Summer.

「お」
 部室を訪れると、よく見知った――しかしこうして会うのは久方ぶりのような――顔に出会う。
 彼はついこの間まで、この野球部のエースとして活躍していた天才投手であり、$[ruby 捕手 ぼく]の相棒でもあった。同じ学年なのだから、顔を合わせることもあろうと思うかもしれないが、我が校はそこそこ大きい学校である。クラスが離れていれば教室も遠く、その気が無ければそうそう出会うこともない。部活を引退する前は、僕が向こうのクラスへ行ったり、逆もあったが、このひと月ほどはぱったりとそれがなくなっていた。
 あの日――甲子園の決勝の舞台に立てずに、僕たちの夏が終わった、そのときから。
「忘れ物ですか?」
「ああ」
 彼は淡々と、いつもの調子でそう返した。僕は僕で、置いたままになっていた私物を回収する作業に取り掛かる。着替えやタオル、貸すために持ってきてそのままになっていた漫画。そういったものを全てロッカーから取り出してしまうと、引退するのだなあという実感が湧いてきた。三年間、野球漬けの生活をしていたのだから当然なのだが、放課後の予定が急にまっさらになるのは、変な心地だった。
 ちらりと、彼の方を盗み見る。黙々と荷物を鞄に放り込んでいる、彼の肩は相変わらず細かった。入学時から技術は頭ひとつ抜きんでていたものの、その細さが不安になって、皆でこぞって弁当や菓子を押し付けていたのが昨日のことのようだ。生意気な彼は当初先輩すらも突っぱねていたが、だんだん縦社会に順応して食べるようになったのだった。
「ちょっと痩せたんじゃないですか。ちゃんと食べてます?」
「食べてる。お前は俺の母親か」
「違いますゥー。ついでにもう女房役も引退させてもらいましたァー」
 お互い別々の方を向いて、背中越しに会話した。
 ――僕たちは入部してからの二年間、夏の甲子園で優勝を経験していた。一年目は、先輩たちの優勝をベンチで見ていた。二年目は、先輩たちと一緒に優勝を掴んだ。その年に彼はもう、エースとしてマウンドに立っていた。
 三年目、最後の夏。あと一点。たった一点の差を埋められずに、僕たちは負けた。準決勝敗退。三連覇の偉業は果せなかった。賞賛も野次も、どちらも耳には入ってこなかった。ただ、これで終わってしまったんだ、という事実だけを、否応無く噛み締めていたから。
 野球は点を取らなければ勝てないゲームだ。投手がどれだけ抑えても、得点できなければしようがない。――マウンドに立った彼と相対していたから、分かるのだ。あの日、彼の肩にどれだけの重いものが圧し掛かっていたのか。期待された三連覇。投打躍動の天才投手と呼ばれる彼の一挙手一投足が注目されていた。彼は、全てに応えようとした。体力が空っぽになってしまうまで、全力で投げ続けた。我儘なくせに、変なところで真面目だった。
「おい、まだか」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。気が付けば、彼は部室の入り口に凭れ掛かっていて、去る気配が無い。
「いや、もうすぐ終わ……っていうか、もしかして僕を待ってんですか?」
「他に誰がいるんだよ」
 確かに――と変に納得して、頭と手が連動して動かないような心地になりながら、荷物をしまい終えて立ち上がる。そうして、ようやく彼の顔を見た。よく見知ったままの顔だ。なんとなく、視線だけをそっと逸らした。
「お待たせしました」
「ん」
 一緒に帰ろう、とはどちらも言わなかった。なんとなく連れ立って部室を離れ、なんとなくお互いの家の方向とも全然違う――よく部活の皆でアイスを買いに行ったコンビニの方へ向かう道を歩いた。八月も過ぎたというのに、気温は高いままだ。しかし街路樹の下には乾いた蝉の死骸が転がっていて、夏が終わるのだということを改めて確認させられるようだった。
 コンビニに着いて中へ入ると、涼しい空気が出迎えてくれる。適当に店の中をうろついただけで、いろんなことを思い出した。卒業していった先輩たちの姿や声。激動の三年間は、脳裏に色濃く焼き付いている。物思いに耽っていると、会計を終えた彼が出口で待っていた。
「やる」
 差し出されたのはレモン味のかき氷――僕が好きでよく食べていたものだった。好みを覚えているなんて意外だと思いながら受け取って、少しコンビニを離れた橋の上で食べた。傾き始めた日差しの下で、彼はいつも通りパイン味のかき氷を食べていた。
「君が奢ってくれる日が来るなんて」
「……ま、最後くらいな」
 最後。当たり前のように出てきたその言葉が、不意に横っ面を叩いたようだった。
 夏が終わって、部活を引退して、その先には卒業が待っていて――僕と彼とは、別の人生がある。何も今更、驚くようなことじゃない。彼とこうして並んでかき氷を食べるのは、きっと今年が最後だった。口をついて、言葉が転がり出た。
「ごめん」
「なにが」
「いや……ごめん」
 何かが込み上げてきそうになったので、氷を頬張って誤魔化す。それは口の中でみるみる溶けていって、顔が熱くなっているのを感じる。努めて、彼の方は見ないようにした。
 僕たち、あんまり仲良くなかったな、と思う。顔を合わせりゃ文句ばかり。くだらない喧嘩は数えきれない。部活から離れたら会う用事のひとつも思いつけないのに、一丁前に、後悔ばかりがあった。
 どこかで一本、援護できていたら。もっと上手くリードして、重圧をひとつでも、一緒に背負ってやることができていたら。この可愛げのない相棒を、勝たせてやれたかもしれなかった。

 ――勝ちたかった。皆と、君と一緒に、勝ちたかったんだ。

 橋の上を、風が吹き抜ける。夏の匂いは、もうしない。彼はちびちびとかき氷を何口か食べてから、言った。
「お前――ドラフトで指名来たら、断るなよ」
「は」
 突然話題が変わって、口から素っ頓狂な声が出てきた。あまりの驚きでつい彼の方を見てしまう。目から流れてきていたものは、慌てて袖で拭った。
「言っておかないと、逃げそうだからな」
 横顔に浮かぶ意地の悪い笑みと挑発的な言葉に、反射でムキになって返す。
「は? 逃げないが? っていうか、指名来るって前提が無理なんですけど」
「来るよ」
 絶対に来る。いつになく真剣に、彼は言い切った。僕も、彼には絶対に指名が来ると思う。彼の才能と活躍がそれに値することは、一番よく知っている。僕は、不幸にも天才と同じ年に入部してバッテリーを組まされた、哀れな一般人だ。置いていかれるのが癪だから、必死に、その背を追い続けた。必死にならなきゃ、追いつけなかった。君を追いかけて、ここまで来た。自分でも、想像しなかったところまで。
 少しくらいは、追いつけたのだろうか。君のすぐ斜め後ろくらいには、立てたのだろうか。
「打席で俺の強さを痛感するといい。三球三振で仕留めてやる」
「うわー腹立つ。ぜってぇ九回裏ツーアウトから逆転サヨナラホームランしてやるからな。屈辱のあまり震えろ」
 一瞬の沈黙ののち、どちらからともなく、笑いが零れた。胸の中のわだかまりが、ゆっくりと溶けてなくなっていくような心地がした。

 夏は、終わった。この三年間に終止符を打って、歩き出す。秋めく風は、この夏を過去に追いやっていくだろう。
 僕たちは、仲良くなかった。だけど、こんなに互いの考えていることが分かる人は、もう二度と現れないかもしれない。目線ひとつ、サインひとつ。ボールとミットで、僕たちは会話をしていた。どんな言葉を尽くすよりも分かり合えた。
 早足で少しだけ前を行く君の背中は、きっとこう語っている。どうにも面映ゆいので、答え合わせはしないでおくけれど。

 卒業して、その先で同じチームになっても、違うチームになっても、また。
 ――絶対に、一緒に野球をしよう。

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