人間は弱い生き物だから

 人間はとても脆い生き物だ。老若男女の個体差はあれど、そのどれもが等しくか弱い。勿論、この家の主も例外では無い。彼は二日ほど前、雨の中ずぶ濡れになって帰ってきて、案の定、風邪を拗らせた。何故そんなことになったのかと問い詰めると、畑仕事をしている老女が荷運びに難儀していたので、手伝っていて雨に降られた、とのことだった。斜に構えた振る舞いをしているくせに、性根の善人さは隠しておけないらしい。――とにかく、その心優しくか弱い同居人の為に、口当たりの良い食事を用意しているところである。
 鍋の中では、赤く瑞々しい果物が小さな泡を立てて煮えている。さながら新鮮な血液のように美しい色彩に、我ながら良い仕上がりだと思わず頷いてしまう。果実が煮崩れてとろみのついたそのスープを器に注いで、同居人のもとへ持っていく。同居人は渋い顔をして、天井を睨めつけながらベッドに横たわっている。
「食事を持ってきたよ」
「ああ、ありがとう……」
 喉が荒れているからか、彼は少し嗄れた声でそう返事をして、半身を起こした。その横に椅子を置いて腰を下ろし、スープを匙で掬って差し出す。彼は渋面を一層深くして、弱々しく声を上げた。
「ひ、ひとりで食える、から」
「駄目だ。君はすぐ無理をするから」
「くっ……飯食う程度、何を無理するところがあると……」
 言い訳を始めたので、視線で制する。何故人間は、少々雑菌に侵された程度で調子を崩す肉体の脆弱さに、こうも鈍感でいられるのだろう? 有無を言わせぬ態度を貫いていると、彼は諦めて差し出された匙へ口をつけた。反応を見るに、味は嫌いでは無いようだ。続けて数口分掬ってやってから、感想を求める。
「どうかな、味は」
「美味いよ。……食事というよりか、デザートだけど」
「甘いものは多くの人間が元気になると聞いた」
「まあ、間違っちゃないけどさ」
 彼は苦笑いしてから口を軽く開け、次の一口を催促してきた。大人しく従ってくれる気になったらしい。賢明で殊勝な心掛けは評価すべきだろう。そのままスープ一杯を平らげて、彼は再度横になる。その額に手を置けば、ひどく熱く感じられた。しばらくそうしていると、小さな咳の後に枯れた声が続いた。
「……アンタの手、冷たくて気持ちいいや」
「じゃあもう少し乗せておいてあげる。このまま少し眠るといい」
 繊細な猫の頭を撫でるように、繰り返しゆっくりと額を撫でていると、次第に彼の瞼は降りていって、やがて完全に閉じてしまう。静かな部屋に、呼吸の音だけが聞こえている。時折空気の引っかかるような苦しい寝息が聞こえてきて、心がざわつく。
 君は心配性だと言うのだろう。けれど事実、人間は驚くほど弱い生き物だ。吸血鬼ぼくとは、当然比ぶべくもない。些細だと思っていた病で、なんてことない擦り傷で、命を落とした人間たちを何百年もの間見てきた。だから、心配するのは当然のことだ。大切に思う人間ならば、なおのこと。
「……早く、良くなるんだよ」
 元気になって、安心させて。そしてまた、君の血を頂戴。
 そのためだったら――あの憎たらしい太陽を背負う神様とやらにだって、祈ってやっても、構わないのだから。