曙光祭

 ――神話に曰く。かつて『朝の神モルゲン』は一度失われ、世界は『夜の神ナハト』が支配する常夜の中にあった。残虐な『夜の神』の信奉者たちが蔓延り、善良な人々は闇の中で怯え暮らしていたが、やがて世界に光が差した。『朝の神』は再び降臨して『夜の神』を世界の遠くへ追いやると、一日の半分をその光で照らし、もう半分は身体を休めた。こうして、一日のうちに朝と夜が生まれた、と。

 『曙光祭モルゲンレーテ・フェスト』は、『朝の神』の復活と、世界に光を齎した日を祝う祭事である。町中を花で飾り付け、親しい人々と食事や音楽を楽しみ、陽が沈めばランプに明かりを灯して、夜明けを待つ。この日ばかりは幼い子供も夜更かしを許され、大人に混じって夜の街を歩き回ることができる。祭事の運営は勿論、各地にある教会が行う。祭りの開催前の数日間は、毎年その準備に追われている。街の規模にもよるが、これがなかなか大変で、正直結構疲れる仕事だ。化け物殺しが主たる任務の審問官は、教会に常駐する聖職者と違い、祭事の運営に携わる義務は無い――ということにはなっているが、夜鬼狩りの仕事がなく街にいれば、声がかかるのは当然のことである。だから、なんだかんだと毎年のように手伝うことにはなり、今年も早朝から雑務に追われていた。
「今年は男手が増えたから楽だわね」
「そうかい。そいつは良かった」
 顔の皺を深くして、中年の修道女が微笑む。この街に住居を移して初めての『曙光祭』となるが、常駐している教会の人間は女性が多く――男性がいても、多くは頭脳労働者が多いので過度な期待は禁物だ――力仕事はさぞ大変だっただろうと、周りで忙しなく働いている人々を見て思う。敬虔な神の信徒である彼女らは文句のひとつも言わず重たい荷物を運んでいるが、今日ばかりはその役割から解放してやるべきだろう。
「その鉢はどこに持っていけばいい?」
「あ、これは大通りの角に」
「分かった。俺が持っていくよ。そこに置いておいてくれ」
「ありがとう。助かります」
 二人がかりで植木鉢を運ぼうとしていた若い修道女たちには、さほど腕力のいらない別の仕事をしてもらうのが良いだろう。持ち上げた大きな鉢には、色とりどりの花が丁寧に植え付けられている。祭事のために、日頃から修道女たちが丹精込めて手入れをしてきた花である。陶器の鉢と土とが相まって、かなりの重さがある。通りにそれを運んで息をつくと、パン屋の店主が表へ出てきて声をかけてくる。彼が手にした籠には焼き立てのパンがたくさん入れてあって、教会の皆で食べてくれといって渡してくれた。それをありがたく頂戴して教会に戻り、皆に声をかけてそれらを振るまう。食事を摂ってなかった者もいたようで、神よ! などと宣いながら美味しそうに頬張っていた。日常の中で、些細な救いを与えてくれるものこそが、真の意味で神と呼べる――本当は皆そのことに気付いているけれど、それでもこうして、微動だにしない偶像に祈るのは、そこに各々がなにかしらの意味を見出しているからなのだろう。

 そうして朝一に街中の飾り付けを終わらせると、教会で朝の礼拝が行われる。普段は自宅で祈るだけで済ませている者もいるだろうが、さすがに祝祭の日ともなると皆教会へやってくるのか、なかなかお目にかかれないような人の多さだった。礼拝が終わると、聖歌隊の合唱やらオルガンの演奏会やら、巡業劇団の上演などの催しがあり、会場の警備の仕事が始まる。警備などと仰々しい名目だが、要するに気分が良くなりすぎた酔っ払いや、祭りにかこつけて羽目を外している若者や、劇団の熱狂的な愛好家などが迷惑行為を行わないように取り締まるだけの簡単なお仕事だ。このようなことで取り締まられる人々がいると、かえって平和だなと感じる。夜鬼が人を喰らったりするようなことが起きている世界だとは、思えないほどに。

 夕方になってようやく、仕事から解放された。この後は自由に過ごしてよいことになっているが、化け物に休日がない以上、化け物殺しもまた同様だ。万が一に備えて、銃を撃てないほど泥酔することのない様に、とだけ教会から伝えられた。早足になって自宅に帰ると、ちょうど同居人が起き上がってきて、身なりを整えていたところであった。
「おはよう、ロクスブルギー」
「おはよう。……外が騒がしいと思ったら、今日は祭りの日か」
 同居人――吸血鬼ロクスブルギーは、服の襟元を整えながら苦々しげにそう言った。夜に生きる定めにある彼からすると、『朝の神』を讃える祭りというのは、あまり愉快ではないのかもしれない。陽光だけが、この不朽の生命体を害することができるのだから、無理もないことだ。
「君は今日も朝から働きづめだろう。ゆっくり休んだらどうだ」
「ああ、そうするよ」
 そう指摘された通り、眠気と疲労があった。しかし、折角なのでロクスブルギーに街を見せたいという考えがあった。この澄まし顔の吸血鬼はその実、なかなか好奇心が旺盛だ。『曙光祭』など、生きている間に何百回と耳にしているだろうが、実際に参加したことは、おそらくそれほどないだろう。自分で言うのもなんだが、飾り付けられた街の風景はなかなか美しいと思うし――単純に、友人と祭りを楽しみたいという、こちらの希望もある。
「……なあ、ロクスブルギー。あとで少し、祭りの様子を見に行かないか」
「祭りを?」
「仕事してるばかりで、あまり見て回れてないんだ。日付が変わる頃には、人もまばらになっているだろうからさ」
 ロクスブルギーは数秒思案するように目を伏せてから、ひとつ頷いた。
「良いだろう。君が行きたいと言うのなら」
「決まりだな。じゃあ、少し寝てくる」
 吸血鬼がすんなりと提案を受け入れてくれたこともあり、気分良く自室に戻る。ベッドに身を投げ出すと、日中の勤労のおかげで速やかに眠りにつくことができた。
 目が覚めるともう日付は変わっていた。リビングへ向かうと、ロクスブルギーは真っ黒な外套を羽織っていて、既に出かける支度を済ませているようだった。祭りのことを騒がしいと言っていた割に、出かけることにはそれなりに前向きらしい。微笑ましい様子に思わず笑みが零れそうになったが、タイミングよく欠伸が出たので見咎められる――絶対に、何を笑っていると言われるはずだ――ことはなかった。
「悪い、少し寝すぎた」
「構わないよ。十分休養を取った方が良い。人間は本来、夜には活動しない生き物なのだからね」
 そのような話をしながら、薄手の上着だけ羽織って外へ出る。空にはぽっかりと月が浮かんでいて、日頃は暗く静かに寝静まった街が、今日はそこかしこに温かな色の灯りを点している。炎が作り出す灯りは、吸血鬼を害することはない。大通りを歩くと、数件の酒場が営業していて、開け放たれたドアからは夜に似合うしっとりとした音楽が流れてきている。人々は屋内外の席に思い思いに腰掛け、酒を嗜んだり、軽食を食べたりしながら、親しい者同士の時間を過ごしている。こういったときには、たとえ見知った顔を見つけても無暗に声をかけたりはしないでおくものだ。だから、ロクスブルギーと一緒に歩いていても、そうそう声をかけられることはないだろう。――もしも後日、あの美しい連れは誰だと問い詰められたら、どうにか巧いこと言って誤魔化すほかない。
 そのロクスブルギーはといえば、飾り付けられた街のそこかしこを静かに見回したり、流れてくる音楽に耳を傾けて立ち止まり、微かに身体を揺らしていて、その様子はさながら、初めて見る場所に放った猫のようだった。それを見守っていると、店先に出てきた酒場の店主が、小ぶりのグラスを差し出してきた。
「『曙光祭』を祝して、一杯どうぞ。あちらのお連れさんにも」
 グラスの中には明るい飴色の飲み物がたっぷりと注がれている。ほんのりと薬草の香りが漂い、口をつけるとほのかな甘みと、薬のような渋みが口の中に広がる。店主に礼を言って、ロクスブルギーの元へ向かう。
「飲むか? 店主が振舞ってくれたよ」
「酒か。さほど惹かれないけれど、……まあ、たまにはいいだろう」
 そう言って、吸血鬼は小さなグラスの酒を少しずつ飲み始めた。おそらく本当に、酒はそれほど好きではないのだろうといった様子だったが、おそらくロクスブルギーは、こうして祭りの雰囲気を味わっているのだろう。その間にも、視線はあちこちへと移っている。
「どうだい、祭りの感想は」
「別に。いつの時代も、人間は似たようなことをしているものだ」
 酒を飲み終えてからグラスを返し、街中を一周することにした。家々にもまだ明かりが灯っていて、中で団欒しているのだろう、時折穏やかな話し声や子供の笑い声が聞こえてくる。もう随分と昔、まだ母が生きていた頃は、こうして『曙光祭』の日に夜更かしをしていた気がする。結局、途中まで起きていたが眠くなって、いつも肝心の曙光を見ることはできなかったのだ。

 特に目的もなく歩いていると、やがて街中の灯りが消え始める。夜明け――すなわち曙光が差すその時に備えているのだ。『曙光祭』は、文字通りその夜明けの光を讃えるものだから、陽が昇り始める前には、灯りを消すのである。明かりが消えていく街を背に、少し街中から離れた自宅へ引き上げる。仕事柄夜中に起きていることも多いので、引っ越してくるときに街はずれの家を選んだのだが、吸血鬼と同居している今となってはさらに都合の良い家だった。家の前まで戻ってきたところで、ロクスブルギーが口を開いた。
「……ここまで来たら、憎たらしい夜明けまで見届けるとするか」
 言うなり、吸血鬼は少し姿勢を低くしたかと思うと、次の瞬間には高く跳躍して屋根の上に飛び乗っていた。――言葉を失った。分かってはいたことだが、やはり吸血鬼の身体能力は人間とは到底比較にならない。人間にはそのような芸当はできないので、素直に家の中に入り、階段で二階へ昇り、廊下の窓から外へ出て、屋根に上がった。ロクスブルギーは東の方角を向いて腰を降ろしていたので、その隣に座った。涼しい夜風が、頬を撫でる。
 肩を並べて、じっと地平線を見やる。そうしてどれくらい時間が経ったのか、やがて空が明るくなってきて、空と大地の境目とにきらりと曙光が輝いた。ロクスブルギーが、目を細めながら口を開いた。
「――また君と、夜明けを見ることになるとは」
 二十年前のあの日。夜明けと共に、吸血鬼との別れが訪れた。あれからしばらく、夜明けは悲しいことの象徴みたいなもので、恨めしくて仕方がなかった。そんな時も確かにあったなと振り返ることができる程度には、その悲しみは癒えていた。
「あの時には、思いもよらなかったことだ」
「……そうだな」
 ふと思い立って、洋服の襟元を緩めた。目を丸くしている吸血鬼に、首筋を示してみせる。
「いま血を飲んだら、甘いかもしれないな。あの時みたいに」
「そんなこと、あるわけがないだろう」
 可笑しそうにそう言いながらも、吸血鬼は向きを変えて近付いてきて、首筋に指を這わせた。その手を捕まえて、身体を引き寄せる。もう、置いていかないでくれよ。夜明けの光に溶けてしまうくらいの小さな声で、呟いたその声は果たして彼の耳に届いただろうか。返答は無く、その代わりに頬に薄い唇が軽く頬に触れて、そのまま下へ、下へと降りていき、首筋に達して――そして、牙が突き刺さった。小さく鋭い痛みを感じながら、吸血鬼の身体を抱き竦める。地平線の向こうから溢れる、曙光から覆い隠すように。
 あの時と同じ、夜明けと痛み。けれど、あの頃とは違う。今はこうして、このひとをここに留めておくことができる。かつては手を伸ばすことも叶わず、名前を呼ぶこともできなかったけれど。
「……ほら、やっぱり全然、甘くないじゃないか」
「ハハ、そりゃそうか。――おい、なんでもう一回吸うんだよ!」
 それでも、夜明けを迎える度に祈るだろう。気付かれないように怯える手の、小さな震えを押し殺して。
 一年が経って、今日がきても――貴方と共に、在れるようにと。