疵になりたい

 多分、健やかに生きたとして、あと六十年ほどなのだ。残された人生は。
 それは決して短くはない時間であるが、比較対象が吸血鬼ならば話は別だ。彼らは不死の体で、永劫の時を生きている。その吸血鬼と共に生きるとして――その記憶に残りたいと考えたら、六十年などは取るに足らない時間のように思えてならなかった。その事実が日々、胸の内を蝕む。歴史に残る偉大な人物になりたいと思ったことは一度もないが、このひとの記憶にだけは残りたかった。それが、人生における終着点、最終目標ともいえた。
「なあ、ロクスブルギー」
「何?」
「アンタって、今いくつなんだ」
「年齢のこと?」
 そう訊ねると、ロクスブルギーは目を伏せて少し思案した。
「……永く生きていると、時間の感覚なんてあってないようなものでね。五百年分くらいのことは憶えていることが多いけど、それ以上は、あまり憶えてない。おそらく、千年はまだ生きていないはずだけど」
 出てくる時間の尺度の大きさに目眩がしそうになりながら、その話を聞いていた。吸血鬼にとっては、二十年程度は本当に取るに足らないような時間なのだろう。ならば六十年だって、気付けば過ぎていく程度の長さでしかないはずだった。
「歳の差が気になるようになったのかい」
「気にしてるよ。いつまで経っても、アンタが俺を子供扱いするから」
「そんなことはない。――子供だと思っていたら、こんな風に戯れたりはしないよ」
 ――とっくに夜も更けた時分。ベッドの上でそれとなく身を寄せあって、気まぐれに口付けたり、肌をまさぐり合っていた。服は辛うじて着ていると呼べる程度には乱れていて、つまりは、そんな雰囲気だ。部屋を訪れたロクスブルギーを、どうにか自然に部屋に留めようとあれこれ話を振っていたが、思惑はとっくに見抜かれていたのかもしれない。しかし、別にそれでも構わなかった。人生は、長くない。手をこまねいて、様々な機会を逃すのはもうごめんだった。そのひとの手を取って、色の無い甲に口付ける。
「……こないだの続き、したいんだけど」
「――いいよ」
 薄く微笑んで了承した、吸血鬼の身体を抱き寄せた。ロクスブルギーは、力を抜いて寛いでいるようだった。その全幅の信頼が愛おしくもあり、同時にとても畏れ多い。どう満足させてくれるつもりかと、試されているような気になるからだ。腕の中で、吸血鬼はおかしそうに笑う。
「君は、僕を抱き締めるのが好きだね」
「いや……なんかこう……」
 真正面から抱き締めるなんて、当然だが、なかなか普段はできないから、などと、そんなことを口にするのもまた気恥ずかしくて、その先を言い淀んでいると、ロクスブルギーの腕が背に回されて、身体がぴたりとくっついた。こうして広い面積で触れ合うと、その身体の冷たさを強く感じる。鼓動はとてもゆっくりで、自分のそれとは対照的だ。どこに噛み付くか吟味するかのように、首筋に唇を這わせ時折小さく吸い付きながら、吸血鬼は囁いた。
「……温めて」
 冷たい手が、腹の下を撫でる。先程から触れ合っていたので、とうにそこは張り詰めている。彼の腰を軽く持ち上げて膝の上に乗せ、後ろの穴を指で解す。このために用意した香油が――やはりそういう用途で使うものだからか――ひどく芳しいせいか、変に緊張してきた。こんな風に、雰囲気を作って行為に及ぶなんてことは、もう随分久しいことだ。いつからか、人と身体を重ねることはただの目的になって、その後にも先にも、何も残りはしなかった。
 けれど、今は違う。遺したいものがある。一時の快楽などではなくて、可能な限り永い時間――その心に刻まれるような何かを。
 十分にそこが柔らかくなってから、ロクスブルギーは僅かに背を仰け反らせて、既にもう漲っているそれを後ろの穴にあてがった。小さく、息を飲む。先日はひどい失態を見せてしまった。意識するとまた前がかりになってしまいそうなので、努めて冷静に振舞った。怒張の先端がそこに触れ、ゆっくりと飲み込まれていく。ぴたりと隙間なく包み込むようなきつい感触があるが、思っていたよりも簡単に、吸血鬼の身体はペニスを根元まで咥え込んだ。ロクスブルギーの振る舞いは淀みなく、多少呼吸が乱れようが、その優雅さは常と変わらない。初めてのことではないのだろう。何百年もの間に、彼に心を乱された者がいなかったはずはない。かつてもこうして微笑んで、誰かを己の中へ招き入れたのだろうか? こんな時にまでそんな考えが過ぎる自分は、心底どうしようもなく、神でも救えないほど嫉妬深い人間だった。その誰かが、彼の身体にこうしてその経験を刻んでいることが羨ましい。こちらは今まさに、どうやって彼の永劫に残る存在になれるだろうかと、苦心しているというのに――
「ルー」
 ロクスブルギーの白い手が顎を掴んだ。目の前の、その瞳の他に、何も見てはならないとでも言うように、顔を引き寄せてくる。
「どこを見ている。余計なことは、考えないで。僕は――ここにいるだろう」
 赤い瞳は常と変わらず美しい色彩で、そしてそれが今は、水を含ませた絵具のように、蕩けたように少しだけ潤んでいる。綺麗だ。確かに、このひとを目の前にして余計なことを考えるのは礼を失するにもほどがあった。反省しながら、ゆっくりとベッドに倒れ込む。
 鼻先を少し触れ合わせてから口付けて、舌を絡ませながら緩やかに腰を揺らす。奥を一定の間隔で突いていると、合間にロクスブルギーが小さく喘ぐ。それは粘っこい水音にかき消されてしまいそうなほど微かな声で、耳をそばだてていないと聞き取れない。絡みついてくる滑らかな脚が腰や尻を撫でるので、こちらも不意にぞくっとして、身体を震わせてしまう。それを気付かれていませんようにと願ったが、口の端を僅かに持ち上げて微笑んでいる彼の様子を見るに、気付かれているようだ。なんとなく悔しい気持ちになりながら、腿を腕で抱え込んで強めに奥を突き上げると、吸血鬼が背を仰け反らせて少し高い声で鳴いたので、思わず胸が高鳴った。そんな淫らな声も出すのか――と、新鮮な気持ちになりながら、繰り返し繰り返し、深いところまで突いた。内側の肉は、張り詰めたものから精を搾り取るように吸い付いてくる。しっとりとした肌のぶつかり合う音と、繋ぎ目で精液が泡立つ水音と、互いの名前を呼ぶ声が、暗い部屋の中に響いた。
「ッ……、も……イきそ……ッ」
 絶頂を予感していると、背中に回された腕に僅かに力が込められ、抱き寄せられる。達しようと律動を速めて中を擦っていると、不意に恍惚とした声色でロクスブルギーが言った。
「――……いただきます」
 次の瞬間、ちくりと覚えのある痛みが肩口に走る。吸血鬼が噛み付いたのだ。全身に毒を流し込まれたような目眩とともに、そこから血が溢れてくる感覚があって――その快楽に混乱してるうちに、射精した。粘ついた精液が吐き出され続ける間、身体は小刻みに震え、それを鎮めるように彼の身体に縋り付いた。その間、吸血鬼はやや恍惚とした様子で、小さく口付けを繰り返すように、血の滲んだ傷口を舐っている。腹に触れている吸血鬼のものは、少しばかり固くなって先走りを零しているものの、精を吐き出すには至っておらず――独り善がりだな行為だな、と自虐的に思った。そうしていると、耳元でロクスブルギーが囁いた。
「……温かくて――気持ち良いね」
 全身で擦り寄るように抱き締められると、嘘のように幸福感が押し寄せてきた。それでもなお、疑り深く訊ねる。
「……本当に?」
「うん」
 上気した声は、偽りでないと示しているように思えた。ほっと胸を撫で下ろしていると、小さく彼が吹き出した。微笑ましく思われているのだろう。途端に顔が熱くなってきた。相手は何百年も生きている吸血鬼なのだから、こちらがどれだけ成長しようが、子供のように思われてしまうとしても仕方の無いことではある。だけど――それだけでは嫌だ。それだけではきっと、過去の有象無象の誰かと、変わらないから。
「……アンタがイくところも、見たい」
「そう? じゃあ――もう一回してみる?」
 そう言って、ロクスブルギーは耳朶に噛み付いた。歯を立てずに唇だけで食みながら、艶かしい吐息で鼓膜を擽る。その些細な刺激によって再び、腹の下は熱を帯び始めていた。人の気も知らないで、本当にお気楽で単純な身体であることだ。吐き出した精を中に擦り付けるように腰を動かして、余裕綽々に弧を描く唇にキスをする。舌を差し入れると、じわりと、口の中に鉄の味が広がった。自分の血の味はこんな感じなのかと、ぼんやりと思った。
「おいで、ルー」
 誘われるままに、もう一度抱き合った。指と指とを絡めながら、肌を擦り合わせながら、隙間無く身体を重ねて、全身の境界線を溶かすように。夢のような時間だ。いつか彼にとっては、遠い遠い過去になってしまうだろう。言ってしまえば、これは徒労だった。そんなことは百も承知だ。徒労になるとしてもそれは――愛さない理由には、ならないのだから。
 小さく、息を飲む声が聞こえた。背中に回されている腕がそわそわと忙しなく、そして背中に爪を立てられる。仰け反った身体が小さく震え、腹に生温いものが飛び散る感触があった。絶頂に達した身体は微かに震えている。身体やシーツが汚れるのも構わず、その滑りを感じながら、痙攣している中を擦り続けてほどなく、二度目の射精を迎えた。汗と涎と精液でどろどろになった身体で、二人して荒い息を吐く。ベッドの上に並んで転がり、しばし無言の時間が続いた。仰向けのまま、呟く。
「……ロクスブルギー」
「……なに?」
 愛してると言ったら、重いだろうか。しかし重くなく思われてもそれはそれで納得いかない。そう、言葉を吟味する。どうにかして、彼の命の、傷になりたいと願いながら。
「――俺の全部、アンタにやるよ」
 これから先の時間。名前のつくものも、つかないものもひっくるめた感情すべて。身体に流れる血の一滴に至るまで。全部全部、あげるから。だから、どうか、永遠に痛む傷にしてくれ。いつか遠い未来に、今日みたいな夜を思い出しては、顔を歪めて泣きたくなるような、傷にしてくれ。そんな風に考える乱暴なこの感情を、果たして愛と呼んでもいいのだろうか。
「……そうだね。君は、僕のもの。それをどうか――忘れないで」
 忘れないで、なんて。そんな言葉をこちらが言われることになるとは思わなかった。隣を見ると、ロクスブルギーは微かな笑みを浮かべていた。その微笑みの裏にどこか切実さが込められているような気がして、簡単に返してはいけない気がして、うまく言葉が出てこなくて、白くて肉の薄い頬を掌で撫でた。ロクスブルギーは目を細めて、されるがままに撫でられている。吸血鬼は睡眠をとらなくても良いはずだが、そのうちに瞼はぴたりと閉じて、眠りについたようだった。
 静かな部屋。カーテンの隙間から差し込む星明り。先程までの荒っぽい行為が嘘のように、穏やかな時間が流れて、火照った身体が夜の空気で少しずつ冷めるにつれて、瞼が重くなっていく。
 いつか、いつかの遠い未来。今日みたいな夜を、思い出してもらえるだろうか。そのときに、泣いてくれたら嬉しいと思う。思い出して、顔を歪めて泣きたくなるような、そんな傷になれたら良い。そう思いながら、眠りについた。