――『シャグラン・ダムール』。
『愛の哀しみ』、と銘打たれた物語は、ひとりの画家の男が愛する女と死に別れる場面から始まる。
墓標の前で泣き崩れる男は、彼女への想いを生涯抱き続けることを誓う。しかしその後の生活の中で、ある娘に出会ったことで生活は一変する。大通りでぶつかったそそっかしい娘は、男が買い物袋から落とした画材に興味を引かれ、そこから交流が始まる。愛した人とはまるで正反対の賑やかな娘だが、共に過ごすうちに男の悲しみと孤独は癒されていく。
男が次第に娘に心を開いていき、ふたりの距離が近づいていく過程がコミカルかつロマンティックに描かれ――演者たちの容姿の非凡さもさることながら――観客の心を動かしていく。観客の女性たちはふたりの様子を固唾を飲んで見守り、一喜一憂しながらも、劇場でのマナーを欠かさないように努めていた。
だが――この物語は、喜劇では終わらない。
男はある時、一枚の肖像画を描くことを決める。自分の中の理想の女性。かつて喪った愛する女の姿を想い描くこととした。打ちのめすような悲しみから脱しつつある今だからこそ、あの美しく穏やかな微笑みを、キャンバスのうえに描き出せると考えたのだ。そして自分の傍に永遠に置こうとしたのである。
しかし、描きあがっていくにつれて、それは別の人物の姿に近付いていく。愛した彼女とは似ても似つかない、あの明るく賑やかな娘の姿。男は筆を取り落とした。それは、あれほどまでに愛した彼女への誓いが、他の愛によって塗り替えられつつあることの証明に他ならなかったからだ。
「――ああ! 愛しのフローレンス。君の顔を描くことができない私を、どうか許さないでおくれ。ああ、愛しのアネット。未だもって、君の想いに気付かないふりをする私を、どうか許さないでおくれ」
膝をついて項垂れ、悲嘆にくれる男。かつて愛した人への誓いと、今の自分を支える愛情との板挟みになってしまった男は、苦悩の果てに決断を下す。
「どちらの愛も、私は裏切ることはできない。しかしそれこそが、彼女らへの最大の裏切りであろう」
男は行方をくらませ、二度と人前に現れることはなかった。誓いを立てた墓標の前にも、孤独を癒してくれた、娘の前にも。
その後、娘が男のアトリエを訪れると、そこには顔の部分を削ぎ落した女性の絵が未完のままで置かれていた。ひっそりと、その想いを仕舞い込むかのように。
――理解が難しい。
リドヴァン・フランメはその男を演じると決まった当初、眉を顰めた。
そも、愛とはなにか? 形をもたないそれを、具体的な何かとして表現することに、人間はいつの時代も必死だ。ある者は金銭に。ある者は価値ある物質に。ある者は言葉に。それが、この男にとっては、誓いだったのだろう。しかし、目の前にあるもの――この場合は娘の愛――を我慢することは、『吸血鬼』にとっては難しいことだ。ひと睨みで、どんなに敬虔な神の信徒だとて意のままにすることができる――そんな力があるのだから、いったい何を我慢する必要があろうか? 彼にとって、それは至極当然の権利であった。
しかし、そんな彼にもたったひとつままならぬものが、あるにはあった。吸血の衝動は、獲得した理性で抑えつけることもできる。忌々しい太陽の光は、避けて歩くことができる。
――お母様。
カーテンコールに、役者たちが集う。喝采を浴びるリドヴァンは、照らされたステージの上から、観客席に目を凝らす。そこに美しい、世界で一番美しい、女性の姿を探した。自由で、奔放で、何人もの同胞と子を成した、特別な吸血鬼。しかし誰の元へも留まらず、ひとときの愛を注いでは、気ままにどこかへ行ってしまうひと。そんな母のことを、恨んではいない。ただ、胸の内には恋しさが募った。どうにも満たされない、愛情の渇きがあった。
会うことが叶わないのなら、せめて。自分のことを見ていて欲しい。知っていて欲しい。あなたの子がここにいる。確かに存在していることを。
とどのつまり、それだけが――人目を憚りながら生きるのが常の『吸血鬼』が、名声を得て衆目に晒される立場を選んだ理由だった。
――お母様。ボクは、ここにいますよ。
母の姿は、やはり見つけられない。いつもそうだった。それでも、きっとどこかで自分のことを見てくれているはず。リドヴァンは、そう信じていた。僅かな時間でも、自分が受け取った愛は――真実のものだから。
***
幕が引かれ、観客たちがぽつぽつと帰路に着きはじめるのに混じって、カウフマンとロクスブルギーも劇場を後にした。
「どうだった? 久しぶりの観劇は」
少しだけ声を低くして常と変わらない表情の吸血鬼に訊ねると、彼は一度視線を寄越してから、静かに口を開いた。
「脚本としては、特段目新しいところもない。可もなく不可もなく、平凡な悲恋の物語だった」
「手厳しいな、『茨の君』は……」
カウフマンが苦笑いすると、ロクスブルギーは肩を竦めて、息をついた。
「楽しめなかったわけじゃあないよ。ある意味ではとても面白いものを観たといえる。すすんで人前に姿を晒す『吸血鬼』なんて、さ。……あの子の母親を考えれば、納得できることだが」
あの子の母親――というのは、先に話があったロクスブルギーの『姉』のことだ。胸の奥の好奇心が滑らかな掌で逆撫られるような心地だ。余計な言葉が出ないようにカウフマンが口を引き結んでいると、不意に問いかけられた。「君はどうだったんだ。休暇にわざわざ足を運んだぶん……楽しめたか?」
その言葉には、どこか気遣わしげな響きが含まれている。劇を見る前に一悶着あったことを、気にしているのかもしれなかった。
「ああ――もちろん。役者の演技は素晴らしかったし、舞台の小道具も凝ってたな。アトリエの内装とかさ」
カウフマンの返事に、吸血鬼は穏やかに目元を和ませた。
「ふふ――あれは、君の好みだろうと思った」
物語の余韻に浸りながら、ゆっくりと街路を歩く。太陽が姿を隠した時間帯では、吸血鬼を脅かすものは何もない。月の柔らかな明かりはさながら舞台照明で、照らされた横顔は出演していたどの役者にも劣らない。すっかり目は肥えてしまったとルーがぼんやり考えていると、ふとロクスブルギーが立ち止まった。
「少しだけ、彼と話をしてくる。――待っていてくれるか?」
その申し出は意外なように思えたが、久方ぶりに同胞に会ったのだから積もる話のひとつもあろう。まして、形式的とはいえ親族に近いようなひとなのだ。カウフマンは頷いて、ロクスブルギーを送り出した。あらゆる懸念が全くないではなかったが、そこは彼らを信頼した。ロクスブルギーはもとより、人間社会あってこその生業に望んで就いているリドヴァンが、己の立場を危うくするような言動は――昼間のことは一旦忘れるとして――そうそうしないだろう。
夜風は、少し冷たい。来た道を戻っていくロクスブルギーを見送って、上着の前を合わせ直し、欄干に背を預けてカウフマンは空を見上げる。
今はもう、そこは闇で一色に塗りつぶされていて、微かな色のゆらぎも見当たらない。自分の心もそのようにあれればいいのに。どんな物事にも揺らがない、強い意志が欲しかった。あるいは日頃はそう在れているかも分からないが、ロクスブルギーに関わることになると、心が揺れた。
――たとえばロクスブルギーが、リドヴァンや『姉』のような、同胞らと共に居ることを望んだとしたら。あの夜に交わした約束を彼が違えるとは思っていない。しかし、もしも望まれたとしたら? 今のように、快く見送ることができるだろうか? 聞き分けの良い、気が利く最高の友人であるべきだと頭では分かっているが――きっと、それは無理だった。
だって、二十年かかったのだ。もう一度、あの瞳に映るために。目覚めの挨拶をするために。愛しいその名を、呼ぶために。
「……情けないな」
溜息混じりにそう呟いた、その一拍後。左手から、透き通った声が投げかけられた。
「――こんばんは、素敵な夜ね」
突然のことに慄きつつそちらを見ると、そこにはひとりの女性がいた。
緩く巻いた白金の髪を夜風に揺らし、紫の宝石を思わせる澄んだ瞳を細め、静かに微笑んでいて――反射的に、月のようだと、そう思った。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます