だけケチャップを乗せる。そうこうしている間に、トースターの中の食パンは少し焦げた。完璧にやり切ったようで、最後にどこかケチがつく。まるで――僕の人生のようだった。
ひとり分の優雅な朝食を頬張りながら、新聞に目を通す。紙面には難しい政治の話だとか、新しく開店したショッピングモールが盛況だとか、芸能人の不倫疑惑とか、そんな文字が踊っている。どれにもさしたる興味は無くて、するすると視線は滑っていく。その中で、ふとある記事で目が止まった。
ある資産家の所有する企業が、文字通り「壊滅的」な打撃を受けたという話。その資産家及び、企業中枢を担う構成メンバー十数名が残らず殺害されたのだという事が、その記事には書いてあった。表向き製薬会社を謳っていたその企業は裏で犯罪者組織と繋がり、あらゆるルートを通じて相当数の人間に違法薬物を売り捌いていたという。その中で、犯罪者組織同士の抗争に巻き込まれたのだろうという見方が有力視されている――嘘か本当か分からない、ドラマのような話だと思いながら、僕は新聞を閉じた。
食器を片付け、次に向かうのは仕事場だ。一階の一番広い部屋。街路と面する部分がガラス張りのショーウィンドウになっていて、男女一組になったトルソーには展示用に、見栄えのするスーツとドレスを着せてある。左右の壁際のラックには、サイズごとに仕立てたシャツが色柄別に下がり、いくつかの仕立て上がりのスーツやジャケット――袖の仕上げやトラウザーの裾はお客さんに合わせるので、まだだ――が組み合わせて飾られていた。ここが、僕の店舗兼作業場だ。
金色の文字でガラスに書かれた店の名前は剥げかかっていて、業者に綺麗に直してもらおうと思いながら、まだ叶っていない。部屋の一角を占める大きな作業台の上には型紙や布の切れ端が散乱して、ミシンには昨日使った糸がかかったままだ。台の傍のトルソーには、今日引き渡す予定のツイードのジャケットが着せつけられている。久しぶりの大きな仕事だったので、気合を入れて作ってしまった。出来栄えに自分で満足しながら、店内の掃除を始める。
――今日び、仕立て屋なんて儲からない。それでも、祖父の遺した店には未だに、古くからの知人や腰の曲がり始めた得意客がぽつりぽつりと訪れてくれる。
それだけで生活していけるほど世の中は甘くなく、けれど切り捨ててしまうには、その繋がりは温かさに満ちていて。この店は変わらないね――と皺の刻まれた目元を懐かしく和ませる、幸福な彼らの時間を壊すのがしのびなくて、僕は仕立て屋を継いだ。空いた時間に農家の手伝いやら、飲食店のアルバイトやらを挟みながら、どうにか続けられていた。忙しいけれど、僕は今の生活が嫌いじゃない。あえて言えば、将来性が無さ過ぎて恋人未満まで進展した女の子に逃げられ続けることだけが欠点だ。
最近は、農家のおばあさんから「うちの孫娘はどうだい」と勧められる。跡継ぎ問題に苦しんでいるらしい。孫娘は可愛い子だったし、同情する点は多かったけれど、僕に農家をやっていける自信はなかった。
そんなことに思いを馳せていると、いつの間にか店の前に、ぽつりと人が立っていた。着古した感じのシャツにジーンズ。もう今の時期では寒そうな薄手のコート。着られれば構わないやと、言外に主張するような出で立ちだ。フードを目深に被っていて、顔はよく見えない。その人はショーウィンドウの前に立ち尽くして、スーツを眺めていた。店の前で立ち止まる人は珍しい。僕は掃除している手を止め、外に出て声をかけた。
「いらっしゃいませ。服のことでお困りなら、相談に乗りますよ」
声をかけると、よほどウィンドウに気を取られていたのか、その人はびくりと肩を震わせてこちらを見た。フードから覗いた、困惑の色を滲ませた丸い目。驚いたその人の顔は僕が想像していたよりもずっと若く、十代の半ばをようやく出たくらいだろう少年だった。思わず僕もあっと驚いた顔をしてしまって、その子は反射のように両手でフードの端を押さえて俯いた。興味を持って見てくれていたのに、嫌な気持ちにさせたかもしれない。慌てて、言葉を継いだ。
「ごめん! 若い子がうちの店を見てるなんて珍しくて、それで驚いちゃった」
「……」
「えっと……こういうの興味あるの? スーツとか……あ、これ僕が作ったんだけど、どうかな」
「……あんたが?」
少年は顔を上げる。幼さの残る顔に、先程とはまた違う驚きが浮かんでいた。興味、関心、未知のものへの好奇心。そういった類のものが。
「……スーツって……人が作ってるんだ……」
「そりゃそうだよ……どうやって出来てると思ってたの?」
「なんかこう……機械からポンって……」
手で何かが飛び出してくるような動作をして見せながら、少年はぽつぽつと喋った。その動作が面白くて、僕はちょっと笑いながら話した。
「縫うのは大体機械だけど、人の手で仕上げる部分もあるよ。都会の店なら自分のとこの工場で、便利な機械もいろいろあるだろうけどね。うちはこの通り小さな店で作ってるから、手作業も多いよ」
「……そうなんだ」
「でも、それにしても、ポンって」
「し、仕方ないじゃん。知らなかったんだって……!」
抗議の声を上げるその子は、ようやく正面から僕の顔を見る。幼さの残るその子の右頬には、血の滲んだ絆創膏が貼ってあった。
「顔、怪我したの?」
「……平気。大したことないから」
「でも、血が滲んでる。替えた方がいいよ。待ってて」
「あ……」
「若者が遠慮しないしない。適当に中で座ってて」
ひどく困惑して、その子は目を泳がせて迷っている様子だった。そして小さな声で訊ねる。
「……いいの?」
「いいよ。開店前だしね」
その言葉に一度目を伏せてから、意を決したように、少年は店の中に入ってきた。
来客用の椅子を勧めて、救急箱を漁る。仕立て屋は、意外と危ないものを日常的に触る仕事だ。針も鋏も、扱いを間違えれば怪我をする。だから絆創膏は、欠かせないものだ。一枚を取り出して、少年の前に持っていく。さすがにそのままではやりづらいと思ったのか、その子はフードを脱いだ。雑に伸ばされた赤い髪が露わになって、一層少年の顔は苦渋に染まる。ああ、この子はこれを隠したかったのかと腑に落ちた。
馬鹿馬鹿しいことに、赤い髪は悪魔の血を引いているだとか、不吉の象徴だとか根も葉もない噂話を鵜呑みにして、嫌な顔をする人が少なくない。だからこの子は、この髪を隠したがったのだろう。――あえて、何も言わないでおこうと思った。気にするなと言えば言うほど、それを気にさせてしまうような気がする。髪が赤いのは、髪にそういう色素を持つからと言うだけの話だ。ただ、それだけ。それが珍しいというだけの話。悪魔とも、不吉とも関係はない。手を伸ばして、怪我をしている頬に触れた。瞬間その子は肩を震わせる。
「痛むの?」
「ううん、大丈夫」
貼り付けてある絆創膏を剥がす。皮膚を引っ張られる感触に、少年は眉一つ動かさない。小さい傷口はまだ新しそうで、僅かに血が滲んでいる。血を拭きとってから、そっと絆創膏を貼り直し、剥がれないように数度撫でる。
「はい、できたよ」
「……ありがと」
「綺麗に治るといいね。顔に傷が残ったら大変だよ」
「いいよ、別に……女の子じゃないんだから」
はにかみながら、少年が控えめに笑う。肩の力が抜けたような顔に、いつの間にか僕もほっとしていた。少年は絆創膏を手で撫でながら頬を緩ませ、好奇の目で店の中を見回していた。その様子が微笑ましくて、ついつい声をかける。
「珍しいの?」
「うん。あんまり、買い物とか行かないし。洋服なんてなおさら」
「あはは、じゃあお母さんとかが買ってきたのを着てるんだ?」
「そんな感じかな」
先程までの困惑が嘘みたいに、少年は素直な言葉を返してくる。ほんの僅かに、警戒心が薄らいだらしい。野良猫を懐かせたような温かい気持ちになって、僕は話を続ける。
「自分で服を選ぶのも楽しいよ。こういうのどう?」
「え、え」
「はい、まっすぐ立って。背中丸めない。顎を引いて」
「……こう?」
「オッケー、ばっちり」
少年の手を引いて鏡の前に立たせて、ラックからおそらくサイズはこのくらいだろうというものを持ってくる。履いているジーンズに合うように、かしこまり過ぎない素材のものを。着古したシャツの上からジャケットを羽織らせると、なかなかどうして、これが様になった。しげしげと眺めて気が付いた。なんというか、彼はスタイルが良いのだ。先程までは気付かなかったが、こうしてきちんと立たせてみると、身長に対する肉の付き方や脚の長さや――そういった彼を構成する要素のひとつひとつが、パズルのピースのようにぴたりと、彼にはまっている。
無駄のない肉体。野生で生きる動物が、環境に合わせて獲得したそれのような。
「あのさ……」
見過ぎ、と控えめに発された声にはっとなると、穴が開くほど見つめられていた鏡の中の少年が、困ったような顔をしていた。
「あ、ごめん……君、格好良いね。似合うよ」
「そうなの? ……よく分かんないや」
「格好良いよ。僕が言うんだから間違いない。これでも服のプロですよ」
「……そっか。うん、じゃあそうなんだな」
少年はまた、笑みを零した。その姿はとても良いと思った。不意に暖かくなった日に、花の蕾が綻ぶようだった。今まで洋服なんて、着られれば何でもいいやと思っていたんだろう。誰が作っているとか、どうやって出来ているとか、意識もしていなかったんだろう。そんな子が、似合う服を身に着けて褒められて、照れたように笑っている様子が微笑ましくて、嬉しくて――ああ、今日この子が立ち止まってくれて良かったと、そう思った。僕は洋服が好きで、他の人にも少しでもそう思って貰えたらいいと思っていた。そう思いながら、この仕事を続けているんだということを、思い出すことができた。
少年は身体を捻りながら、鏡の中の自分を見つめている。しばらくしてから視線が合い、また少年の目が泳いだ。癖なのかもしれない。何か言いたいことがあるのかなと思いながら、彼の言葉を待った。やがて、少年は口を開いた。
「えっと……実は、スーツが必要になって」
「スーツを?」
「そう。それで……どこでどう買えばいいのか、よく分からなくて」
「それでうちを見てたんだ!」
納得がいって、僕は膝を叩いた。
「なんだ、それならそうと言ってくれれば良かったのに」
「いや、開店前だって言うから……」
「そうだっけ? はいはいお客さんこっち座って。今お茶を出しますからね」
「急に商売っ気出すなぁ」
困惑する少年の背を押して、応接用の卓に座らせる。慌てて紅茶を淹れてきて、小皿に乗せたクッキーと共に少年の前に出す。真向かいに座って咳払いをしてから、僕は彼に訊ねる。
「どんな感じがいい? どこに着ていくとか決まってる?」
「えっと……なんて言うかな……パーティー? に行くんだけど」
「パーティーか! いいね。いつ頃必要なの?」
「来週」
「来週かあ。イチから作るのは、厳しいかも……」
カレンダーと睨み合って、来週までのささやかな仕事たちを眺める。スーツを売るとなればかかる時間も得られる報酬も大きいが、かといって他の仕事を蔑ろにはできない。僕の身体がひとつしかない以上、無茶苦茶な予定は組めない。それで適当な仕事をしてしまえば、それこそ信頼に関わるというものだ。僕は立ち上がり、仕立て上がりのスーツを手に取る。
「仕立て上がりを、君に合わせて手直ししよう。それなら十分に間に合うよ」
「うん、そうする」
「あとはどれにするかな。なるべく直す箇所が少ない方が綺麗に仕上がるし……君に合わせるならちょっと細めの方が良さそうかな」
独り言を言いながらラックにかかったスーツを漁る僕を、少年が後ろから覗き込む。そのうちにひと揃いのスーツが目に入った。馴染みの生地屋の口車に乗せられて買った、良い生地のスーツだった。光沢のある柔らかな生地で、やや細めに身幅を絞って仕上げてみたものの、ここの主な客層の体型には合わず(ある程度年配になると腹が出てくるのは何故なのだろうか)持て余していたものだった。これなら彼にはフィットしそうだが、いかんせん少々値が張るのが欠点だ。渋い顔で眺めていると、少年の顔がひょいと横手から出てきて僕を見た。
「それは?」
「抜群に良いやつ。でもちょっと高いよ?」
「いいよ、いくらくらい?」
少年はコートのポケットに手を突っ込んで財布を取り出す――と思っていたのだが、そこから出てきたものに僕は目を疑った。高額紙幣の束。折り目のない新札だ。その束を平然とした様子で差し出しながら、足りる? と首を傾げる少年に、慌てて手を振る。
「多すぎ多すぎ! いくらなんでもそんなにしないって!」
ちゃんとお金はお財布に入れなさいとか、こんな額持ち歩くんじゃありませんとか、僕はそんなことを続けて早口でまくし立てた。少年は初めて聞くことかのようにきょとんとしている。もしかしてこの子は、富豪か資産家の息子なんじゃないだろうか。そんな世間知らずさだった。ややあってから、面食らっていた少年は肩を竦めてくしゃっと笑った。
「……あんた、世話焼きだね」
どことなく、寂しそうな顔だった。誰も彼に、こんな普通のことを教えなかったのだろうか。彼にお金を与えた誰かは、新しいシャツや暖かいコートを彼に与えなかったのだろうか。親に放っておかれている子供。そんな想像を、僕はした。顔の傷が、親のせいでなければいい――そう思いながら、僕は机に戻り、注文書を広げた。必要事項を埋めて、彼の方へ向ける。
「じゃあここにサインしてね」
「サイン……」
彼はペンを握って一瞬考えるような素振りをしてから、空欄に名前を綴った。――シアン。それが、彼の名前だった。慣れないのか、たどたどしく書かれた名前を目で追って、頷く。
「じゃあこれで、注文を受け付けたよ。週明けには渡せるようにしておくから」
言いながら僕は、ポケットから名刺を取り出して少年の前に置く。同じ店の名前とシンボルにしているツバメのマークが箔押しされたその下に、僕の名前――エメリー・テイラーと書かれている。少年は名刺を受け取って眺めて、それからこちらを見た。僕は彼に手を差し出した。
「よろしくね、シアン。僕はエメリー」
「よろしく」
遠慮がちに差し出された手を握る。少しの間が開いて、彼は握り返してくれた。少しかさかさとした、しっかりした手だった。
「――俺は、俺の名前が嫌いだ」
店先まで少年を見送りに出ると、不意に、彼が口を開いた。切実に呟くような、声だった。冷たい冬の風が吹いて、薄すぎるコートの裾が翻る。赤い髪が鈍色の空に踊って、少年が振り返る。凍てついた冬のような、彼の顔を見た。芯まで冷え切ったような、その瞳を見た。あたたかさなんて知らない。寒さを凌ぐ、術さえも知らない。それでも構わないのだと、そう言い聞かせるように、少年は笑顔を作った。悲しそうに、笑顔を作った。
「だから――名前を付けてよ。なんでもいい、あんたが呼ぶための、俺の名前だ」
「君の、名前を?」
「うん。あんたが決めて。なんでも、いいからさ」
その名前で呼んでよ、と。それだけ言うと、彼は踵を返して歩き出した。コートのポケットに手を入れて、少しだけ肩をいからせながら歩くその姿は、あまりにも寒空が似合っていた。だけど、そうはしておきたくないと思った。だってあんなに、あたたかな笑みを見せることができるのに。本当は誰にだって、あの素敵な顔を見せることができるはずなのに、何かが原因でそれができないでいる。それが何なのか、僕には分からないけれど。
彼に幸せになって欲しいと思った。半ば押し付けのように祈った。どうかあの子が、大切なものを何も失くしたりしませんようにと。
――そんなもの、もうとっくに失くしてしまっていたことなんて、知りもしないで。