どうにかしてって言ったら、
――吸血鬼と生活を共にするようになって、しばらくが経った。これまで駆けずり回っていた時間への報奨とでもいうように、このひと月ほどは大きな事件も無く、穏やかな時間が続いている。休日前の巡回を定時で終えられることは、何物にも代えがたい幸福のひとつだ。引き継ぎを済ませ、定時を知らせる鐘がなると同時に、少々浮ついた足取りで帰路に着く。
帰宅すると、家の中からは物音が聞こえてきた。カチャカチャ、コトコト、それらは長らく家の中で聞くことのなかった音で、一瞬、遠い昔に記憶が引っ張られていくような、そんな心地がする。そんな懐古に耽りながら、早めにカーテンを締め切ったリビングに足を踏み入れると、小さなキッチンから吸血鬼――ロクスブルギーが顔を覗かせた。
「おかえり、ルー」
「ただいま」
「食事がもうじき出来上がるから、席について待つように」
「ありがとう。助かるよ」
上着を脱いで楽な格好になり、身繕いをしてからテーブルにつき、キッチンに視線を向ける。ロクスブルギーは意外にも、家事が一通りなんでもできた。もちろん何百年も生きているのだから、何ができたって不思議では無いのだが、剣の一振りで化け物を縊り殺すような力を持っている吸血鬼が、キッチンに立って真剣な顔で鍋をかき混ぜている姿を、普通はあまり想像できないだろう。彼が饗してくれる人間のための食事は、贔屓目が過分に含まれるとしても美味だった。
こちらが食事をする間、ロクスブルギーは静かにその様子を眺めている。吸血鬼に人間と同じ食事は必要無い。だから別に、同席せずに好きなことをしていてくれていいのだが、正面の椅子に腰かけて形の良い脚を組んでは、じっとこちらを見ているのが常だった。正直、視線が少々気になる。透明なスープで煮込まれた鳥の手羽先から骨を外して、淡白で柔らかな肉を味わっていると、不意に正面の赤い瞳と目が合った。ロクスブルギーは抑揚に乏しい声で訊ねてくる。
「美味しいかい」
「うん。うまいよ」
「そうか」
返答と共に、赤い瞳が少し細められた。知っている。これは嬉しい時の顔だ。吸血鬼の見せる表情は大概、鶏肉の味ほどに淡泊で、その感情を読み取るのは少々難儀である。かつて、教会に保護されてからその生活に馴染むまで、ほとんど泣かず、怒らず、笑わずに過ごした自身のことを思い出す。永いあいだ孤独でいれば、表情筋が動かすような用が無くなっていくのも、当然のことだ。
――だから、再会したあの日の彼の微笑みは、特別なものだったのだろうと思う。あの顔を思い出すと、少し気恥ずかしくて、幸せな心地になる。あのひんやりとした頬を、少しでも蕩かすことができたのなら、それはとても嬉しいことだった。
食べ終えた食器を綺麗に洗って片付けてしまってから、リビングのソファに腰掛ける。人間が食事を終えたら、今度は彼の『食事』の番だ。ロクスブルギーは日中に労働をしない限り、それほど血を必要としてはいないようだったが、やはり定期的に血を飲む方が調子が良さそう――吸血鬼なのだから当然だ――なので、こちらが休日の前夜には『食事』をするように提案した。血を吸われて多少怠くなっても、無理して動く必要が無いからだ。なので、今日がその『食事』の日である。
隣にロクスブルギーがやってきて、指先で首筋を撫でた。ぞわぞわとするその感覚は、人間の本能が反射的に危険を訴えているのだろうと思う。事実、これは危険な行いだ。自分の命を皿の上に綺麗に盛り付けて、差し出しているようなものである。しかし、身体が干からびるまで血を吸いつくされる心配はない。そう信じているから、できていることでもある。
吸血鬼が、ただひとりの人間のためだけに食事を手ずから用意するように――この血は、ただひとりの吸血鬼のためだけに、饗されているものだ。
「いただきます」
人間の作法に則った挨拶ののち、ひんやりとした唇が、首筋を優しく食んだ。次の瞬間、皮膚を破る一瞬の鋭い痛みと、牙が肉に沈んでいく鈍い痛みとが順にやってくる。その次に現れるのは、甘い毒で麻痺するような、恍惚とした脱力感と頭痛。溢れる血を飲み込む音と、噛み付いた唇から漏れる吐息が、湧き上がってくる何がしかの感情を膨れ上がらせた。
「――ん……ごちそうさま……」
ロクスブルギーは首筋から唇を離して、舌先で傷口の血を舐めとった。不意にきた舌の感触に思わず肩が小さく跳ねたが、平静を装って訊ねる。
「……もう、いいのか?」
「ああ。君の健康を、損ねるわけにはいかないからね」
そう言って吸血鬼は再び目を細めて、こちらに手を伸ばして頬を撫でた。喩えるなら、その様子は人間が飼い犬を撫でるような慈しみに満ちている。その手に喜んで擦り寄ってしまうものだから、人間の矜恃などちっぽけなものだ。犬だろうと構わない。今の生活が、どうしようもなく幸せだからだ。
されど――ひとつ困っていることがあるとすれば、持て余しているこの劣情の行き場だった。
ロクスブルギーが血を吸うために牙を突き立てる度に、どうにも身体が疼いて仕方がなかった。これは吸血鬼に備わる体質と、己の性癖が嫌な相乗効果を発揮してしまっているだけなので、彼に一切非は無い。無いのだが、血を吸い終わり、唇を舐めながら満足気にしているロクスブルギーを、少々恨めしく思ってしまう時はある。――そのひと噛みで、這う舌の滑らかさで、鼓膜を震わす嘆息で、どれだけこちらの情欲が煽られているかなど、彼は考えもしないだろう。ロクスブルギーは唯一無二の友人であり、家族であり、神様よりも信ずるに値するものだが、悲しいかなこの欲求には逆らい難い。懸命に過去の美しい思い出を引っ張り出してきても、与えられる快感には抗えない。熱がじわじわとそこへ溜まってくのを感じながら、ぼんやりと考える。
――めちゃくちゃに、されたい。したい。
頭の中がそんな煩悩で埋められていく。頬を撫でられているだけなのに、気を抜けば吸血の余韻で勃起してしまいそうだった。それくらい、昂っている。それを悟られるのはさすがに気が引けた。そんな卑しい目で見ていると知れたら、ロクスブルギーがどう思うかなどは、考えたくもないことである。彼の温かな信頼と愛情を、砂粒ひとつほども損ねたくはなかった。早くこの和やかな触れ合いを終えて、気付かれないようにこの欲をどうにかすべきだ。
にもかかわらず、今日に限って吸血鬼は、何が楽しいのか延々と頬の肉を捏ねてくる。何かしら理由をつけて一度部屋へ戻ろうと考えて口を開こうとしたところで、唐突に吸血鬼が口を開いた。
「――なにか、して欲しいことは?」
「は」
心臓が跳ね、口からは間抜けな声が転がり出た。まさかもはや下半身の限界が来たのかと思ったがそんなことは無い。どうにか行儀良く耐えている自身を窘めるよう気を張っていると、頬を撫でていた手が滑り、顎の先を、筋張った喉笛を、その指がなぞっていく。
「僕は、君に報いると約束した。君の望みは、なんでも叶えてあげたいと思っている」
「……なん、でも」
「そう、なんでも」
赤い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。心の奥底まで、見透かされているかのようだった。いや、本当に見透かされているのかもしれなかった。この、友情と、親愛と、信仰と、劣情が複雑に絡み合った、愛しの吸血鬼への感情を。
――腕を引いて、ロクスブルギーを抱き含めた。ほんのひと回り小さな、無抵抗の身体を持ち上げて膝の上に乗せ、下半身を押し当てる。いよいよそこはもう、はち切れそうになって服を押し上げていて、その欲求はもう、隠せそうにもない。どうせ見透かされているとしたら、隠したって仕方の無いことだ。そんな開き直りは強気な言葉になって、口を突いて出た。
「……どうにかしてって言ったら、してくれるのか?」
縋り付くように見上げながら問いかけると、吸血鬼は――先程と同じように、目を細めた。それがどんな感情を表しているかは、言うまでもない。
「……横になって」
耳元に唇を寄せて、ロクスブルギーが囁いた。耳にかかるこそばゆい吐息に従って、狭いソファにゆっくりと仰向けになる。四つん這いのような姿勢になった吸血鬼は、細めた目を逸らさない。彼は片手で器用に、こちらのベルトを外してしまった。
「……体感しての通り。吸血鬼の牙には人間に対して、特殊な効き目がある。性的な快楽を誘引する。思考を鈍らせて、抵抗できなくさせる。酒に酔うのに近いのかもしれないね」
耳障りの良い声でそう言いながら、白い手が服と肌の隙間に差し入れられる。温度の低い指が、下腹部を撫で、熱く漲ったそれを、絶妙な力加減で握った。
「それは吸血鬼にとって、とても都合が良い。人間に大人しく血を吸われてもらうためにも、僕たちの存在をおぼろげな記憶にしてもらうのにも」
そんな話をしながら、ロクスブルギーは勃起したものを握った手を、根元から先端へと緩やかに動かした。先端からは既に滑りのある汁が溢れており、次第にそれが、ぐちゅぐちゅと音をたて始める。この美しい吸血鬼の手を、欲望の滴りが濡らしている。情けない自分の声が口から漏れ出てくる羞恥に追い立てられて、下唇を強く噛んだ。構わず、吸血鬼は話を続けた。
「人間には二通りいるらしい。ひとつは、吸血鬼に繰り返し噛まれているうちに、この効果に慣れてくる人。そしてもうひとつは、それがくせになってしまう人――」
ロクスブルギーの指先は、怒張の先端を必要ないほどに優しく、柔らかに扱いている。
「……どうやら、君は後者だったみたいだ」
納得したようにそんなことを呟いている呑気な吸血鬼に、焦れる気持ちが沸き起こり、思わず声が荒くなる。
「わ――分かってるなら、もう……はやくっ、」
勢いよくそこまで飛び出した言葉だったが、不意に正気に返り、その続きが喉の奥に引っ込んだ。――今、大変なことを口にしようとしてはいなかったか? ばくばくと心臓の鳴る音ばかりが鼓膜を打った。
「早く――なに?」
僅かに首を傾げる、ロクスブルギーの顔がすぐそばにある。幼い時分、棺の中の彼の顔は覗き込むばかりだったが、今はこうして、こちらが覗き込まれる側だった。その先の言葉を促すように、赤い瞳がゆっくりと瞬く。その美しい光彩に、こちらの姿を映している。その痴態はまさしく、胸の内の欲求そのものだ。底の底まで覗き込まれては今更――何を隠そうとも、無駄なことだろう。
「――く……はやくっ……はやく、イかせて……くれ、よッ……!」
思っていたよりもはるかに上擦った声になって出てきた言葉に、吸血鬼の目がすっと鋭く細くなった。嬉しいときのそれとは違う、その感情が何だかは図りかねたが、それはとても美しくて、とても――
とても恐ろしくて――興奮した。
――次第に、手の動きは緩急をつけて不規則になった。もっと速く、強く、刺激が欲しい。波のように与えられる快楽に焦れったくなり、自ら腰を浮かせてその手に擦り付ける。気持ちが良い。思考が単純に塗り潰される。自分のものとは思えないような喘ぎ声と、ねっとりとした水音を、どこか他人事のように聞きながら、快感に身を捩った。不意に手を離され、乱れた呼吸を気持ちばかり整えていると、布の擦れる音がしてから、ロクスブルギーが口を開いた。
「……このまま最後までしようか、それとも――」
剥き出しで聳り立つものに、柔らかなものが触れた。狭いソファの上で、膝立ちになりながら、ロクスブルギーは着ていたシャツのボタンを順に外していく。上から段々と顕になる、彼の肌から逃れるように視線を下へと滑らせれば、シャツの裾からは白い脚が剥き出しになって見えていて、スボンが床に脱ぎ捨てられているのが見えた。ほとんど裸になって、恥じらい無く、惜しげも無く肌を晒して――彼は問いかける。
「中の方が、いい?」
腿の内側の肉が、怒張の先端に触れる。吸血鬼がその、絹のように滑らかな脚で控えめに先端を擦っているのを目の当たりにして――突如として何かが沸き立つような感覚と共に、目の前が真っ白になった。
「――ルー、あまり気に病むことはないよ」
自室のベッドに移動し突っ伏していると、その淵に腰掛けたロクスブルギーは延々と頭を撫で回してきた。彼は至って平常心である。人間の大の男に、剥き出しの腿目掛けて射精されたばかりであってもだ。痴態を晒した挙句、初めて意中の子をベッドに連れ込んだ童貞のような失態まで犯してしまい、様々なものが傷ついた心地だった。優しく頭を撫でる手が、こんなにも辛く感じることはないだろう。いっそ雑魚と罵ってくれるほうが良い。
「今日はもう寝たほうが良い。僕も随分、血を貰ってしまったからね」
ロクスブルギーがそう言って手を離すと、身勝手なことに物凄くその手が恋しくなり、立ち上がって去ろうとするところを捕まえてしまった。――さっきまでこの手が自分の身体をめちゃくちゃにしていたことを思い出して顔が熱くなるが、吸血鬼の目を直視することを避けて、訊ねた。
「……引いた?」
「何が?」
「……アンタに……アンタと、ああいうことしたいと思ってる、ってこと……」
彼は報いてくれると言った。それは彼のために費やした人間の時間に対してそうしてくれるのであって、彼の感情そのものは二の次なのだと思っている。ロクスブルギーは永劫の時間の僅かを割いて、どんな形ででも報いてくれるつもりだろう。内心はどうであってもだ。このひとに、嫌われたり、呆れられたりはしたくない。邪な目を向けている、それは真実だがそれ以上に、温かな心を通わせることができた、愛しいひとだからだ。
「……嫌じゃないよ」
穏やかな声が返ってきて、おそるおそるその目を見た。ロクスブルギーは縋りついたこちらの手を握り返して、手の甲に口付けた。
「君が僕のことを、多くの意味で好きなのは知っているから。そのどれも、僕は別に嫌じゃない――さあ、もうお休み。……続きは、また今度にしよう」
ベッドに優しく――しかし有無を言わさぬ力で――押し戻される。彼は淀みない足取りで部屋を出て、努めて静かにドアを閉めた。仕方無く天井を仰いで目を伏せ、眠ろうと試みるが――
続きは、また今度――
ロクスブルギーの言い残していった言葉が、ぐるぐると頭の中を回っている。また――また今度しようというのは、また今度、不埒なことをしようという、そういう意味だろうか? 続きというのは、今度は身体を重ねようという、そういう意味なのだろうか? 今度っていつなんだろうか? そもそも自分が都合良く言葉を受け取っているだけなのではないか? ――などと考えていると、身体を撫でる手の感触が思い出され、萎えたばかりのそこが再び、じわじわと熱を帯びてくる。
「……眠れるわけ、なくないか……」
自分の身体の正直さにほとほと呆れながら、ひとりでそれを懸命に慰めて、もう一度精を吐き出してようやく――この長い長い夜に、幕を下ろすことができたのであった。