猟犬と天使

 いち、にい、さん。追ってくる足音を数える。思ったよりも少ない。長い直線の廊下に差し掛かると、後方から弾丸が飛んできた。足止めを目的とした弾幕のつもりなのか、急所を狙っているような鋭い殺意は感じない。とはいえ、煩わしいことには変わりがない。――ここで、殺すか。振り返りざまにトリガーを叩いた。いち、にい、さん。心の中で唱え終わると、ぱっと赤い花が咲く。足音のうち、二人は仕留めた。悪運の強いひとりが、腕から血を流しながら、なおも銃を乱射しながら近付いてくる。ちょっと始末が面倒くさい。

 懐に潜り込んでやるかと姿勢を屈めると、窓の外から真っ直ぐに飛んできた高速の弾丸が、そいつの頭蓋を貫いた。決死の表情のまま、あまりにもあっけなくそいつは死んだ。思わず口笛を吹いてしまう。窓の外に目をやると、向かい側の屋敷の屋根の上に豆粒ほどの大きさになった白い人影がある。その方向に、俺は手を振った。おそらく向こうはスコープで覗いているだろう。こちらからはよく分からないが、向こうも手を振っているに違いなかった。再び、俺は走り出した。
 
 もう既に、標的ターゲットの護衛の半数以上は死んだかもしれない。意識を聴覚に集中させると、遠くからはうっすらと、天使の祝砲が聴こえる。それは一発の度にひとりを、天国へと連れていく。――いいや、地獄だよ。本人はそう言って笑うかもしれない。だけど俺は、天国だと思う。美しい人が、白い手を汚して連れていってくれるんだから。そんなことを考えていると、廊下の曲がり角から誰かが飛び出してきた。しまった、と思うよりも早く、身体が動いた。

 刃物が肉を裂く感触。すれ違い終わる頃には、飛び出した誰かは首筋から血を流して廊下に横たわっていた。新しい血の臭いと共に、甘い香水の香りが立ち上る。死んだのは女だった。ああ、標的の愛人か何かかな。銃もナイフも持たない人を、殺すのはあまり好きじゃなかった。関係者は生かしておくなという指令オーダーだが、殺し方は指定されていない。無力なひとはあとから捕まえて、クスリで殺すつもりだった。その方が、痛くないから。申し訳ない気持ちになりながら、標的が隠れているであろう部屋に向かう。
 
 扉を鉄製にしておかなかったのは、全くもって迂闊だなと思う。乱暴に銃で鍵を壊し、マガジンを入れ替えてから、ゆっくりとドアを開ける。もったいぶって開ける理由は、警戒心が半分と、恐怖心を煽るのが半分だ。そこにいた、震え上がった小太りの男は、脂が良く乗っていそうだ。人間が食用になるのなら、もしかするとこんな男にもいくらかの値打ちはあったかもしれない。そんなことを思った。男は腹肉を滑稽にぶるぶるさせながら、ひったくるように机の上の銃を手に取った。親切心で、言ってやる。
 
「そんな状態で銃なんか持ったら危ねぇよ。諦めな。銃を置くなら、痛くない方法も選ばせてやるから」
「だッ……黙れッ! 侮辱しやがって! 汚らしい、こっ、殺し屋風情がッ!」
「あんたの捌いたクスリでだって大勢死んだよ。あんたも俺と変わらない、人殺しだ」
「私に上からものを言うなッ!」
 
 破裂音と共に、一瞬頬に熱いものが触れる感触があった。銃弾が掠ったらしい。この野郎。これでも十分に情けをかけてやっているつもりだったが、それは無駄なようだ。よし、殺すか。銃を構え直すと、あからさまに男は怯えた。いっそ不憫だ。俺は顔を顰める。

 こういう標的は嫌いだ。普通に生きていればそれでも十分良い生活が送れたはずなのに、小賢しいばっかりに裏社会でちょっと成功して、人から恨みを買うようなやつ。裏社会には裏社会なりのルールがある。それを知らないで入ってきて、こうして殺し屋の前で、震える羽目になるやつ。抵抗無く殺せるほどの邪悪でもなければ、生かしておけるほど殊勝でもない、馬鹿なやつ――そう思いながら、もう銃を使えないように、男の掌を撃ち抜いた。声にならない悲鳴と共に、男は銃を取り落としてその場に蹲る。勿体ないので、銃は回収する。
 蹲る男は、まるで肉の塊だった。特に感慨は無い。見下ろしながら、声をかける。
 
「言い残すこと、何かある? 伝える相手はもういないと思うけどな」
「だ……嫌だ……死にたくない………死にたくないッ……助けてくれ……ッ!」
「殺し屋に言うことじゃないね。他には? 無いならもう撃つけど」
 
 男は悲鳴を上げて、小便を漏らしながら部屋の隅へと這っていく。ありもしない、天からの救いの糸でも探すように空中を掻きながら、顔面をぐちゃぐちゃにして、お助け下さい神様、と呟いている。その様子を見て、心の底から、湧き上がるものがあった。それは、怒りだった。
 
 こういうやつは、嫌いだ。大嫌いだ。
 神様が人を救うものだなんて、そんなおとぎ話を信じていられるくせに──
 
「……懺悔するのが、遅せぇんだよ……っ!」
 
 他人事のように、銃声をいくつも聞いた。どうやら一心不乱に撃っていたらしく、我に帰った時には蜂の巣になった肉の塊と空になった薬莢が目の前に転がっていて、手に持った銃のマガジンはからっぽだった。時々、我を忘れてしまう。悪い癖だ。とんでもなく、悪い癖だ。片手で顔を覆って溜息をついていると、無線からノイズ混じりの声が聞こえてくる。この場の惨状に似合わない、澄んだ綺麗な声だ。
 
『……終わったの?』
「……ああ、終わったよ」
『そっか。お疲れ様。……戻っておいでよ』
「……ん」
 
 気遣わしげな声に背中を押されるように、その部屋をあとにした。振り返った、蹲った死体の表情は分からない。おそらく、安らかではないのだろう。確認するのは、止めておいた。
 
 屋敷の外に出ると、大地と空の境界には日が昇り始めていた。そこに、天使が待っていた。白い肌にプラチナの髪。人形よりは肉感があって、しかし人間よりは曖昧な存在感。高嶺の花と呼ぶのが適当かもしれない。人目を惹きすぎて、殺しはやりづらいだろう。だから、彼は狙撃手スナイパーになった。被ったフードの下で、無垢な少年の造作と、全てを悟った聖者のような眼差しを混ぜ合わせたその人は、俺を迎えて柔らかく笑った。
 
「おかえり。……あ。頬、怪我したの」
「へーきへーき。かすり傷だから」
「駄目だよ」
 
 彼はコートのポケットに手を突っ込んで、絆創膏を取り出す。それを、銃弾が掠めた頬に丁寧に貼り付けて、これで良し、と彼は呟く。魔法の呪文のようだ。大雑把な応急処置でも、彼が良しと言うなら、きっとこんな傷はすぐに癒えるに違いなかった。それから俺たちは、肩を抱き合って互いを労った。

 今までのパートナーとは、こんなことはしなかった。彼とは随分親しくなったように思う。歳が近いせいもあるだろうが、彼の心に染み込むような優しさは、何の無理も気負いも無く自然に、この人を大切にしようと思わせてくれた。だから、一緒にいることは苦ではない。それは俺にとっては珍しいことで、だから思わず呟いた。
 
「もう三年」
「なにが?」
「あんたと組んで」
「長いね。……長いのかな?」
「長い長い。パートナーなんてさ、大体途中で死ぬよ。それか変えられるか」
「あー……そうだね」
 
 彼の顔が少し曇った。しまった、この話題は良くなかった。俺はハラハラしながら、おもむろに煙草吸う? と勧めた。彼は笑いながら一本煙草を咥え、火をつけた。薄い唇から細く煙を吐きながら、珍しくおずおずと、彼が訊いてくる。
 
「……俺の前のパートナーのことって、知ってる?」
「……少しだけね」
 
 ちょっと、嘘をついた。俺は長くこの組織にいるので、少しどころかよく知っている。有名な話だ。彼が『破滅の天使』だとか『安息の娼婦』だとか、好き勝手に揶揄されていることは。彼と組んだこれまでのパートナーの多くが、組織に粛清されたという話。理由は彼を連れて、外へ逃げようとしたからだ。俺にさえこれだけ優しいのだから、彼は今までのパートナーにだって、優しくて親切だったに違いない。加えて、天使と表現したってなんら違和感のない美しい容姿だ。

 荒み切った世界で、彼を特別な存在に据えるやつは少なくなかった。彼と組んだやつは大体、彼のことを好きになって、彼を連れて一緒に逃げようとした。普通の人間になって、幸せになりたがった。そんなこと、組織が許すはずもないのに。彼は、沈んだ声で話す。
 
「……止めるんだよ、いつも。そんなこと駄目だって。死んじゃうよって」
「うん」
「……俺がいけなかったのかな。力づくで、止められなかったから。だから……」
 
 煙草を咥え直して、彼は目を伏せる。伏せられた目の下に睫毛の影が落ちる。――綺麗だなと思った。こういうところが、たまらなく野郎どもを掻き立てるのかもしれない。なんの意図も計算も無くても、人の目に美しく映る。それは高嶺の花でも、道端の花でも同じことだ。それに、何の罪があるって言うんだろう。それを責めることは、誰にもできないはずだ。
 
「違うよ。死んだやつが弱かったんだ。あんたは気にしすぎだよ」
 
 横並びに肩を寄せて、言ってやった。煙草を取り出して咥えて、彼の煙草の先に押し付ける。じきに火が移り、じわりと苦い味が口の中に広がった。さして美味くもない煙草だけれど、今日ばかりは彼の心象のような、悲しくて優しい苦味がした。彼が悲しいのは、嫌だった。身体の半分が、痛い痛いと泣いているような心地になるから。
 
「俺ならもっと、上手くやるよ」
「なにそれ」
「二人で逃げちゃう?」
「……いいね、楽しそう」
「どこがいい? 逃げるなら」
「海の見える街がいいな。白い壁の家がずっと並んでるの」
 
 並んで煙草を吸いながら、そんな話をして笑う。水平線に昇る太陽。まだひんやりとした空気が包む街を並んで歩く。目当ては街で一番美味しいパンを焼く店だ。焼きたてを買うため早起きをして、潮騒に紛れる腹の虫の音を笑って。その街で暮らす俺たちは、きっと幸せだ。訪れることの無い未来の話は、誰も傷つかなくて、何の責任もなくて最高だった。
 
 じきに迎えの車が到着した。名残惜しく、彼は携帯灰皿に煙草を押し込んで、俺もそれに倣った。ここから先は、自由に話すことも許可されない。黒服の男たちが、俺と彼とに目隠しをして車に押し込む。これから行く場所までの道を、俺たちが知らないようにだ。いつものことだから、俺たちに困惑はない。

 目隠しをして後部座席に並べられて、一時間か二時間か、あるいはもっと――車に揺られることになる。俺は大体、途中で寝てしまう。彼は、いつも眠れないと言っていた。そのまま車が崖に飛び込んだり、燃え上がったりするのではないかと、そういうことを考えてしまうと言っていた。殺し屋なのに、怖がりだった。

 視界が塞がったまま、手を隣へ伸ばすと、小刻みに震える彼の手に触れた。すべすべした甲を撫でて、その手を握る。指の腹の硬い部分は、トリガーを叩きすぎたせいなんだろう。俺の手も、ナイフをきつく握りすぎてマメだらけだった。どんなに慈しみあってみても、俺たちの手は、殺し屋の手だ。
 
 今日は途中で眠らなかった。
 祈るように握り返してくる手を、離せないと思ったからだ。